宗信寺かわら版

ここは宗信寺からのご連絡やご報告、また、お寺とご縁ある方々にご登場いただく情報コーナーです。

コーナー
宗信寺の檀家さんや信者さんをご紹介させて頂きます。



被災地へ 〜その〜
12月の支援活動は以前よりお伝えしておりました通り『サンタ・プロジェクト』が実施されました。3月の東日本大震災発生直後より継続して行われてきました宗信寺の支援活動はその都度、被災地の現状を出来るだけ把握して被災地の皆さんが必要とされる支援内容を実行してきました。ですからその内容を振り返ってみますと当然のことながら現実的な内容のものがほとんどでした。
そんな中、今年も年の瀬を迎え大きな被災を免れた地域ではおかげ様で意識しなければ何ら例年と変わらないこの時期ならではの風景が街中にあふれていました。店舗のショーウインドウは様々なデコレーションで飾られ、街路樹などにはイルミネーションが輝き、一瞬現実から逃避出来そうな幸福な雰囲気を見る人誰もが受けることの出来る光景がありました。ただ、被災地の多くは街路灯すら充分に復旧出来ていないのが現実で、夜は本当に真っ暗な闇に包まれてしまいます。この『サンタ・プロジェクト』を発案した最大の理由は“笑顔”でした。被災地の方々に少しだけでも笑顔になれる、そんなきっかけを提供したい!その思いからこの計画はスタートしました。笑顔を提供したいと思うのは時期に限らず常日頃より考えていることです。しかし、年末というのは本来であれば家族や友人同士、集まる機会も増え、プレゼントを受け取ったりケーキを食べたりしていつも以上に皆が幸せを感じて、いつも以上に沢山の笑顔に会える時期でもあります。そんな時期だからこそ被災地の方々にもいつも以上の笑顔のきっかけをお届けしたいと考えたのです。そしてクリスマスの時期でもあるので、その支援内容を『ケーキのお届け』と『子供たちへのプレゼント』という内容にし、実現に向けて準備に取り掛かりました。
今回の支援対象とさせて頂いた女川町の清水地区仮設住宅は全部で144戸、そしてそこには85名の高校生以下のお子さんが生活しています。そこでケーキは全戸に、プレゼントは対象のお子さん全員に贈らせて頂く事にしました。まず最初に取り掛かったのはケーキの手配でした。この点につきましては真っ先に連絡したい当てが私の頭の中にはありました。それは宮城県仙台市宮城野区にある仙台コミュニケーションアート専門学校でした。実はこの学校は宗信寺のある檀家さんが運営している全国にある約25校の中の一校で実は私自身、開校以来3月には毎年御祈祷に伺っている学校です。こちらには「カフェ・パティシエ科」というコースがあり、将来飲食に携わることを目標にした多くの学生さんたちが学んでいます。学生さんの中には海外からの留学生の方々もいますが、ほとんどが宮城県を中心とした東北地方の出身の皆さんで、しかも教職員の方々を含め、この未曾有の大震災を全員が経験されていたのです。事実被災当日から学校の校舎は帰宅先を失くした学生や教職員、更には御家族の方々の避難所として100人を優に超える方々が身を寄せる避難所になりました。また学校の学生さんお1人を含め、最愛の御家族がこの大震災で尊い命を亡くされた方々もいらっしゃいました。そうした辛い経験をされても尚、将来の夢を失わず勉強を続けられている学生の皆さんに同じ被災地の方々の為に是非ケーキ作りを担当して頂きたかったのです。確かに被災地以外の製菓店等から必要な数のケーキを調達するという手段もありました。しかし、私にとってそれは最後の、つまりはやむなき時の手段でした。実際にケーキを受け取られる皆さんの事を考えても縁もゆかりもない所からケーキが届くよりは地元で同じ困難を経験した若者が作ったケーキの方がより身近に感じて頂け、喜びもひとしおなのではないかと考えたのです。
実際に学校側に御相談させて頂いたのは11月の月末でした。学校側からは即座に快諾の旨の御連絡を頂くことができました。そこからは御担当の先生と綿密な打ち合わせを重ねていきました。そして最終的には清水地区仮設住宅分144個に加え、妙照寺の近隣住民の方々、そして女川町復興支援センター職員の方々の分も合わせて計160個のケーキを作り、更には生クリームが溶けないようにと女川町までの保冷車による運搬も合わせて引き受けて頂くことが出来ました。また、支援当日は学生さん15名、教職員4名の計19名の方々が支援活動に参加して下さることになりました。
ケーキの手配と同時に進められたのがお子さんたちへのプレゼントの手配でした。このプレゼントの手配には大きなこだわりがありました。一般にプレゼントというと贈る側がその品物を選ぶという事が多く見受けられますが、今回はその目的が“子供たちの笑顔”でしたので、どうせならその笑顔が“とびきりの笑顔”になるようにと11月の支援の折、清水地区仮設住宅の世話人さんにお願いをさせて頂き、お子さんたちが欲しいものを事前に申し込んで頂くことにしたのです。そして12月中旬、対象のお子さん全員の“欲しいプレゼント申込書”が届いたところで80個を超えるプレゼントの手配が始められました。無論、この作業には今まで同様、多くの方々の御協力があったことは言うまでもありません。プレゼントの品を一覧表に整理して支援者の皆さんにご連絡をし、各自御担当頂けるプレゼントをお選び頂きました。また、当然私も買い出しに東奔西走いたしました。正直なところ、零歳児の小さなお子さんからもうすぐ社会人になられる高校3年生のお子さんが今回のプレゼント対象者でしたので、御希望の品のジャンルは予想以上に広く、商品名だけでは何の事だかすぐに把握できないものも多々ありました。また、小さいお子さんの多くが希望されたキャラクター商品も私自身ちんぷんかんぷんの名前も多く、支援者の皆さんには大きな御苦労をおかけすることとなってしまったように思います。しかし、そんな中「久しぶりにおもちゃ屋さんに行くことが出来て本当に楽しかったです!」といったお声も届き、少しだけ胸を撫で下ろすことが出来ました。また、世の中はクリスマス直前という事も手伝って在庫が見つからないもの、ネットショップでもすぐに入手出来ないものなどあったのですが、本当に多くの皆さんの御協力により、頂いたプレゼント申込書に書かれた品物は22日の出発時点までに全て揃えることが出来ました。
様々な形で御協力を頂きました全ての皆様に心より御礼申し上げます。
被災地へ 〜その〜

被災地へ 〜その〜


こうしてケーキとプレゼントの準備も無事整い、22日の夜宗信寺東京布教所に集まった10名の支援スタッフはプレゼントの満載された2台の支援車両に分乗して女川に向けて出発しました。そして翌23日午前8時、仙台コミュニケーションアート専門学校第二校舎前で19名の学校関係の皆さん、更には5月の支援に参加して下さり今回も大きな御協力をして下さった(株)イシックスの猪股社長ご夫妻も加わり、総勢31名の合同支援チームは結団式を経て、慎重にケーキが積み込まれた保冷車の一足早い出発を見届けた後、車列を組んで女川町に向かいました。
被災地へ 〜その〜


午前10時頃女川港に到着後、全員で犠牲者の方々への供養を勤めました。当日は日中でも気温が0〜1℃程しか上がらず冷たい寒風も吹きつけましたが参加した方々は皆、読経が行われたしばしの間、頬や指先を赤く染めながらも一心に亡くなられた方々を偲び御冥福をお祈りしました。供養を済ませた後は、女川町復興支援センターに活動内容を告げると共にケーキをお渡しし、次いでいよいよ清水仮設住宅に到着しました。今回参加してくれた15名の学生さんは全員コックコートを纏いサンタの帽子をかぶった出で立ち、宗信寺支援隊のスタッフも2名がサンタクロースになってそれぞれがケーキのお渡しとプレゼントのお届けの作業に取り掛かりました。当日は天皇誕生日で祝日ということもあり、不在の方は比較的少数でほとんどの世帯とお子さんに直接ケーキとプレゼントをお渡しすることが出来ました。お届けした品々と引き換えに今回参加した私たちは被災地の皆さんから沢山の“笑顔”を頂くことが出来ました。1時間少々の作業時間で無事ケーキとプレゼントをお渡しすることが出来ました。その後は仮設住宅の集会所をお借りして地元で有名なお店の天丼を出前して頂き、名物のアナゴ天丼とあら汁を参加したスタッフ全員で頂きました。お弁当を持参することも当然可能でしたが、多少なりとも地元に貢献できればとの思いから第一保育所元所長の梁取先生に御紹介頂いたのですが、さすが行列の出来るお店というだけあって格別のおいしさでした。そして片づけや諸作業を済ませた後、学校関係の皆さんとはここでお別れすることになりました。別れ際に1人ずつ握手をしてお別れしたのですが、学生さんたちの笑顔とその両手から伝わってくる気持ちが何とも心強く感じたのは言うまでもありません。この学生さんたちは今暫くの勉強や実習を経て、近い将来職業人として社会に巣立って行きます。その前に自らが一生懸命作ったケーキを受け取った相手の方から“ありがとう!”という言葉を頂くという貴重な体験を今回されました。職業人としてケーキを作る時は当然のことながら商品を購入した方からは金銭を得るわけです。しかしながらその場に及んでも“相手の方に喜んで頂く”という事が最も大切なのは明確です。その基本中の基本といえることをこうした支援活動を通じて体験されたことはきっと彼らにとって将来掛け替えのない経験となったことでしょう。
被災地へ 〜その〜

被災地へ 〜その〜

被災地へ 〜その〜


学校関係の方々がお帰りになってしばらくして、私たちは妙照寺の近隣の皆さんにお届けするケーキをもってお寺に向かいました。するとお寺にいらっしゃったのは御住職の鈴木上人ただお1人でした。いつもご一緒の奥様の姿が見えないのでお聞きしたところ、なんとしばらく前から体調を崩されてご入院されているとのことでした。震災直後の3月、私が初めて女川、そして妙照寺をたずねた時に、到着するなり温かなお茶をご用意して焚火に御案内下さった方です。その後も毎回いつも笑顔で私たちを迎えて下さり、気丈に振る舞っていらっしゃいました。その奥様が何とご入院されてしまったというのです。『サンタ・プロジェクト』をほぼ無事に終え、安堵していたのもつかの間、大震災の未だに大きな爪痕を残すその現実に引き戻される思いでした。ご体調が優れないという事での御入院だそうですが、やはり直接的な原因は大震災とその後のあまりにも長く過酷な被災者としての生活からくるご心労とのことでした。お寺自体が大きな被害を被りながらも寺庭婦人としてお寺の為、檀信徒の為、更には近隣の皆様の為に昼夜を問わず活躍されていた奥様でしたが、ついに入院を余儀なくされてしまったのです。願わくは心身共にゆっくりとご静養されて、また以前の元気でやさしい笑顔を取り戻して頂きたいと思います。
実は少し前に第一保育所からも心配な知らせが届いていました。避難所としての保育所を支えた保育士の方々の中で3人ほどの方がやはり静養が必要な状態で休職中だというのです。梁取所長先生を中心に抜群のチームワークと団結力で幾多の困難を乗り切って、ようやく悲願の保育所再開を果たした今、あろうことかこうしたことが現実に起こっているのです。やはり再開までの半年間がいかに困難を極めた時間だったか、そして未だに将来のビジョンが全く示されないことによる大きな不安感がどれだけのものなのか、察するに余りあるものがあります。大震災によって傷ついたもの、壊されたものは街だけではありません。家族のつながりや人々の心も大きく傷つけられてしまったのです。今、政府は被災地域の自治体と協力して街の復興プランを検討しています。安全な環境を現実に叶える為のもののはずです。ただし、その復興された町で新たな生活を始めるのはそのほとんどが今回被災されてひどく傷ついた方々なのです。ですから地域の復興を進めることは急務にほかなりませんが、同様に心の傷ついた方々への出来る限りの配慮も決しておろそかになってはなりません。どんなに良い環境が整ったとしてもそこで住み暮らすのは人なのです。逆に元気な心、前向きな強い意志を持った方々が集結出来れば、まだまだ予断の許されない中であってもきっと力強い活力がそこに生み出されるのではないでしょうか。歴史を振り返ってみてもその点は大いに期待できるところです。かつて多くの日本人は北海道は無論のこと、サイパン、グアム、バリ、ハワイ、遠くはブラジルと開拓移民として海を渡って行きました。日本を離れてからの生活はどれも困難を極めたと聞き及んでいます。しかしその幾多の困難を乗り越えられたのは移住した日本人には皆、強い希望や夢があったからにほかなりません。こうした歴史から私たちが学び実践すべきは、被災地でこれからも生活を望まれる方々が将来の夢や希望の持てる環境を1日でも早く整えていくことです。国も私たちも、大きな力も小さな力も皆そうしたことを目指すことが今はとても大切な時なのです。“心重ねて・・・被災地と共に”。いつも心においておくべき言葉です。

12月の支援活動についての御案内とお願い
『サンタ・プロジェクト』


今月も宗信寺支援隊による活動は継続して行われます。支援実施は12月23日を予定しています。主たる内容は下記の通りです。

仮設住宅にケーキのお届け
清水地区仮設住宅全戸に約150個のクリスマスケーキをお届けします。なお今回このケーキ作りを担当してくれるのは宗信寺の御檀家様が運営されている仙台の専門学校の学生さんたちです。自らもこの大震災を体験し被災したにも関わらず今も御菓子作りのプロフェッショナルを目指して勉強している仙台の若い方々が同じ宮城県の仮設住宅の皆さんにケーキを作りお届けします。

プレゼントのお届け
仮設住宅の子供たちにプレゼントを届けます。現在清水地区仮設住宅には高校生以下のお子さんが85名いらっしゃいます。その子供たち全員に希望する品物をプレゼントします。事前にお願いした「プレゼント申し込み用紙」はすでにこちらに届いています。現在個々のプレゼントを手配中です。被災地の子供たちに笑顔を届けたいと思っています。

<備考>:
” お寺なのにクリスマス? ”と不可思議に思われる方もいらっしゃるかも知れません。
 しかしながらここ日本におきまして敬虔なキリスト教徒の方を除いてクリスマスは宗教的行事というよりはこの季節の風物、誰もが楽しみにしている時期ということで被災地の皆さんに少しでも安らぎがお届けできればとの思いから今回こうした支援を実施する事といたしました。皆様のご理解と御協力を頂けますと幸いです。

※支援活動への質問や支援内容のお問い合わせなどは恐れ入りますが下記までご連絡下さい。

電 話 0463-59-7235 宗信寺
メール myoho@soushinji.com



被災地へ 〜その〜
10月の『こたつプロジェクト』実施の折、女川町清水地区の仮設住宅居住の皆さんから寄せられた多くのお声の中に“防寒着が不足している”というものがありました。それと同時に8月の盂蘭盆会、9月の秋季彼岸会を過ぎてもいまだ御先祖の御位牌や御本尊などの仏具を揃えることが叶わない方々も数多くいらっしゃることが分かりました。そこで11月の支援活動は必要な数の防寒衣類とご希望の仏具一式をお届けするということを目標といたしまして、10月の支援から戻るとすぐにその準備作業に取り掛かりました。とはいえ、充分に注意を払うべき点が沢山ありました。まず仏具に関しては皆さんそれぞれ宗派が異なりますので御本尊そのものが違います。また、御希望の方の中には香炉等の仏具だけをほしい方もいれば、御本尊も御位牌も全てという方もいらっしゃいましたので、御希望の方々個々に合わせた準備をする必要がありました。また、防寒着に関しましても清水地区には0歳児の小さな赤ちゃんから80歳を過ぎたご高齢の方まで400人以上の方々がお住まいで、しかも男女それぞれのサイズも把握して現状に合った衣類を用意しなくてはなりません。防寒衣類であれば何でも良いというわけにはいかないのです。よってこれらの点は大変恐縮ではありましたが、清水地区の世話人さんや班長の皆さんに御協力を頂きまして、お子さんから成人の皆さんまで必要な男女別のサイズと数をお知らせ頂くこととなりました。一言で“400着”と申しましても、いざ集めるとなるとやはり今まで以上に沢山の方々にお声をかけさせて頂き、御協力を頂かねばなりませんでした。結果、新たに宗信寺東京布教所のある渋谷区の富ヶ谷町会の皆さんにも事情をお伝えし、御協力頂ける事になりました。正直なところ、どれだけ集めることが出来るのか当初は全く予想がつきませんでした。それに加えて不安もありました。何故ならここ関東地方もこれから真冬の季節に向かうのは被災地と同じであり、それぞれの冬の厳しさの違いこそあれ、東北同様どこに居住していてもこれからしばらくは防寒着などの冬物衣類は欠くことの出来ない季節を迎えたからです。これから自らも使おうというこの時期に果たしてどれだけの御提供を頂けるのか?そんな不安がどうしてもぬぐえませんでした。しかし、多くの皆さんにお知らせさせて頂いたところ、そうした私の不安な気持ちはあっという間に解消されたのです!想像をはるかに超えた多くの皆さんからこれまた想像以上の数の防寒衣類をお寄せ頂くことが叶ったのです!その内容をお伝え致しますと、防寒衣類は男女合わせて約800着、セーターなどの冬物衣類約150着、マフラーなどの小物約50点と本当に沢山の支援品が届けられました。更に全体の1割ほどは新品の防寒着も含まれており、またそれ以外の衣類も多くがきちんとクリーニングを済ませてから送られてきました。御支援下さった皆さんの被災地を思うその御心が偲ばれました。

被災地へ

被災地へ


東京布教所に集められた支援物資はスタッフの手によって、男女別、サイズ別に分別作業が行われました。毎日夜遅くまで行われたその作業は結局3日間を要し、出発当日まで続けられました。当初の予定では22日の深夜に出発の筈でしたが、結局は翌23日未明の出発となりました。また、今回は支援車両を2台用意していましたが、支援物資の積み込み作業をしていく内に、それぞれの車両に最大限積んでも積みきれないことが分かり、結局苦肉の策として2台とも運転席と助手席を残して他の座席は全て取り外し、1着でも多くの防寒衣類をお届けすることを心掛けました。そのため、スタッフも4名に絞り込み少人数での出発となりました。こうしてお預かりした全ての物資を積み込んでまだ夜の明けぬ渋谷を目的地の女川町を目指して2台の支援車両は静かに走り出しました。

被災地へ


この日は『勤労感謝の日』という事もあり、被災地へ向かう道中はいつもより交通量が多く、ところどころ渋滞もありました。予定の時間を少し過ぎ、女川港に到着するとすぐに大震災で犠牲になられた方々の供養を営みました。それから女川町の復興支援センターに立ち寄り今回の活動報告を済ませ、目的地である清水地区の仮設住宅にようやく到着しました。現地に到着する前は支援活動の段取りとして、先ずはお持ちした仏具を御依頼の皆さんにお集まり頂き、開眼法要を勤めてお1人ずつお渡ししてからその次に防寒衣類を配布しようと予定していました。私の考えの中にその日常習慣から、“何事も先ずは仏様のことから・・・”という意識があったからです。しかし、実際のところは支援作業の順序は反対になりました。何故なら私たちの到着を多くの皆さんがお待ちになっていらしたからです。仮設住宅敷地内の集会所前の広場に支援車両が到着するとみるみる居住者の皆さんが集まり始めたのです。結果、世話人さんたちへの挨拶もそこそこに早速防寒衣類の配布から取り掛かることとなりました。先ず持参した2枚の大きなブルーシートを広場の中央に敷き、その上に今度は男女別、サイズ別に衣類を広げていきました。こうした作業は居住者の皆さんが積極的に手を貸して下さったのであっという間に整いました。また、お子さん用の衣類は集会所をお借りして室内に広げさせて頂きました。今回は荷物の搭載を最優先したために4人のスタッフしか伺えなかったので多くの“助っ人”の登場はとてもありがたく感じました。皆さんがご自身のサイズやお好みの衣類などを探される作業も班長さんらが率先してお手伝いして下さいました。数分前までは何もなかった寒空の下にほんのひと時ではありましたが、賑やかな活気を帯びた空気が確かに存在しました。この配布作業が行われている間、大震災被災直後から世界中で称賛されてきた東北の方々の優しい人柄にまた触れることが出来ました。実は支援当日は女川港にアメリカ海軍の災害救助船が停泊しており、特別に船内の見学が許可されていました。よってそちらに出かけていた皆さんを含め、防寒衣類を希望した方全員が集まって配布が行われたというわけではなかったのです。そのことを承知していた班長さんたちが“いない人もいるから先ずは1人1着ずつねぇ!”などと大きな声で皆さんに呼び掛けて下さったのです。そして居住者の皆さんもその声にこたえて御自身の物、あるいはご家族の物以外は控えて不在の方々に配慮されていました。かねてより色々な国のメディアが被災地の様々な様子を見て“もし自国で同じような災害が発生したら略奪行為や暴動が起こっても不思議ではない!”といったコメントをして理性的な日本人の規律正しさに感心していましたが、今回も女川の皆さんの様子とふれあいながら“当然のことながらそんなことが起こるはずもない”という事を確信しました。

被災地へ

被災地へ


防寒衣類の配布が一段落した頃を見計らって、今度は集会所において御本尊や御位牌等の仏具への開眼法要がお受け取りになられる皆さんと共に営まれました。規律正しさと思いやりと同時に御先祖を大切にされる東北の皆さんの様子も今まで沢山報道などで見聞きしてきました。そして今回仏具をお届けするにあたり、みなさんのそうした心情をお察しすることとなりました。人一倍ご先祖様を尊ぶ方々がその大切なご先祖様に充分なことが出来ないという非情な現実はどれだけ御心痛を与えていたのでしょうか・・・。開眼法要が終了し、いよいよ個々皆さんに仏具をひとつひとつお渡ししていく中で皆さんが本当に安堵の笑みをそして時には涙を浮かべていらっしゃいました。そのお姿を拝見してこれまでの御心労を察するには余りあるものが伝わって参りました。このことでまた一つ被災者の方々の心の重荷を減らすことが出来たなら、これ以上の幸せはありません。

被災地へ

被災地へ


4月に女川町を訪れた折、町や港を見下ろすことのできる高台で地割れのため規制線が張られた一画に桜の花が咲いているのを見つけました。その当時を振り返りますとまさにどん底の状態から今日に至るまで本当に少しずつ1つずつではあるかも知れませんが、でも確実に復旧復興に向けて前進している事を実感します。でもまだまだその道のりは長く果てしないことも私たちは認識しなければなりません。ただし、桜の花は春だからといって突然咲くわけではないのです。厳しい冬の季節に入った東北地方の桜は今から何カ月も先にやってくる春に備えてまたその可憐な花を枝いっぱいに咲かせる地道な準備をしているのです。被災地の皆さんの心情を桜に例えるとするなら今はまだつぼみすらなかなか見つけられない時期かも知れません。でも明けない冬はありません。どんなに厳しくても、どんなに長くても、冬の次には必ず春がやってくるのです。その事実には疑いの余地はありません。今はとにかく私たち1人1人がいつか迎える春の到来を信じてそのための準備を怠ることなく継続していくことが大切であることはいうまでもありません。

七面山登詣
11月の19日(土)〜20日(日)、1泊2日の日程で七面山登詣修行が行われました。今年は檀信徒の皆さん総勢8名で修行させて頂きました。初日の登りはかつてないほどの雨と風に見舞われました。加えて例年にも増して気温が低く、休憩で足を止めると途端に体中が冷えてしまうという厳しい環境での修行となりました。悪天候の為か、いつも昼食を頂く時に寄らせて頂く裏参道十九丁のとちの木霊場もその扉は閉ざされており、楽しみにしていた温かいお茶どころか、水さえも頂くことが出来ず、まさしく一歩一歩の道のりが修行となりました。しかしながらまさに“異体同心”、参加者がみんなで力を合わせすっかり闇に包まれた頃、七面山奥之院に全員無事到着出来た時には、皆さん自然と手を合わせていらっしゃいました。夜が明けると昨夜の大雨は収まり、御来光は残念ながら拝むことが出来ませんでしたが、この時期にしては穏やかな陽気に恵まれました。
全員元気に下山を済ませた後、恒例の“滝行”に3人の有志が挑みました。前日の大雨の影響からかその水量は過去最高で正直なところ息が止まりそうなくらいでした。しかしながら滝から降り注ぐ豪快な水を全身で浴びることで心身共に清められ心新たになったことは言うまでもありません。

七面山登詣

七面山登詣


ところで今年の9月の大雨で七面山の参道は表も裏もあちらこちらで崩落などの被害がありました。お聞きした話によりますと、七面山一帯にその時期たった3日間で実に1,000mmもの降雨が観測されたそうです。無論私たちがお参りした時はそのほとんどが復旧されていましたが、お山全体に大きな傷跡を残すことになってしまいました。今年は大震災に象徴される自然災害が本当に多く発生する年でした。こうした自然の脅威を目の当たりにしますと日頃おごり高ぶっている我々人間の無力さが際立ちます。それと同時に何時であろうとも謙虚さを具えていることの大切さも痛感させられます。お山にお参りに行きますといつも思う事なのですが、山頂を目指すその一歩一歩はまさに日常の、ひいては人生の縮図の様に感じます。特に行きは最初から最後までが登り坂です。ですが、その登り坂もとても苦しい時もあれば辛いけれどその辛さをあまり意識しない時もあるのです。人の人生もまたしかり・・・。人は一生成長するとするならばその人生もまた終焉を迎えるその時まではまさに登り坂です。でもその中で私たちは時に幸せを感じ、幸福を手にすることもあるのです。要するに肝心なのはいかなる意識を持って日常を過ごすのかという事です。ボーっとしていても前向きな気持ちを持って過ごしても1日・1ヶ月・1年の長さは変わることはありません。しかしながら、その中身は圧倒的な違いが生じてくるのです。ならば出来る限りよく生きたいものですね。

11月の支援活動についてのご案内とお願い
今月も宗信寺は被災地への支援活動を継続して行います。今回の主たる内容は次の二点です。

位牌・仏具等のお届け
現在仮設住宅にて生活をされている皆さんはそのほとんどが今までの住居を今回の大震災で失われた方々です。よってご自宅にあった仏壇やお位牌、仏具なども同時に失くされています。その後のお盆やお彼岸の折にそうした品々を新たにおそろえになられた方もいらっしゃる中、まだそこまでに至っていない方々もいらっしゃるのが現状です。宗信寺では今回、仏教徒であれば宗派にかかわらず御供え頂けるお釈迦様の御本尊、先祖代々の御位牌、御リンや香炉等の仏具を必要な世帯にお届け致します。支援当日、お渡しする前に合同の開眼・魂入れの御祈祷をお勤め致します。

防寒着の御提供
支援対象地域である清水地区仮設住宅には現在400人以上の方々が暮らしています。幼いお子さんからご高齢の方まで全世代の方々がいらっしゃいます。本格的な厳冬期を前にして冬用の防寒着が圧倒的に不足しているのが現状です。そこで皆さんからの冬用衣類の御提供をお願い致したく存じます。肌着・靴下以外は新品でなくても結構です。奇麗にお使いの御品であれば被災地の皆さんもきっと喜んでお使い頂けることでしょう。“自分が頂いて喜べる品”と言う事をご提供頂く衣類の目安とさせて頂きます。数がまだまだ足りません。御親族、ご友人の皆さん等にも広くお伝え頂きまして1着でも多くの防寒着を被災地にお届けしましょう。なお、ご提供頂く衣類の御送り先は下記の通りです。

〒151-0063 渋谷区富ヶ谷1-21-6
宗信寺東京布教所 岡 貞潤 宛
電話:03-5790-2785

また、宗信寺に直接お持ち頂く場合は恐れ入りますが次の日程にてお願い致します。
11月12(土)・13日(日)・19(土)・20日(日)
※支援活動や支援内容対するご質問等がある場合にはこちらまでご連絡ください。
 電 話:0463-59-7235
 メール:myoho@soushinji.com



被災地へ 〜その〜
『こたつプロジェクト』目標達成!!
先ず以って皆さんにご報告いたします。9月末よりご案内して参りました被災地の仮設住宅にこたつと布団のセットを贈る『こたつプロジェクト』は本当に沢山の支援者の皆様の大きな応援によって無事に目標を達成致しました事をここにご報告させて頂きます。そして心より感謝御礼申し上げます。また、これまた沢山の方々からお寄せ頂きました“応援メッセージカード”も同時に被災地に届けさせて頂く事が出来ました。そして仮設住宅の集会所の壁に掲げさせて頂きました。被災地の皆さんからは“ありがとう!”という沢山のお喜び・感謝の言葉を頂きました事併せてご報告させて頂きます。

被災地へ

去る10月21日夜、いつもの様に宗信寺布教所には私を含め7人の支援参加者が集合しました。そして持ち物の確認や互いの意志の統一を計った後、降りしきる雨の中、目的地である宮城県女川町に向けて出発しました。出発前、私は参加者の皆さんにある話をしました。その内容は“初心に帰って・・・”というものでした。何故かと言うと仮設住宅に居住されている方々への本格的な支援は今回が初めてだったからです。3月以降、ご承知の通り今までは避難所となった第一保育所の被災者の方々への支援活動が大半でした。ですから、保育所の先生方や被災者の皆さんとも顔なじみとなる事が出来ました。しかし、そんなことからか毎月避難所に伺う時の緊張感が初期の頃よりは多少なりとも薄れてきていました。ですからそんな心の隙が原因でもしかすると大変不本意ながら被災地の皆様に不快な思いや、ややもするとご迷惑をおかけしたことがあるのではと考える様になったのです。“支援する”と言う事はどうあるべきなのか、どう振舞うべきなのか・・・。被災地に初めて出向いた3月の頃を思い出しつつ、これまでの半年以上の経験や反省も最大限考慮してそうした事柄を極力今後の活動に反映させたいという私の考えを参加者の皆さんに出発を前にお伝えさせて頂きました。
今回の支援内容は宮城県女川町清水地区仮設住宅(144世帯)と、自らも被災されながら避難所と化した第一保育所に他の避難所から通われて同じ立場の被災者の皆さんの御世話を半年以上の間続けてこられた第一保育所の12名の保育士の皆さんにこたつと掛け布団、敷き布団のセットをお届けする事がその一番の目的でした。準備自体は前回の支援活動から帰って来た翌日から始まりました。まずは必要なこたつセットがいくらで調達できるのかという事で複数の業者、企業に連絡を取りました。その結果、こちらの希望するこたつセットを指定した日時と場所に1便にまとめて届けて頂ける業者に発注することとなりました。値段も約1万円で1セットが用意できるとのことでした。商品を真っ先に用意したのにはわけがありました。大震災以来、日本中が“節電”を余儀なくされました。その結果、夏の暑さ対策のために扇風機が見直され、5月末にはどこも扇風機が品切れという事態になりました。家電店に出向いたが扇風機の在庫切れで無駄足を食わされた方も少なくなかった事でしょう。そうした傾向を踏まえ、同一の品物を大量に発注する必要があったので先ずは品物を確保したのです。次に着手したのは義援金の勧募でした。正直なところこれまでの支援活動は多くの皆様からお寄せいただいた支援物資・義援金と微力ながら自己資金で実行して来ました。しかしながら今回のこの『こたつプロジェクト』実現のためには品物の手配だけでもおよそ150万円もの費用がかかってしまうのです。私は支援活動を継続する事を覚悟した時、同時にこんな事を考えました。“身の丈に合った支援を実現しよう。そして息の長い支援活動をしよう”と。支援をするからには現実的に負担は避けられません。ただそれが身の丈に合わない大きな負担であると息が続かなくなってしまいます。ですから被災地の方々が支援を必要としなくなるまでの間、支援活動を継続するためには支援する側の私たちが我慢できる、可能な範囲の負担で活動していくというスタンスが大切になってきます。こうした観念からすると今回の『こたつプロジェクト』は私の“身の丈”には到底見合うものではありませんでした。しかし、もうすぐ東北の地域が迎える長い厳冬期を前に仮設住宅の耐寒工事が間に合わない宮城県の被災者の方々に1台でも多くのこたつをお届したいという思いは断念する事を考えるというよりは、どうしたら実現できるかという方向に私の視点は終始むけられていました。結果、今回は恥を忍んで宗信寺の檀信徒の皆さん、また日頃御縁を頂いている業者、企業の皆さん、知人、友人、親族の皆さんにも『こたつプロジェクト』のご案内をさせて頂きました。その結果、本当に多くの皆さんから予想を超える尊い義援金をお寄せ頂く事が現実となり、当初の予定通り、このプロジェクトを無事完結する事が出来ました。ご支援、ご協力を下さいました皆様に心より御礼申し上げます。本当にありがとうございました。
そしてご支援頂いた多くの皆さんからは同時に“応援メッセージカード”もお預かりして被災地の皆さんにお届けする事が出来ました。出発前、1枚ずつ皆さんから寄せられたメッセージを拝見させて頂き、被災地の方々を思いやるその一字一句に目頭が熱くなりました。被災地の皆さんにも支援者の皆さんの心がそのまま届いたことでしょう。

被災地へ

最近ニュースを見ていると、地域によって仮設住宅の仕様にかなりの格差がある事が報じられています。東北3県では宮城県が唯一寒冷地対策の出来ていない地域に該当してしまっています。そしてその宮城県内、さらには同じ女川町内でも地区によって違いがあるそうです。その主たる原因は仮設住宅を建設した施工業者の違いによるものです。今回私たちが伺った清水地区仮設住宅は比較的しっかりとした建設がされているとのことでしたが、中にはこの時期、室内壁が結露してしまったり、雨漏りがしたりと対策が急務の仮設住宅も少なくありません。また、別の地域の仮設住宅は2人家族の場合の居住スペースが4畳半と大変狭く、物が置ききれず部屋にうず高く積まれているというお話もお聞きしました。また、この清水地区においても収納スペースの圧倒的な不足は多数叫ばれていました。阪神大震災の時を例にとると仮設住宅には基本的に約2年間居住されるわけですから、今後ますます仮設住宅への不備や不満が増えていく事が懸念されます。3月の被災からまだ7カ月余り、季節が一巡しないと見えてこない様々な問題もある事でしょう。有効な対策が明確でないだけに居住者の方々の不安には察するものがあります。
大きなトラックで運ばれてきたこたつセットは一端集会所に降ろされてそこで支援隊によって一つずつお名前と部屋番号が箱に記入されました。整然と並べられたこたつの箱と布団の箱それぞれに手際よく書き込まれていきました。これは希望者に確実にお届けする事、万が一にも漏れがない様お届け作業を行うためには大切な準備です。ところで今回お届けした数は全世帯数よりは若干少ない数でした。これは親戚の方から頂くなどしてすでにお持ちの方が今回のお届けを辞退されたためです。以前にも触れましたが東北の方々の遠慮深さには本当に感心させられることしきりです。
その次はいよいよ各戸へお届け作業です。女川町もあいにくの雨模様でしたが、地域の世話人さんや役員さんの手ほどきを受けながら支援隊全員で手分けをして最初に布団、次にこたつの順で配布していきました。そして全ての配布が終わると今度は工具片手に希望する方々へのこたつの組み立て作業に取り掛かりました。この時は御茶菓子を持参して、特にご高齢者を対象にお声かけもさせて頂きました。こうしてほとんどの清水地区の仮設住宅の皆さんとお会いする事が出来ました。

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今回こうした作業を通じていくつか気になる問題点も見えてきました。まず、これは被災地全地域に共通している事ですが、仮設住宅の建設は“安全な高台の平坦地”が基本です。その結果、学校、病院、商業施設などから遠く離れた不便なところに建設された仮設住宅が数多く存在すると言う事です。自家用車を交通手段として利用する事に問題の無い方はまだしも、自家用車がないとその不自由さは日常生活が滞ってしまうであろうことは容易に想像がつきます。実際、清水地区では学生さんの登下校はバスで行われていました。また、食料品に関しては何種類かの移動販売が時々巡回して来ていました。また、仮設住宅には車椅子での生活をされている方も当然いらっしゃいます。玄関先には木製のスロープが設置されていましたが、玄関からそのスロープを降り切るとそこは砂利が敷き詰められているのです。このゴロゴロした砂利道では介護者の同行が無い限りは車椅子を使用して一人で砂利道を進むのはおそらく無理でしょう。女川町では幸い町立病院は高台にあったため、1階部分は津波の被害を被ったものの全壊には至りませんでした。ですから現時点では被災前と比べてもかなり以前と近い環境での診察、治療が実現出来ていると思われます。しかしながら多くの方々が津波で自家用車を失っていますので、再度自家用車を所有するに至っていない方々はタクシー以外には主たる交通手段がないのが現状だけに、その費用面での負担も心配されるところです。将来的には例えば仮設住宅単位を一つのコミュニティーとみなし、カーシェアリングや他地域移動シャトルの運航など、元通りの町づくりもさることながら現状に則した新たな視点で新たな手段の検討が必要なのではないかと感じています。
さらに少し先を見据えてみますと、仮設住宅での生活がより様々な“差”を明確にしつつあるのも事実です。被災者の皆さんが避難所で共に生活されていた頃を振り返ってみますとプライベートな空間こそ無かったものの、常に人と触れ合い、会話をし、食事や物資の配給などを通じ皆さんが同じように行動されていました。しかし、仮設住宅での生活は避難所とは異なり、数日間人との接点を持たない事も可能となります。それがご本人自ら意識的に望まれるのであればまだしも、そうでない場合にはその後に予想される諸問題は極めて深刻です。また、仮設住宅では入居後光熱費に至るまで全てが自己負担だそうです。今回個別にお伺いする中で雨空の影響で外でも明るいとは言い難い中、薄暗い室内で電気をつけずにいる方々が複数いらっしゃいました。お聞きすると、「電気代がもったいない・・・」という返事が返ってきました。小さなお子さんの明るく元気な声の聞こえてくるお家もあれば、ドアのカギは開いているものの何度かお声をかけてようやく返事のあったお家もありました。大震災の大きな悲しみと困難に見舞われながらも、仮設住宅に移り未来への仕切り直し、再出発の第一歩を踏み出し始めた方々がいる一方で、いまだにこれから先の事が何も見えてこない、当てすらないというどうしようもなく大きな不安に苛まれながら1日1日を過ごされている方々も数多くいらっしゃると言う事を私たちは忘れてはなりません。決して見落とす様な事があってはいけません。

被災地へ

清水地区仮設住宅での作業におおよその目途がついたところで、私は12組のこたつセットを支援車に積み込んで第一保育所に向かいました。そうです、被災から半年以上もの永き間、献身的に保育所に避難された被災者の皆さんのお世話をされた保育士の皆さんにもこたつセットをお届けするためです。当日は土曜日、それも午後の時間帯でしたので残念ながらお子さんたちの元気な姿は見る事が出来ませんでしたが、避難所として使用されていた時とは違い、この日の保育所は本来の落ち着きを取り戻していました。そして新しく所長に就任された高橋先生が迎えて下さいました。ご挨拶もそこそこに再開された保育所の様子をお聞きしていく内に新たな問題が生じている事が明らかになりました。それは正直私自身、そのお話を聞くまでは予想だにしていなかった内容でした。その新たな問題とは、保育士の皆さんが心を病んでいらっしゃるというものでした。本当に言葉では表現しきれないほどの辛く大変な時期を乗り越えて、ようやく今までみんなで目指してきた“保育所再開”が現実となり、また以前の様に沢山のお子さんたちが集うようになって、本来の保育士としての本領が発揮できる時を迎えたわけですが、ここにきて3人の保育士の方が職場に出てくる事が困難な状況にあると言うのです。悲願を達成したのもつかの間、深刻な問題を抱える事になりました。本当に心配な事態です。更にここで危惧すべきは保育所で実際に起きている様なことが他の職場や地域、また個々被災者の方々にも起きているであろうことが容易に想像出来てしまうという点です。“先が見えない”という現実、自分だけではどうにもならないことへの失望感、ただただ果てしなく大きな不安感・・・。こうした事に苛まれる方が多く存在するとしても何の不思議もないくらい、この大震災は日本に、そして多くの人々の心に深い傷を残してしまいました。
私たちは皆、“心”を持っています。そしてその心は時によって“喜怒哀楽”という様々な表情を持つのです。ここで我々がしっかりと認識すべきは同じ人物でもその時の心の状態次第で考える事、そして振る舞いに至るまで様々に変化すると言う事です。つまり、気分が良い時と落ち込んでいる時とでは考え方も行動も違ってくるという事です。そしてその我々の心は自身を取り巻く環境によって大きな影響を受けるのです。環境は自らの努力で変化させたり整えたりして理想のかたちに近付けていく事が出来ます。しかし、時に一人ではどうにもならない環境を突如として一方的に押しつけられてしまう事もあるのです。今回の大震災は当にその最たる例です。被災された数千万人の方が想像を絶するほどの過酷な環境に一瞬にして追い込まれ、更には様々な形で日本中、いや世界中の多くの人々が負の影響を受けました。震災から8ヶ月が過ぎようとする今日、その影響が少なかった地域から徐々に震災前のもとの環境に戻り始めています。しかしながら、今大切なのは落ち着いた環境を取り戻した地域の人々が“喉元過ぎれば熱さ忘れる”と言う事ではなく、被災地のために冷静な心あれば出来ることを考え、そして行動する事です。未だ多くの不自由と望まざる環境の中で一生懸命に努力を重ねている被災者の皆さんのために・・・。
お会式
10月13日宗信寺本堂において宗祖日蓮大聖人の第730遠忌御会式法要が営まれました。
今年も木曜日という平日にも関わらず、遠近より沢山の檀信徒の皆様がご参列のもと法要は厳かに執り行われました。御会式とは日蓮宗においては開祖である日蓮大聖人の御命日に行われる法要を言います。御命日の10月13日を中心にこの時期、全国の日蓮宗寺院ではこの御会式法要が盛大に営まれています。関東では日蓮宗総本山身延山久遠寺、大本山池上本門寺、本山妙法寺、片瀬龍口寺などの御会式がとても有名です。
被災地へ

日蓮大聖人は貞応元年(1222)2月16日、現在の千葉県天津小湊町の漁師の家に生を受けました。そのことは後に大聖人自ら記された「佐渡御書」や「本尊問答抄」の中で語られています。これは大聖人ご自身が決して高貴な身分の出身ではない事、大衆の中に存在する事を示したものであり、つまりは尊い法華経の前では出身や身分は問題でない事を意味しているのです。その後、12歳の時に名刹清澄寺にのぼり、4年間学問に励まれました。そして16歳の時にこの清澄寺にて出家し、その名前を是聖房蓮長と改名されました。21歳からの10年間は奈良・京都などの仏教界をくまなく研学され、その結果“法華経”にたどり着かれたのです。
建長5年(1253)4月28日、清澄山頂の旭ヶ森にて大海より出ずる朝日に向かって“南無妙法蓮華経”と御題目を唱えられ、法華経信仰の確信と法華経弘通の誓願をたてられました。そしてこの時、その名を『日蓮』と改められたのです。その後の大聖人の御生涯は大小幾多の法難・受難に見舞われ、決して安穏としたものではありませんでした。しかしながらこの事は日蓮大聖人ご自身が最初から承知されていた事でもありました。たとえどんなに困難な道であっても、苦労が伴おうともご自身の信念を貫き目標に向かって邁進されたのです。そして弘安5年(1282)10月13日辰の刻(午前8時頃)、多くの弟子たちの見守る中61年の御生涯を閉じられました。
鎌倉時代、こと日蓮大聖人がご活躍された頃の世相は、現代とも似ています。凶作・飢饉・疫病の蔓延などが続き、正嘉元年(1257)には大地震が起こり鎌倉の町は一瞬にして崩壊し、巷には死者があふれ、民衆のうめき声が日夜耐えることはありませんでした。ただでさえこうした天変地異が続く中、更には多くの迫害を受けながらも日蓮大聖人の心が折れなかったのはなぜでしょうか。生涯信念を貫く事が出来たのはどうしてでしょうか・・・。それは大聖人自らが悟られたご自身の役割を果たさんとした強い使命感、揺るがぬ責任感があったからにほかなりません。平成の現代、責任感と言う言葉はすでに死語となってしまったのかと思う様なことは決して珍しいことでは無くなってきました。親が子に対し、またその逆も然り、政治家が国民に対し、また国民は国に対し・・・。本当にいたるところで望ましからぬ無責任な行動が横行しています。とても残念なことです。確かに私たちには日蓮大聖人の様な使命感、責任感を供えることは容易なことではありません。しかし、私たちが個々取り組むべき事に対して今より少しでも真剣に向かい合い、取り組もうと心掛けることで無責任な振る舞いは確実に減って行くのではないでしょうか。日蓮大聖人の御生涯を偲ぶと共に自らを振り返り、大聖人の爪の垢を頂く思いで懸命に生きてくという覚悟が大切なのです。それはこんな時代だからこそなおさらなのです。そうした気持ちを支えに生きていく事が目の前の難題を乗り越えていくための大きな力、そして支えになると言う事は大聖人自らが実践して下さっています。皆さんもご自身の日常を振り返り、気がついたところがあったなら是非改善に取り組んで下さい。うやむやにしたり先送りするのではなく、ただちに改めることが後々後悔しないで済む事に繋がって行くのです。今背負っている(背負わされている)問題や悩みを1つずつ解決して減らしていくこと、肩の荷を軽くする事が良く生きる事の大切な秘訣の1つなのです。さあ、皆さん自身に必要な行動の第一歩を勇気を出して踏み出してみましょう!
被災地へ 〜その〜
9月28日、被災地女川町に行って参りました。今回は支援物資のお届けと今後の支援体制の方針検討のための各地域の視察、そして放射能数値のモニタリングが主だった目的でした。
早朝、今回の支援物資の大半を手配して下さった株式会社IMIの大賀さんと都内で合流し、私と2名で支援車両1台にて被災地に向かいました。今回の支援車両は通常は5人乗りなのですが、後席を全て取り外し運転席と助手席のみとし、人員を最小限にとどめることにより出来るだけ多くの支援物資を積み込みました。また、車両の屋根に頑丈なルーフキャリアを4基装着しておよそ140キロ程の荷物を搭載できるようにしましたので今回の沢山の支援物資も何とか1台でお届けすることができました。今回の支援物資の主な内容は新品スニーカー約200足、新品ポロシャツ約100着、新品Tシャツ約200着、新品子供服約50着、新品男性ズボン約50着、クリーニング済み婦人服約30着、御米40キログラム、醤油(1リットルペットボトル)約30本、調味料沢山、新品ステンレス物干し台セット一式等でした。

被災地へ

今回の出発に備えて東京布教所で26〜27日、支援物資の整理が行われました。特にスニーカーや衣類はサイズや男女の違いがありますので、出来るだけ細かくそして分かりやすく事前に分類しておく必要があります。これは被災地の皆さんがご自身に必要な物資を見つけやすい事になりますし、また適材適所合理的かつ有効に物資を届けるためには時間のかかる作業ではありますが、欠かす事の出来ない作業でもあります。こうして今回もしっかりと分類された沢山の支援物資は内容の記入されたラベルが貼られたそれぞれ専用の大きな段ボール箱に納められて支援車両に積み込まれました。今回の支援物資も本当に多くの皆様からお寄せいただいた品々です。食料品のほとんどは宗信寺檀信徒の皆様より、そして新品スニーカーや衣料品はK−SWISS原宿フラッグシップの皆さん、またアメリカ在住の有志の皆さんより託された物資でした。ご協力くださいました全ての皆様に心よりお礼申し上げます。

女川町の目的地までは、いつも通り東北自動車道で仙台まで進み、仙台南インターからは有料道路を乗り継いで更に松島からは海沿いの一般道を進んでいきました。3月からおよそ毎月1度のペースでこうして被災地に足を運ぶようになりましたが、地域的には復旧・復興が目覚ましい場所も目立って参りました。3月〜5月頃までは本当に被害の大きな印象を受けた地域でも地震や津波で家屋の倒壊までは免れた地域は、作業の進展ぶりも顕著で、営業を再会できた店舗も多く、つい数カ月前までは辺り一面瓦礫に埋め尽くされていたとは思えないほど、それこそ良く見なければ大震災の爪痕さえ分からないところまで復旧が進んだ地域も道中沿線には目につくようになりました。
しかし、こうした地域がある一方で未だ一向に復旧の目途すらすら見えてこない地域も広範囲にわたります。津波の被害が甚大で建物の多くが壊滅的な被害を被った地域では半年を過ぎてもなお、電気・水道などのライフラインが復旧出来ていないところもあります。また地盤沈下の大きかった地域では日本各地に甚大な被害を及ぼした先の台風15号襲来の折、高潮などの影響で沿岸部ではあちこちに海水が流入したままになっていました。またこの台風15号は被災地に追い打ちをかける様に降雨による被害の爪痕も残して行きました。東日本大震災での地震や津波の被害を免れた高台の地域で土砂崩れが発生したり、ようやく入居した仮設住宅が浸水してしまい、また避難所に戻られた方々も少なくありません。特に床上まで浸水してしまった仮設住宅はその修理に1カ月近くかかってしまうそうです。相手が自然とはいえ本当にやりきれない思いです。

御昼過ぎ、沢山の支援物資と私たちを乗せた支援車両は最初の目的地である第一保育所に到着しました。御承知の通りこちらの保育所は3月11日の大震災当日の夜から8月28日までの約半年程の永きにわたり、本来の保育所としてではなく女川町内の9か所の避難所の一つとして使用されてきました。当初は最高249名の被災者の方々が身を寄せ、閉鎖された時点でも約30名ほどの方が暮らしていました。その間、園庭は駐車場となり、教室は寝泊まりの生活の空間となり、おゆうぎ室は様々な支援物資の貯蔵場所となりました。敷地内の手洗い場には数台の洗濯機が並べられ、あちらこちらに物干し用のロープが張り巡らされました。本来小さなお子さん用の黄色やピンクの可愛らしい下駄箱は被災者の方々の履物で溢れました。そんな保育所が10月3日からの業務再開を目指し、避難所としての役割を終えてから急ピッチで必要な準備が進められてきました。私たちが訪れた調度その時は、園庭では数人の方々によってブランコや滑り台、鉄棒などの遊具のペンキの塗り直し作業が行われていました。わだちだらけだった園庭も奇麗に整地され、いつでも小さなお子さんたちが駆け回る事の出来る環境が整えられていました。石油ストーブの油煙などで煤けてしまった教室の壁や天井、床などは保育所の先生方が一生懸命手作業で掃除をしたそうです。床が見えないほどに物資や荷物が置かれていたおゆうぎ室も清々とした本来の広さを取り戻し、保育所内の天井や壁などあちらこちらに模造紙や折り紙を使った可愛らしい装飾が施されていました。
今回最初にこの保育所に伺ったのには大きな理由がありました。再開される3日には大震災前の88名には到底届かないものの、それでも66名のお子さんたちがあらためて入所されると言う事を伺っていたので、先ずはそのお子さんたちにスニーカーをプレゼントさせて頂こうと考えていたからです。保育所ですから当然小学校入学前の小さなお子さんたちが集まるわけですが、今回私たちが託された物資の中にお子さん用の小さくて本当に可愛いスニーカーが90足近く含まれていたのです。提供して下さった皆さんよりお届け先は一任されていましたので、支援者の皆さんもきっと喜んで頂けるであろうと言う事から15.0〜19.5cmの小さなサイズのスニーカーは保育所に全てお届けさせて頂きました。

被災地へ

更には保育所の先生方にもお渡ししたいお品がありました。それはピンクや黄色のポロシャツです。
実は先生方も多くの方々が津波によってお住まいを失くされていました。しかしながらそんな大変な状況の中にも関わらず、お住まいのあった近くの避難所からそれまでは職場であった保育所の“避難所”に通って更には避難された同じ境遇の方々のために約半年もの間、懸命に活躍されて来られたのです。本来の入所式では保護者の皆さん、お子さん、そして先生方も皆、正装されるそうです。しかしながら今回は残念ながらその様な環境ではありません。そこでせめて先生方が入所式に臨まれるにあたり、真新しいおそろいのポロシャツを着て頂いて気分一新、本来の保育士としての任務について頂ければと考えたのです。こうした申し出に保育所の梁取所長先生を始め、先生の皆さんは本当に素直に喜んで下さいました。その様子をご支援下さった方にもご覧頂きたかった位です。

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しかしそんな中少し寂しい事もありました。実は前述の梁取先生が10月3日の待ちに待った保育所再開を目前に控えたこの9月30日を以って所長職を退き退職されると言うのです。実は梁取先生は本来であれば今年の3月いっぱいで円満に定年退職をされる筈でした。ところがその直前の3月11日に大震災が発生し結果、町より6カ月の職務延長の命令があり、いよいよ9月30日にその延長期限を迎えられるという事でした。振り返りますとこのあまりにも辛く長すぎる半年以上の間、自ら保育所に寝泊まりして24時間片時も気の休まる時間の無い中で避難所と化した保育所の所長という重責を担ってこられました。私自身は先生とお会いするのはせいぜい月に1度、支援活動に伺ったときだけでした。携帯電話が使えるようになってからは支援の打ち合せなどでお話は度々させて頂いておりましたが、実際お目にかかったのは両手の指で足りるほどの回数です。しかしながら私が知る限りにおいて先生は終始、冷静沈着、そして穏やかでいつも笑顔を絶やした事はありません。そして何より「ありがとうございます!お世話になります!」というお言葉は何度頂いたか分かりません。恥ずかしながら先生ご自身も津波で御自宅を失くされて先日ようやく仮設住宅に入居できたという事実を知りましたのは今回女川を訪れての事でした。私の中には早い時期から梁取先生に対する信頼感、そして尊敬の念がありました。私のそうした思いは支援の回を重ね、先生にお会いする度に更に深まり揺らぎないものとなって行きました。そんな先生がようやく心の底から願っていらっしゃった保育所の再開を目前にしてその所長職を後任の先生に渡すという事になったのです。「これからは再開される保育所を静かに見守っていきたい・・・」そうおっしゃる梁取先生の表情からは一抹の寂しさと共に“潔さ”とでも表現したら良いのでしょうか、長年人生を賭けて打ち込んできた保育士として、そして何より人として迷いのないまっすぐな志が伝わって参りました。歴史は時に後世に名を残し後の人たちの手本となるような偉人・賢人を輩出します。でも私は梁取先生と出会い、歴史上の遠い存在ではなく身近なところにも自らの範となるような生き方をされている人はいるのだという思いが以前にも増して深まりました。

そんな梁取先生に今回一つだけ質問させて頂きました。その内容はしばらく前から是非一度お聞きしたいと思っていた事でもありました。その質問の内容と言うのは「ご自身も被災して本当に辛い境遇の中、どうしてここまで避難所の皆さんのお世話にひたすら取り組んでこれたのか?」という正直少々思いやりに欠けたぶしつけなものでした。もしかしたら私がこの言葉を口にした時、内心は不愉快に感じられたかも知れません。しかし、私の目の前の先生はためらうことなく即座に一言で『目標があったからです!』とさらりとお答えになりました。先生がおっしゃるには、もし目標がなかったらきっとご自身の人生そのものにまで疑問を投げかけて心が荒み、いつしかくじけていただろうと言う事でした。ただ、どんなに見通しがつかなくても、どんなに辛くても目標をはっきりと持ち続けることが出来たからこそ怒涛の様に押し寄せる困難にもその都度向かい合い、そして乗り越えることが出来たのだそうです。それは当に現代を生きる我々が学ぶべき心構えであり、実践すべき生き方であると感じました。そして今回のこの未曾有の大災害によって被災地となった地域、そして被災者となった方々にとってはそれぞれの明確な目標があって初めて真の復旧・復興が始まるのであって、目標無くしては日本が本当の意味で立ち直る事は万が一にもあり得ないのではないかと思うのです。
以前このコーナーで被災した元漁師の方とお話をさせて頂いた時の様子をご紹介させて頂きました。まるで心と体が乖離してしまったかの様な本来あるはずの瞳の力を失ったその方の様子は私には衝撃的なものでした。そしてその時以来、ずっと被災地の皆さんには目の前と少し先の将来に対する目標が必要不可欠であると感じ、その事は機会あるごとに皆さんにも伝えて参りました。そして今回、梁取先生のここ半年余りのお姿とお聞かせ頂いたお話は我々が人としての営みを実現して更に継続しながら生きていくためには“目標”は絶対的に無くてはならないものであるという事を裏付けるには十分過ぎるものでした。ちなみに梁取先生の目標だった事は“必ず保育所を再開させる”事だったそうです。これほどない厳しい環境の中にあってもなお自分のためではなく、人の事を思う・・・。その目標はめでたく叶えられました。梁取先生、本当にお疲れ様でした。そして大切な事を身を以って教えて頂き本当にありがとうございました。

9月末時点、女川町内で生活している方々は5千人に満たず、震災前と比較すると実に人口が半減してしまっています。そしてその4割は65歳以上の方々です。大震災でお亡くなりになられた方は被災前の人口の約1割にもなるそうです。長い時間のかかる復興に必要な若い世代の方々が今現在、ふるさと女川町を離れてしまっているという厳しい現実が浮き彫りになってきました。そんな中、大変頼もしい動きも出て来ました。被災してしばらくした時点で女川町では“女川災害FM”というラジオ局がボランティアセンターのすぐ脇のプレハブ小屋で地元の若い人たちの手によって開局しました。その後の活躍は報道などでもしばしば取り上げられています。そして今度はやはり地元に残った若い人たちが発起人となって“女川福幸丸(ふっこうまる)”という団体を立ち上げたのです。保育所を後にした私たちはその女川福幸丸の本部のあるコンテナ村商店街にお邪魔しました。そして代表を勤める佐藤さんはじめ、スタッフの皆さんにお会いして来ました。そこでは若い人たちのバイタリティ、そして底抜けに明るい雰囲気に圧倒されました。「復興」を『福幸』と言い、「瓦礫」を『我歴』と受け入れる彼らのその感性こそがきっとこの地域がもう一度立ち上がるための最初の雄叫びを上げ、町民の方々は無論のこと、今は故郷を離れてしまった人たちの視界にも届くのろしを揚げる事になるでしょう。私たちがお邪魔した日は調度、例年通り実施される見通しとなった10月2日の『サンマ収穫祭り』の準備をされているという事でしたので、支援者の皆さんからお預かりしたスニーカーや衣類などはこの地元の組織“女川福幸丸”に託して地域の方々のために有効にお使い頂く事にしました。なお、来る10月30日には女川総合陸上競技場において“GAREKI stock in 女川 〜復興編〜”という女川福幸丸独自開催の音楽イベントを予定しているということです。なお現在多くの方々からの応援を募っているそうなので、もう少し詳しくという方は下記の女川福幸丸ホームページをご覧ください。
http://www.onagawa-fkm.com/

被災地へ

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コンテナ村商店街を後にした私たちは牡鹿半島を女川原発方面に向けて車を進めました。この地域は5月、保育所に扇風機をお届けに来た際に視察した場所です。その時は被災から2カ月以上経過していましたが、目の前に広がるその様子はまるで昨日大地震と大津波に襲われたがごとき光景で、強い衝撃を受けました。その地域が半年以上を過ぎてどこまで復旧を遂げているかとても気になっていたのです。結果から申し上げますと、相変わらずひどい惨状でした。以前よりは所々で復旧作業をする人たちの姿を見かけましたが、未だ手つかずの場所も多く、まさしく3月11日のあの時から時間が止まってしまった様な錯覚に陥りそうな感覚を覚えました。また、牡鹿半島にも地域ごとに仮設住宅が建てられ、既にそちらでの生活が始まっていました。しかし、この地域はもともとあったであろう沿岸部の商店やガソリンスタンドなど生活に欠く事の出来ない施設は全滅しています。と言う事はこの地域の仮設住宅に入居された方々は車で数十分かけて商業施設の営業が再開された石巻市内まで出かけないと食料を含めた日常生活品を手に入れることが出来ないという事になります。住民の方々の日々の生活の御苦労が忍ばれます。今回は御米や調味料などの支援物資を持参していましたが、量的には100世帯を超える規模の仮設住宅の地域では住民の皆さん全員にお分けする事が出来ないという事から20件未満の小規模の仮設住宅を探しながら車を進めていくと牡鹿半島の西側石巻市の大原浜近くに19世帯の大浜地区仮設住宅にたどり着きました。住民の方に支援物資をお渡ししたい旨をお伝えすると在宅していた皆さんが集まって来て持参した食料品はあっという間に無くなりました。たった数分でしたが仮設住宅生活の厳しい現状が伝わってきました。まだまだ安定しない生活環境、様々な物資が充分足りていない現実・・・。まだまだ多くの皆さんの継続した支援が必要とされています。

被災地へ

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先日、東日本大震災で大きな被害を受けた東北地方の岩手県・福島県・そして宮城県それぞれの仮設住宅の防寒対策の進行状況が発表されました。その報告によりますと岩手・福島両県に対して、宮城県の防寒対策の遅れがとても顕著でした。どれほどの遅れかと言うとほとんど処置が施されていないということでにわかに信じがたい事実が浮き彫りになったのです。当に危機的な状況です。しかし、毎年長く厳しい冬を迎えるという点では共通した環境のこの東北3県で、どうしてこうした望まれざる差異が生じてしまったのでしょうか?その答えの一つは仮設住宅の手配と建設の担当所在の違いです。岩手・福島両県は県がその責務を担当しました。これに対し、宮城県では各市町村に委ねたのです。無論、その意図はより地域に密着した現実に則した対応を実現すべく仮設住宅を実際に建設する地域に任せたのでしょう。しかし仮設住宅の建設に関してはこの判断が残念ながら裏目に出てしまいました。県側の当てにした市町村役場は大きな被害を被っておりその機能のほとんどを失ってしまっていたのです。ですからキメ細やかな対応をしたくとも叶わない状況にあったのです。

先月のかわら版でもお知らせしました通り、宗信寺では“こたつプロジェクト”と銘打ちまして、女川町清水地区仮設住宅全世帯と自らも被災しながら半年以上の間、献身的な働きを第一保育所で続けられた12名の保育士の皆さんが入居した仮設住宅に対し約150セットのこたつと掛け布団+敷き布団をお届けすることと致しました。1セットが約1万円で用意できる見通しがつきました。東北の冬は京浜地区より2カ月近く早く到来します。女川でも例年だと11月には本格的な冬仕度になるそうです。そこで今月の支援活動は10月22日(土)に上記の地域の皆さんへのこたつセットの支給を実行します。今回は今までにない規模での支援となりますが、被災地の皆さんに少しでも暖かな環境で冬を迎えて頂ける様、何としても目標を達成したいと思います。つきましては1人でも多くの皆様の御支援が欠かせません。ご理解と御協力を頂けます様、心よりお願い申し上げます。なお、ご支援頂きました方には宗信寺から「応援メッセージカード」をお送りいたしますので、そちらに皆様からの応援のお言葉を寄せて頂けますと幸いです。皆様の被災地を思う心も合わせてお届けさせて頂きたいと思います。現金書留の送り先、並びに義援金受付口座は下記の通りです。

お問合わせ・お振込先

宗 信 寺:〒259-1201 平塚市南金目2336
      tel:0463-59-7235
      fax:0463-59-4556

東京布教所:〒151-0063 渋谷区富ヶ谷1-21-6
      tel:03-5790-2785
      fax:03-5790-2786

○ゆうちょ銀行
記号10210 番号51350321
宗教法人 宗信寺

○三菱東京UFJ銀行
店番133 表参道支店 普通0898031
宗教法人 宗信寺
代表役員 岡 貞潤(おかていじゅん)

※お振込の方は御住所をお知らせください。
 後日「応援メッセージカード」をお送りいたします。



今回の女川までの道中、再び各ポイントでの放射能値を計測しました。
当日のモニタリング数値は下記の通りです。

場所数値(μSv/h)日時(9月28日)風向き
渋谷区富ヶ谷0.12午前6:20
蓮田SA0.12午前 7:03東北東
佐野SA0.11午前 7:33南西
上河内SA0.20午前 8:55東南東
那須高原SA0.27午前 9:26北北東
鏡石PA0.20午前 9:47
安積PA0.50午前 9:54南南西
安達太良SA0.60午前 10:06
二本松IC0.42午前 10:12
国見SA0.28午前 10:40
菅生PA0.12午前 11:21東北東
仙台若林Jct0.11午前 11:40北北東
女川第一保育所0.10午後 1:20
女川港0.09午後 2:07
コンテナ村商店街0.13午後 4:00
女川原発正門0.09午後 4:31南南東
測定の結果、今まで同様に福島県内の数値が高いという傾向に変化はありませんでした。安積PA、安達太良SA、二本松IC。この3か所の計測ポイントではその都度若干の差こそありますが唯一線量計の警告ブザーがいずれかのポイントでけたたましく鳴るのです。今回鳴ったのは上記の表の赤字の計測地点です。
10月始め、政府から二本松市の新米から規定値以上の放射線数値が計測されたので出荷を停止するという発表がありました。しかし今初めて分かった事なのでしょうか?少なくとも私たちの計測では初めて線量計での測定を行った今年5月の時点で既に“二本松周辺は以上に数値が高い”と言う事は計測結果に出ていました。その事実はこのコーナーでも報告させて頂きました。もし政府が早い段階でこの地域の今年の作付けを禁止しておけば、無駄で危険な農作業をする事はなかったはずです。更にはこうした“安全数値を超えた!”的な発表は過度な風評被害に繋がる可能性があるのではないでしょうか。安全な地域の農作物さえ風評被害に遭う様な事は断じて避けなければなりません。二本松市は避難準備地域にも指定されませんでしたが結果、今年の新米は出荷が出来なくなりました。政府にモノ申す気はさらさらありませんが、それにしても一連の危機管理、情報処理の甘さには閉口してしまいます。やらなければならない事が山のようにある実情は理解しますが、如何なる理由があっても後で言い訳をしなければならない事態には絶対になってはいけない事柄もあるはずです。その重要度が結局取り組みの優先順位となるはずです。何から手をつけるべきかは明白です。国民の安全、不安の撤回、安心できる生活、政府にとっても決して人ごとではない事ばかりです。こうした事の早期実現に向けて今は全国民がそれぞれの立場で出来ることに全力で取り組む事こそが今最も大切な事であるのは言うまでもありません。

秋季彼岸会

9月20日、秋のお彼岸の入りを迎えました。“暑さ寒さも彼岸まで”という諺がありますが、当にその諺通り、前日までは気温30度以上の残暑が続き、当に真夏の暑さでしたがこの日はぐっと気温が下がり、朝方は少々肌寒いくらいでした。私自身、夏の名残りで窓を開けて就寝していたのですが、夜中に寒さで目が覚めて毛布をかけ直したほどでした。あいにくの時折小雨の降る空模様でしたが、お彼岸初日と言う事で遠近各地より多くのお檀家の皆様がお墓参りにお見えになりました。春秋のお彼岸、そしてお盆の時期、お墓は供えられたお花でいつも以上に明るくにぎやかになります。“お墓”のイメージは人それぞれだとは思いますが、もし“こわい・気味が悪い”という類いのイメージをお持ちの方が宗信寺の墓地をご覧になられたら、きっとそのイメージは覆されることでしょう。それほど明るい墓地が宗信寺のお墓なのです。お参りの方々は皆、穏やかな御様子でお参りになられています。宗信寺のお墓に眠る各家の御先祖様もきっと笑顔で私たちをお見守りくださっていることでしょう。
ところで21日には台風15号が直撃し、宗信寺のある平塚市でも夕方から一部停電などの影響がありました。しかし、大きな被害なく済みました事は本当にありがたく思います。奈良県や和歌山県の土砂ダムの恐怖、名古屋市内では駅など広範囲での冠水の被害もりました。実に109万人に避難指示が出されたそうです。被災地でも仮設住宅が床上浸水の被害に遭うなど列島各地に大きな爪痕を残しました。また、各地でお亡くなりになられた方々もいらっしゃいます。犠牲者の方々の御冥福を心よりお祈り申し上げます。

被災地へ 〜その〜
8月26日深夜、明日の被災地支援活動のため東京布教所に集まったボランティア参加の皆さんを乗せた支援車両2台はあいにくの雨模様の天候の中、目的地の宮城県女川町を目指し出発しました。
今回は被災地でライブを提供することとなり宗信寺支援隊にはボーカリストの友香さん、そしてアーティストの中島満雄さんも加わって総勢10名での出発となりました。
今回の支援物資は支援者の皆様から寄せられた沢山の食器類や衣類等のほかに青森の窯元の方が被災地支援のために特別に制作して下さったメッセージ入りの湯のみ茶碗100個や昨年の大河ドラマの主役を演じた大物アーティストのM・Fさんが被災者の皆さんへと提供してくれた特性うちわ200個も含まれていました。多くの方々の被災地そして被災者の皆さんを思う心を多くの支援物資と共にお届けする事も私たち支援隊の大切な役割であることを実感します。
東北自動車道を走行中、いつもより交通量が随分多い事に気がつきました。特に大型の観光バスが沢山走っており、パーキングエリアやサービスエリアはどこも駐車スペースを探すのに苦労する程でした。その時間帯が決して日中ではなくまだ世も明けぬ時間帯だと考えるとなかなかあることではないわけですが、見かけた観光バスの多くが多方面からのボランティア参加者を乗せている事が分かり、多くの方々が被災地の復旧・復興に協力しているのだと思うとなんだかとても嬉しくなりました。国見SAにていつもの様に1時間ほどの仮眠と早めの朝食を済ませ、一路女川町を目指しました。三陸自動車道の渋滞を避けるため、松島付近からは沿岸部の一般道を走行しました。風光明美な松島は海沿いの瓦礫や泥もほとんど見られなくなり、随分と奇麗になった印象を受けました。東松島も一面に散乱していた瓦礫はほとんど撤去され津波の被害にあった通り沿いのガソリンスタンドや商店も建物が大きな被害を受けなかった店舗は営業を再開していました。女川町までの道路沿いの風景からは少しずつですが復旧の進展を見て取ることが出来ました。
女川町に到着するとまず真っ先に女川港にて大震災でお亡くなりになられた方々の供養を営みました。読経中には支援に参加した全員で港界隈にお線香を供え、犠牲者の方々の御冥福をお祈りいたしました。出発の時には降っていた雨もいつしかやみ、被災地に到着した頃には青空になっていました。朝の陽ざしに輝く水面を見つめていると、およそ半年前に全てを奪い去った大津波がこの同じ視界の彼方から押し寄せてきたとは本当に信じられない思いです。振り返って壊滅的な被害を受けた女川の町並みに目を向けてもその思いはやはり変わるものではありません。数百年に一度の事とはいえ、本当にとんでもないことが起こってしまったという思いが改めて込み上げてきました。
被災地へ

被災地へ

今回も被災地では炊き出し支援を行いました。第一保育所・勤労青少年センターの両避難所で生活されている被災者の皆さん、妙照寺の御近所の皆さん、そして全国から泊まり込みでボランティア活動に参加している皆さんのため、昼食と夕食それぞれを約90人分用意させて頂きました。前回の支援に比べ参加者が少ないのが多少の不安要素ではありましたが、少数精鋭、またライブのために参加して下さった前述の友香さんや中島さんもライブの準備の合間、積極的に炊き出しの仕度に参加して下さいました。昼食は“夏野菜たっぷりそうめん”、そして夕食は“冷しゃぶ弁当”にわかめスープ、デザートにリンゴを添えて御提供させて頂きました。炊き出し実施に対しましては多くの皆さんからの食材の御提供、義援金での御支援を賜りました。こうした多くの方々の応援によりまして今回も滞ることなく支援活動が実現出来ましたこと、心より御礼申し上げます。
炊き出しの仕度をしている最中、保育所のある先生がこんな話をしてくださいました。
「宗信寺支援隊の食事はいつもおいしいので用事で出かけている人たちも食事の時間には皆さん帰ってくるんですよ!」
支援隊の“やる気”が更に増したのは言うまでもありません。
また、今回の炊き出しでは新たな試みがありました。それは“被災地で食材を調達する”する事でした。前回までは東京を出発する時点で、炊き出しに必要な食材・調味料・食器・調理用具などは全て準備した上で被災地に向かっていました。しかし、今回はそうした品物の中で被災地から調達できるものは積極的に調達しようと言う事になりました。これは営業を再開した被災地のお店に少しでも協力できればという思いからなされたことです。ただし、こうしたアイディアの実施のためには新たなる御協力者の存在も必要でした。つまりは被災地で食材等を手配して下さる方の存在です。食肉はいつも支援隊に参加して下さっている芦田さんのお知り合いが仙台で精肉店を営まれているということで早速お願いさせて頂きました。またこの食材は支援隊の芦田さん、小山さんをはじめお二人の御友人有志の皆さんのご協力により手配する事が出来ました。また仙台在住で元大手芸能プロダクションの相談役をお勤めになられていた牛澤さんのおかげで細かな調味料に至るまでこちらが必要とする品々を完璧にそろえて頂くことが叶いました。御協力頂きました全ての皆様に心より感謝申し上げます。
被災地へ

ところで被災地は日々変化をしています。ですから必要とされる支援も日々変化していくという事を念頭に置かなくてはなりません。実際、宗信寺支援隊が被災直後より通い続けた第一保育所は10月からの本来の保育所としての業務再開のため、8月28日いっぱいで避難所としての役割を終えました。当初、女川町には9か所の指定避難所がありましたが、8月をもって3か所に集約されたのです。ただ避難所の方々が皆、仮設住宅に入居できるから避難所の数が減るのではありません。事実、今もなお仮設住宅は建設作業が続いている状態で、8月上旬まで自衛隊が野営していた総合運動場の野球場には全被災地で初の試みとなる“三階建て仮設住宅”の建設が10月中の完成を目指して始まっていました。仮設住宅の数はここ女川町においては不足しており、建設可能な高台の平地に予定されている全ての仮設住宅の建築が完了してもなお、入居希望者全員を収容する事は不可能というのが現状です。という事はこのままだと仮設住宅に入居できなかった被災者の方々は行くあてもなく体育館などの避難所で今と同じ極めて不自由な生活環境のまま厳しい東北の冬を迎えると言う事になってしまします。この点は行政の一刻も早い対応を懇願するところです。
第一保育所で避難生活を送られていた数組の御家族は8月28日までに仮設住宅への転居を予定されていましたが、20名あまりの方々は避難所として残される勤労青少年センターへ引っ越す事になりました。避難所で生活される皆さんへは8月上旬より朝昼晩のお弁当の配給が始まっていました。しかし、土日祝日は昼食の配給はいまだに行われていません。仮設住宅での生活をスタートされた方々同様、避難所の方々も炊き出しのない土日祝日の昼食は自ら調達しなくてはならないのです。全壊を免れたコンビニの営業再開や被災してできた空き地を利用した“コンテナ商店街”の営業も始まりましたが、被災地の多くの方々は収入の術を失っているという現実を踏まえますと、生活の再建が実現するまでの今しばらくの間は官民両方の支援が不可欠なのは言うまでもありません。
8月の支援活動では炊き出しともう一つ大きな目的がありました。それはライブの実施です。実は少し前から実現をしたいと思っていたのですが、私一人で出来るわけではありませんので、関係者の方々の協力とスケジュールの調整が必要でした。ようやく被災地と参加して頂ける皆さんとの日程などの調整が整い、8月の実現にこぎつけた次第です。女川ボランティアセンターからの依頼で一か所目は女川第一小学校、そして二か所目は第一保育所の計二か所でのライブを行いました。このライブを通じて音楽の力、そして歌詞から伝わる言葉の力強さには本当に感心させられました。時に涙を誘い、そして時に勇気を与えてくれる音楽、歌は私たちにはきっとなくてはならないもののひとつなのだと思います。特に第一保育所のライブは夕食後の時間帯に行われたのですが、被災者の皆さんは無論のこと、職員の皆さん、そして支援隊も全員集まっての開催となり明日で避難所が閉鎖されると言う状況も手伝ってまさしく感動のライブとなりました。
被災地へ

被災地では色々な物が不足していたり無かったりするのですが、その中には代わりのきかないもの、とりわけ大切な物も例外ではありません。そんな大切なお品の一つに『お位牌』が挙げられます。地震とその後の大津波で家を無くされた方々のほとんどはお仏壇やお位牌も失われているのです。報道などで東北の皆さんがとても御先祖様を尊んでいる姿は伝えられていますが、私も被災地を訪れるようになってからずっと感じていました。ただ、そうした思いにどういった形で答えるべきなのかを検討し、時を見極める必要があったのです。被災地では被災以後、百ヶ日忌を過ぎた頃から亡くなられた方のご葬儀、そして行方不明の方々のご葬儀も行われるようになりました。それと同時に仮設住宅への入居も徐々に進み、自宅で御先祖様や亡くなられた御家族を日々供養したいと思われる方々も増えてきたのです。そこで7月に被災地へ伺った折、御位牌の制作と提供と言うお話を保育所に避難されている方々にしましたところ、今回複数の方々から御依頼を受けるに至った次第です。一般に仏具全般高価な印象はどなたにもあると思います。お位牌も例外ではありません。
しかし今回は私と長年お付き合いのある石材関連業者の方のお力添えもあり、最小限の費用でお位牌をお作りする事が可能となったのです。御協力頂く事になりました各業者の皆様に心より御礼申し上げます。御依頼を受けた御位牌は早ければ9月中には依頼者の方々のお手元にお届けできることでしょう。
今まで支援隊に参加された方のほとんどは実は女川港と第一保育所、そしてその沿道からの風景しかご覧になっていませんでした。そこで今回は炊き出しの合間を見計らっては数回に分けて参加者全員に過去目にする事のなった地域にも足を運んでもらいました。その地域は第一保育所からは2つほど尾根を越えた地域になります。高台からその場所に降りていくと支援隊の皆さんの視線は目の前の光景にくぎ付けとなりました。そこには大量の瓦礫がうず高く、しかも延々と積み上げられていたからです。8月上旬発表の政府の資料によると女川町の瓦礫撤去率は約36%という極めて低い数字でした。ところがいつも伺っている第一保育所から見える女川の風景にはほとんど瓦礫は見当たりません。結局、現実的には町中の瓦礫がある地域に集められているに過ぎず、この膨大な瓦礫の処理には途方もない時間と労力が必要な事は容易に想像ができました。目の前の光景からは政府の発表も残念ながら納得せざるを得ませんでした。
ところで、風景で今までと違っている点が一つありました。それは雑草が大津波の押し寄せた地域一面に生え始めているという事でした。もしかすると海水の塩分の影響で今までは雑草でも育ち辛い環境だったのかも知れません。それが、台風などの降雨の影響からか、ようやく草の生える状況になってきたのでしょう。本来ならば雑草は常に“邪魔者扱い”される存在です。しかし、この地域に今生え始めた雑草に関しては不思議なことに未曾有の大地震と大津波で傷ついたこの大地を覆いいたわっているかの様に、沢山の小さな雑草の命がその傷を癒している様に見えてなりませんでした。雑草も命は命・・・。生命の力は本当に素晴らしいものです。人が力強く生きることを“雑草のように生きる”と表現する事があります。いつもはとかく厄介者とされる雑草ですが、そのたくましさには人間でさえも学ぶことがあると言う事でしょう。どんな命にも輝く点があるものです。
人もまたしかりです。どんな人にもきっと輝くところがあるのです。皆さんは御自身の輝きに気づいていますか?もしまだ気づいていなかったなら探す努力をしてみることは大切ですね。一度きりの人生、如何に自分らしく過ごすかという事を考えると自分を知ることが先ず必要です。そこからきっと自分らしい生き方のヒントが見えてくるのではないでしょうか。人は時に迷い、時に自らを見失う事もあります。そんな時は雑草のようにとにかく生きること、どの様にとかでなく、とにかくひたすらに生きること、生き抜く事に集中する事によってその状況を打開できるきっかけが、目の前に立ちはだかる壁を乗り越える糸口がみつかるのだと思います。力強く、前へ前へ・・・。
被災地の今について感じたことをお伝えしたいと思います。前述しました通り被災者の皆さんの多くは仮設住宅での生活を始められています。また、次々に完成する8月は仮設住宅への引っ越しも沢山行われました。仮設住宅での生活を始めると言う事は別に自立生活を始めることを意味します。ですから、生活必需品は無論のこと光熱費に至るまで全て被災者の皆さんは御自身で負担すると言う事になるのです。また自治体などは自立生活を促し促進させたいという思いがあるようです。“自分でできることは自分で!”と言うところでしょうか。事実、こんなことがありました。仮設住宅は基本的に数十件単位でまとまって建築されています。ですからこうした新たなる居住地域に生活に必要な物資をお届けしようと考えて町の職員の方に人数や世代などを教えて頂こうと事前に問い合わせをしたのですが、「町としては自立生活を促す観点から取り次ぎはできない」と言う返事が返ってきたのです。この時は正直かなり物資が余っているのかなという印象を持ちました。ところがいざ被災地に出向き、避難所や仮設住宅で生活をしている皆さんにお聞きすると“足りない”という声が聞こえてきたのです。規律をもった日常生活を皆がおくるためにはルールは当然必要です。ですが時と場合によってはその我々の生活のために決められたルールが実生活とうまくなじまない事もあり得るのではないでしょうか。まして今回の大震災は“千年に一度”と言われるほどの出来事なのです。ですから大震災によって変わってしまった生活の現状に対しては相当の柔軟性をもって対処する事が望ましいのではないかと思うのです。ルールではなくモラル、決まりではなく道徳心、我々人が人として持つべき心をもってすれば最も円滑な生活が実現するのではないでしょうか。「臨機応変」という言葉がありますが、こうした価値観を元に色々な事に対処していくことが今被災地には最も必要とされていることだと思います。被災者の皆さんも、国や県や自治体も、そして我々支援する側の人たちも目指すところは同じはずですから。
Build Again, Japan !

8月27日夜、避難所としての第一保育所での最後の炊き出しを終えた支援隊は28日早朝、無事に東京布教所まで戻り、解散となりました。今回も本当に多くの皆様のご支援、そしてボランティア活動参加して下さった方々のおかげをもちまして被災者の皆さんのための活動を実現する事が出来ました。本当にありがとうございました。
合掌

被災地へ

☆ お 知 ら せ ☆

9月の支援活動は被災地の変化に対応し、28〜29日を目途に仮設住宅などを対象として靴や冬もの衣類などの提供を予定しています。
また今後は自立生活を始められた被災地の皆さんへの支援を主に取り組んでいきます。御米・醤油・塩・砂糖等の保存のきく食料品やトイレットペーパーやティッシュなどの日常品を提供していく予定です。更にもうすぐ被災地は厳しい冬を迎えます。宗信寺では仮設住宅を対象とした“コタツ一式x100セット提供”を目標に被災地の冬対策を積極的に取り組んでいきます。10月の支援活動にて被災地の皆さんにお届けできます様、準備して参ります。現在、量販店との打ち合わせの結果コタツ一式(コタツ・かけ布団・敷き布団)で約1万円を切る価格で入手が可能となりました。より多くの皆様のご支援を心よりお願い申し上げます。

お問合わせ・お振込先

宗 信 寺:〒259-1201 平塚市南金目2336
      0463-59-7235

東京布教所:〒151-0063 渋谷区富ヶ谷1-21-6
      03-5790-2785

○ゆうちょ銀行
記号10210 番号51350321
宗教法人 宗信寺

○三菱東京UFJ銀行
店番133 表参道支店 普通0898031
宗教法人 宗信寺
代表役員 岡 貞潤(おかていじゅん)




施餓鬼法要

8月21日の日曜日、恒例の施餓鬼法要が宗信寺の本堂で営まれました。この時期、例年ですと厳しい残暑の中での法要となるのですが今年は台風の影響もあり、びっくりするほどの涼しさでした。毎年、本堂は参詣の皆さんでいっぱいになるのですが、今年も多くの皆様ご出席のもと、厳粛に法要が営まれました。
今年は東日本大震災で尊い命を亡くされました犠牲者の皆様の御供養もお勤めさせて頂きました。
お檀家の方の中には犠牲者の皆様に卒塔婆供養をされる方もいらっしゃり、自身の御先祖様だけでなく万霊を思いやる皆さんのお気持が住職としてとてもありがたく思えました。また、3月より継続して行って参りました被災地支援活動に対する檀信徒の皆様からの応援に対しての御礼と活動報告、被災地の現状などのお話もさせて頂きました。いつもの法話とは違う話の内容でしたが、参詣の皆さんは真剣に耳を傾けて下さいました。

施餓鬼法要

八月お盆

先月に続き八月もお盆の月です。“どうしてお盆は七月の地域と八月の地域があるのか?”という点については先月の当かわら版で触れさせて頂きました。宗信寺のある平塚市は大半が八月お盆の地域です。隣接する伊勢原市、秦野市、また小田原市や茅ケ崎市在住のお檀家様もほとんどがこの八月にお盆を営まれます。日本には春秋のお彼岸と夏のお盆という仏事の機会がありますが、この時期は同時に多くの方がお墓参りをする時期でもあります。ですからこのお盆の時期はお檀家様をはじめ御親族や縁者の方々など、とても沢山の皆さんが遠近各地よりお墓参りに来られます。お墓は供えられた色とりどりのお花でいつも以上に明るくなります。仏様も喜んでくださっている様に感じるのも気のせいではないと思います。
ところで皆様は最近御先祖様や縁ある方のお墓参りをされましたか?そしてお墓参りをする時にはどのようにされていますか?お墓は大きく分けてお寺の境内墓地・霊園・共同墓地の三種類に分類されます。霊園や共同墓地の場合は基本的に宗教に限定はありませんので、本堂などはありません。しかし境内墓地の場合はお寺の敷地内にあるわけですから、大概は本堂があります。ですから、目的のお墓にお参りする前とお帰りの際は本堂に一礼することが大切です。
本堂には宗派を問わず、必ず御本尊が安置されています。ですから、外からは見えないからと言って御本尊の前を素通りしてしまう事は御世辞にも褒められたことではありません。日頃、御先祖様や私たちをお見守りくださっている御本尊に感謝の気持ちを込めて一礼できる穏やかな心をいつも具えていたいものです。
それから、時折お墓のお線香を供える場所に火のついた煙草を供えているのを見かけることがあります。しかしこれは大間違い、もしこうした形で煙草を供えた事のある方は是非とも今後は改めるべきです。確かにお線香と煙草、似てなくもないのですが、目的は大違いです。以前にもお話ししました通り、お線香やお焼香にはその場を清め、自身をも清めるといった目的があるのです。それに対して煙草はまさしく嗜好品です。ですからお墓に眠る故人様がいかに愛煙家であったにせよ、清めのためにお供えしたお線香を嗜好品の煙草で不浄にするようなことがあってはいけません。ただし、煙草はお供えしてはいけないかというと、そういうことではありません。肝心なのはそのお供えの仕方です。果物やお菓子をお供えするように煙草も火をつけずに箱のままお供えするのが良いでしょう。ただ中には“最近、煙草は安くないから箱ごとはもったいない!”と思われる方もいるかも知れません。そんな時はお墓参りが済んだあとお供えした煙草はお下げして持ち帰ればよいのです。他のお供え物も同様ですが、一度仏様にお供えしたお品は全て“お供物”になるのです。ですから、持ち帰って後でありがたく頂く事はとても結構なことなのです。
せっかくお墓参りをするのであれば、最低限の常識を踏まえて気持ち良くお参りしたいものですね。

ふじみ園合同法要

8月3日、今年も平塚市田村にあるふじみ園において物故者の方々の合同法要が営まれました。
このふじみ園は救護施設で常時およそ180人の方々が入園しており共同生活を送られています。救護施設で生活している皆さんは様々な理由で独立生活が困難な方々です。また親族や身内の縁に薄いという点も多くの方々に共通していることです。ですから一般的に申すなら“社会的弱者”と表現される方々です。
しかし、様々なリハビリや職業訓練などを通じ懸命に日々を過ごされている方々でもあるのです。そんな皆さんの御先祖様や縁者の諸霊に対し御供養するのがこの合同法要の目的です。今年も沢山の入園者の皆さんやふじみ園の職員の皆さんと共に法要が営まれました。

新校舎竣工式

8月5日夜、私は北海道の新千歳空港にいました。宗信寺の御檀家の方が運営されている専門学校がこの度新たに北海道にも開校されることとなり、出来あがったばかりの新校舎の竣工式が翌日に予定されていたからです。
本当は5日の午前の便で御伺いする予定だったのですが、同日夜、急な法務があり、そちらをお勤めさせて頂いた後、羽田から北海道に向かいました。あいにく新千歳空港上空の天候が悪く、出発の時点で着陸が困難な場合は羽田に引き返すというアナウンスがされていましたが、幸い何とか到着することが出来ました。翌6日は午前10時から竣工式が厳粛に行われました。私はここで導師をお勤めさせて頂いたのですが、これから多くの若い学生さんたちが共に集い、学び、語らい、そして社会に巣立っていく大切な学び舎の竣工式だけにその責任を感じると共に、あらん限りの気を込めて御祈祷をさせて頂きました。午後からは学校の向かいにあるホールにおいて開校記念ミュージカルが行われました。
この学校の姉妹校の卒業生や地元北海道の複数の劇団からオーディションで選ばれた方々によるキャストで実現したこのミュージカルの内容は、いじめにあい、友人を始め人との繋がりを信じる事が出来なくなって心を病み、入院を余儀なくされた主人公の女子高生が、入院生活の中で様々な境遇の人たちと新たに出会い、徐々に心を通わせて、辛いことも含めて様々な経験をしながら自己を取り戻していくといったものでした。直接的に同様の経験がなくても、ふとしたところで自分自身とリンクして過去の思い出や記憶が呼び起こされて共感をするといった絶妙なそのストーリーは多くの観る者の目がしらを熱くしたことは言うまでもありません。
心の込められた演技が観る者に与えるメッセージのその力強さに感心させられました。我々人間の持つ底力とは本当に計り知れないものがあるのだと思います。

境内清掃

7月30日の土曜日、あいにくの小雨模様の天候の中、今年も沢山の檀信徒の皆様が早朝より御参集くださり、恒例の境内清掃が行われました。先祖代々御檀家の方々も、近年御檀家になられた方々もみなさん仲良く手際よく、清掃作業を行ってくださいました。本堂内の仏具を担当される方、窓や網戸の掃除をして下さる方、畳や床を拭き掃除して下さる方、境内の植木を剪定して下さる方、墓地や外回りの雑草を取って下さる方、作業の違いこそあれ皆さんが菩提寺である宗信寺を大切にしてくださっている思いが本当に伝わってまいりました。とてもありがたいことです。
また、こうした機会に老若男女問わずあらゆる世代の方々が毎年参加して下さるのもとてもありがたく感じる事です。宗信寺の住職をしていて感じたことは正直ないのですが、巷で時より耳にいたしますのは、お参りに来る方が減っているという事、そしてお寺の事はお祖父ちゃんお祖母ちゃん任せという事です。ですから小さなお子さんが最近お参りに来る姿を見る機会が減ったという話を聞くことが増えてきました。そんな中、宗信寺ではこうした境内清掃にも小さなお子さんたちが毎年参加してくれています。“親から子へ、子から孫へ・・・”。無形であるからこそ機会あるごとに経験を積み重ねて伝えていくべきこと、継承していくべきことがあります。たかが掃除かも知れませんが、作業を通じて御先祖様を敬い尊ぶこと、祖父母や両親をお手伝いすることが自然と小さなお子さんたちに伝えられていくのです。一見当たり前のことと受け取れますが、学ぶ機会がない人は成人の年齢を迎えたからといって皆、年齢相応の常識をわきまえているとは限らないのです。
実際、私たちは小さいころ親から「悪いことをしてはいけません。人の嫌がることはしてはいけません。」と何度も何度も教えられてきました。おそらく1度も言われたことがないという人はほとんどいないと思います。しかし、大人になると理屈では承知していても、後ろめたさがあっても悪いことや、人の嫌がることをしてしまいます。まして、教えられたり経験のない事柄を頭が理解しているからといって即座に実行できるでしょうか?家族で大人と子供が時間を共有すること、そんな大切な時間の一端をお寺で過ごして頂くことが出来るのは、住職としまして本当に喜ばしいことです。

被災地へ 〜その〜
7月17日日曜日、都市部の7月お盆のお経廻りをようやく終えた翌日、宗信寺東京布教所には、18日海の日に宮城県女川町にて行うボランティア活動に参加して下さる方々が午後10時を過ぎた頃より続々と集結しました。今回は夏休み、そして海の日ということで今までの炊き出しや清掃などの労働支援に加え、ちょっとした夏祭り気分を味わって頂ければと思い、かき氷・綿菓子・ポップコーン・ヨーヨー釣りなどの機材を調達しました。また、先月来大きな問題になっているハエや蚊の虫対策の為、大量の殺虫剤・ハエ取りリボン・蚊取り線香・虫さされ薬なども支援車両に積み込まれました。特に今回の支援活動に際しては今まで以上に多くの方々から上記の物資を始め様々な形で御支援を賜ることが出来ました。本当に感謝に堪えません。今までは檀家さん、信者さんを中心として参加して下さる方々や御友人の皆様からの支援が大半でしたが、今回に至っては御近所さんや近くの商店街の方々からの応援も加わり、本当に多くの皆様の“被災地を思う心”をお預かりすることとなりました。実際に参加して下さった人数も14名と今までで一番の大所帯となりました。また、女川町の介護施設に届けるための介護用品なども沢山ありましたので、支援車両は計3台、いつもの様に行きの車中スタッフは支援物資に囲まれての出発となりました。
東北道国見SAに18日午前4時過ぎに到着した宗信寺支援隊はここで一端仮眠をとり5時30分に起床、早めの朝食をしっかり済ませ、目的地の女川町を目指しました。調度この時、ドイツでは女子サッカーワールドカップの決勝戦が行われており、世界ランキング1位のアメリカを相手に我が日本のなでしこジャパンチームがPK戦の末、優勝したというビッグニュースが飛び込んできて、支援隊の士気も一層盛り上がりました。今回は幸い大きな渋滞もなく予定していた午前8時頃には女川港に到着することが出来ました。支援隊は避難所に入る前に必ず女川港に立ち寄り、亡くなられた多くの犠牲者の方々に供養の心を捧げます。今はただ、1回でも多く、そして1人でも多くの供養の心を捧げ、亡き方を弔う事が生ある者の務めであると実感しています。すでに何度も支援隊に参加して下さっている方も、今回初参加の方も皆、心からお亡くなりになられた犠牲者の皆様の御冥福をお祈りいたしました。

被災地へ

今まで私を除いては女川町の支援場所以外を視察することがなかなか出来なかったのですが、今回は港での供養を終えた後、女川町で一番大規模な避難所となっている総合体育館や自衛隊駐屯場所となっている町営球場、ボランティアセンター本部などに皆で立ち寄りました。今回支援に伺った時点で岩手県などはすでに自衛隊の完全撤収が始まっていましたが、宮城県もその時期が迫っているようで6月に差し入れを届けに自演隊本部に伺った時は150人体制での復旧活動が続けられており、球場には野営している自衛隊員の皆さんのテントが整然と並んでいました。しかし今回はそのほとんどが撤去されており、自衛隊車両も数えるほどの数に減少していました。実際、街中のがれき撤去作業の光景にも自衛隊員の姿はなく、4カ月以上に渡って被災地で活躍してきたその任務がもうすぐ終わりを迎える事を察しました。

目的地の女川町立第一保育所に到着するとスタッフ全員で早速支援物資や食材を手際よく車から降ろし、昼食の準備をするスタッフと夏祭りの機材を設営するスタッフとに分かれてそれぞれの作業に取り掛かりました。前述の通りかき氷・綿菓子・ポップコーン・ヨーヨー釣りの支度を始めたのですが、これが意外と一苦労でした。当然と言えばそれまでですが、私を含めこうした屋台などで使う機材を使ったことのあるスタッフは1人もいなかったのです。無論、各々に必要な食材や器具、備品などは事前に調べて用意しました。ポップコーンに至ってはインターネットで調べて“おいしいポップコーンの作り方レシピ”も確認してきてはいました。しかし、見るのとやるのとでは大違いで機材のセットが済むと先ずは試作・試食が始まりました。綿菓子はなかなか大きく出来ず気がつけば作り手が綿あめだらけ、ポップコーンも味付け作業に賛否両論、しかしながらそんな作業を始めてから1時間も過ぎた頃にはどれも何とか“それなり”に上手に出来るようになりました。この出し物の中で、実現に際して最も悩んだのがかき氷でした。言うまでもなく作るのは一番簡単なのですが、問題は氷でした。いろいろ調べて約150人分のかき氷を提供するためには少なくても30kgの氷を現地に持参しなくてはなりませんでした。
ところが、支援隊がいつも使用している車両はレンタカーと自家用車、つまり保冷車ではないのでこの夏の暑い時期に30もの氷を解かさずに運ぶことはほぼ不可能に近い難題でした。人づてに幾つかの製氷業者に問い合わせしてみましたがどこも解決できず、現地での調達を考えましたが、調度気仙沼港でカツオの水揚げがようやく再開したということで、港で大量の氷を消費するため、我々がその貴重な氷を分けて頂くということがそもそも非現実的でした。その他の準備が着々と進み、支援実行の日が近づく中、これといった解決策が見当たらなかったところ、今回もまさに“変化の人”が現れたのです。それは毎回、沢山の支援物資を提供して下さっている久保寺さん御夫妻でした。この時期、幸いにも数社の宅配便業者が被災地への宅配業務を再開していました。その冷凍車を使って愛知県の製氷業者から被災地まで必要な分だけ届けてもらえる手配をして頂けたのです。実際、第一保育所には指定した18日午前10時ぴったりにこれまた極めて上質な氷30kgが届けられました。こうして “小さな屋台村”は海の日という事もあり、晴天のもと第一保育所のみならず気がつけばお隣の勤労青少年センターで避難生活を送っている子供たちも集まり、元気な子供たちの声で包まれました。
被災地へ

被災地へ
屋台村では私は主にヨーヨー釣りを担当したのですが、集まった子供たちの間でこんなやり取りがありました。
それは3〜4歳ほどの小さな子どもたちが夢中になってヨーヨーを次々と釣り上げていた時のことです。小学校中学年くらいの男の子がその子たちに向かって「そんなに1人でとっちゃったらほかの人が出来なくなるだろ!いちど全部返しな!」と声をかけたのです。そして言われた小さな子どもたちも少し残念そうでしたがきちんと全部を差し出したのです。厳しい避難所生活の中で学んだのでしょうか。私は感心すると同時に私たちが想像もできない程の過酷な時間を今、目の前にいる子供たちは誰もが経験してきているという事実にハッとする思いでした。

準備に様々な苦労が伴う事は毎度のことなのですが、今回は氷以外にも工夫をしなければいけないことがありました。提供する食事のメニューは先月の天丼もそうでしたが被災者の方々のリクエストに極力答える努力をしています。そんなことで今回頂いていたリクエストメニューは“魚料理”でした。食べやすさや味付けなどを考慮して魚料理は“煮付け”に決まりました。ただし、食材になる魚は今回も“釣りの達人”和賀君が担当してくれることになったのですが、氷と違ってこちらは切り身にして冷凍した食材をそのままの状態で被災地まで運ぶ必要がありました。ただ、やはり保冷車はないので高い気温にどう対処するかが問題のハードルを高くしていました。最初は板状の氷を使って大きな発泡スチロールの容器に入れて運ぶことを考えました。ただ、この方法には問題がありました。まず、そもそも板状の氷では被災地までの長時間では溶けてしまう心配があること、そして氷ですから解けると水になってしまい、冷凍状態の食材によく無いことなどです。また壁に突き当たってしまいました。「なんとか解かさずに運ぶには・・・」、ここで一つのひらめきがありました。そうです!ドライアイスです!ドライアイスなら約マイナス79度で保冷剤としては申し分ありません。更に氷のように溶けて水になることもありません。ドライアイスは常温では気化してしまうのでこの点でもうってつけです。ということで早速手配をすることになったのですが、およそ20kg程のドライアイスを出発の直前に調達するとなると、これまた当てがありませんでした。
しかし、持つべきものはやはり友です。私の大学時代の同級生が東京布教所の近くに住んでいるのですが、たまたまその同級生の幼馴なじみの方が富ヶ谷の商店街で葬儀社を営んでいたのです。葬儀社の方々は必要に応じてドライアイスを業務で日常的に使用されているので、もしかしたら必要な量のドライアイスを時間指定で手配して頂けるかも知れないという事で、駄目でもともとと言いつつも期待を込めて同級生を通じて話をしてもらいました。そしてその結果、布教所から徒歩2分の極めて御近所でこちらの望んだ通りの量のドライアイスを望んだ通りの時間に頂くことが出来たのです。無論、今回ドライアイスを手際よく手配頂けたのは私の同級生の存在は欠かせませんが、その他にもひとはだ脱いで頂けた理由がありました。実はこちらの社長さんも女川町を含め、すでに3回ほど被災地にボランティア活動の為に出向いていたのです。ですから、ドライアイスの用途が炊き出し支援の食材の保冷と聞いて即座に対応して頂けたのです。宗信寺支援隊と同じ女川でも活動されたというお話、私には偶然とは思えない不思議な御縁を感じました。

このように今回も本当に沢山の方々の御支援により、昼食時は野菜の和風スープ、夕食には魚の煮付け、鶏五目御飯、仙台麩の赤だし、野菜の添え物を第一保育所、御隣の妙照寺の御近所で御自宅にて生活をされている地元の皆さん、そして全国各地から泊まり込みでボランティア活動に参加している皆さん、更に女川町のボランティアセンターの職員の皆さんにご提供させて頂くことが出来ました。御支援して頂きました皆様に心より感謝御礼申し上げます。
被災地へ


ところで御承知の通り、宗信寺の支援隊には毎回様々な御縁ある方々が参加して下さっています。そんな皆様から支援を終えた後、お寺宛にお便りやメールを頂くこともしばしばです。
ここでは幾つかの参加者の方々のお声を紹介させて頂きます。

◎40代女性
「先日は本当にありがとうございました。一緒に参加させて頂いて本当によかったと思います。最後に御住職が“これから皆さん日常に戻りますが、この経験で皆さんなりに何か感じ方、とらえ方がが変わってくれるといい”と言われたことがとても心に残りました。こんなに一生懸命支援チームのみんなと頑張り、そして皆、被災地の人を思いながら天丼を作ったり頂いたりすることはなかなか日常ないことです。あれから表参道を歩きながらこんなにきれいに栄えている場所と女川港の光景とが対照的で、やっぱり私の中で何か感じ方が変わったことを実感しました。本当にあの抜け殻となった光景に御住職のお経が響いていたのが何とも言えない悲しさと共に脳裏に焼き付いています。それと同時に私たちが帰路に就く際、避難所の全員の皆さんが建物の外に出て笑顔で手を振ってくださり、皆さんの温かさに本当に感激し、元気をもらった気持でいっぱいです。」

◎40代女性
「ボランティア参加は初めてだったので女川港での光景と臭いは、あれで片付いていると聞かされてもやはりショックで涙が止まりませんでした。読経とお線香の香りが気持ちを慰めてくれるものだという事も痛感しました。供養というのは亡くなられた方だけでなく、生きている者の慰めにもなるものなのですね・・・。今回現地の方々に喜んで頂けたことを嬉しく思うと同時に自分に与えてもらったことも多かったです。また機会があれば微力ながら是非お手伝いさせてください。」

◎30代男性
「女川港から津波で流された家の跡。生活感がまだあるのに建物がない、気持ちが残っているのに体がそこにない、このアンバランスな状況に胸が詰まりました。こちらに帰って来ましてから今回見たことを再度考えて早速その状況を知人に伝えています。」

◎40代男性
「被災地の現状の一端を目の当たりにして、これからの己の為すべきことに活かして行きます。」

◎30代男性
「今回は自分なりに考えることも多々あり、非常に良い経験になりました。また、参加したいと思います。」


この様に参加して下さった方々はいろいろな思いを抱き、自問自答し、今後の自らの生活に多少なりとも役立てていこうという志をたてられている様です。思う事は大切ですがその思いの裏付けを元にそこからさらに行動していくことが今回の大震災でお亡くなりになられた全ての皆様の無念を少しでも晴らすことに繋がることは疑いのないことです。

7月の支援の段階で6月に気になっていた被災地のその後を少しお伝えしたいと思います。まず、電力供給についてですが、この点は大幅に改善されました。以前は4台ある洗濯機が同時に使えないほどの電力しか供給されていなかったのですが、ほぼ生活には困らない程度の電力は供給されるようになりました。また仮設住宅に関しては4月に菅総理大臣が“8月のお盆までには被災者全員分の仮設住宅を用意する”と記者会見で公言していましたが、徐々に進みつつはあるものの依然として目標実現は困難の様です。女川町の場合、その大きな原因が安全な高台の建設可能な土地不足です。平らな地形のエリアのほとんどは今回津波の大きな被害を被っており、仮設住宅を建てる事ができません。そんなことから女川町では“3階建て仮設住宅”も検討され始めました。次にハエなど害虫の問題ですが、こちらは当初大発生していた大型の真っ黒なハエから今度は普通の大きさのハエ、更には網戸の目を通り抜けてしまうほどの小型のハエの大量発生が被災地の方々を悩ませていました。今回は第一保育所のお隣の妙照寺に扇風機2台とサーキュレーター2台をお届けしたのですが、これも必要に迫られた原因はこうした虫の大発生にありました。先月来、安否確認の未だ取れていない行方不明の方々も含めた葬儀が頻繁に行われているのですが、法要中本堂の窓を開けておくと大量のハエが本堂内に侵入してきて法要どころではなくなってしまうそうです。網戸も虫対策としては万全ではなく、かといって窓を全部閉めると暑さの為本堂内が蒸し風呂のようになってしまうので、虫が本堂内に入らない様に窓を閉め切っても少しでも涼しくなるようにしたいとのことから今回のお届けとなった次第です。町全体規模での消毒や駆除がされない限り、この問題とはもう少し向き合っていかなくてはならないかも知れません。それからご報告ですが、5月の支援活動の折、種まきをした花がおよそ2カ月を過ぎ、ようやく咲き始めました。毎日の散水などはほとんどない状況下ではありましたが、矢車草を中心にしっかりと茎や葉を伸ばして未だ2〜3分咲きといったところでしたが、震災以後、この被災地に確実に新しい命の花が咲きました。

被災地へ

それから皆さんの関心が非常に高い放射能の測定結果について御報告します。5月の初めての測定の時は、東北自動車道上で福島県内はどこもほかの測定ポイントより数値が高かったことは以前報告させて頂きましたが、今回もその傾向は変わりませんでした。全体的には若干低下した傾向は見られましたが前回最高値を示した二本松IC付近が今回の測定でも最も数値が高く0.78μSv/hという数値が記録されました。
これは年間被ばく量に換算すると0.78x24x365÷1000という事で約6.83mSvとなりこの値に自然界で私たちが日常的に浴びる放射能の世界平均値2.4mSvを加えると約9.23mSvとなり、極めて高い年間被ばく量になってしまいます。ただこの地域は避難区域、もしくは特別警戒区域には現時点で指定されておらず、今後が心配されるところです。

ところで7月の上旬にこんな報道がされました。“赤十字社やユニセフに寄せられた義援金の大半がそのままになっている”というものです。このニュースについてどう思うか?というテーマで街角インタビューをしている番組があり、そこである女性がこんなことを話していました。“未だに使われないんだったら震災後、急いで寄付なんかしなくても良かった・・・”と。果たして本当にそうなのでしょうか?私はこの一連の流れにとても強い危機感を感じています。義援金がなかなか被災地に届かないという現実が、被災を免れた国内外の人たちにややもすると“被災地は大変なのは大変なんだろうけど案外何とかなっているのかな・・・”というような大きな楽観的誤解を招く引き金になりはしないでしょうか。またそこまでは至らないにしても、こうした現実を知らされて我々は支援の士気が維持継続出来るでしょうか。現実的には前向きな支援の気持ちに水を差すことになるのではないでしょうか。せっかく寄せられた善意の義援金がまだまだ余っていることを聞いた上で、いつどこにどんな形で活かされるかも分からない義援金を更に贈ろうと思えるでしょうか・・・。この点は早急に対処してノドから手が出るほどの思いでこうした義援金を待ち望んでいる被災者の皆さん、そして被災地の自治体へ支給してほしいと切願致します。

被災地へ

被災地へ

7月19日早朝4時過ぎ、夜明けを迎えすっかり明るくなった頃、今回の支援活動を終了した支援隊を乗せた車両は無事東京布教所に到着、互いの健闘をたたえ合いつつ解散しました。皆さん疲労困ぱいしていない筈はないのですが、疲れの中にも爽やかな笑顔で解散出来ましたのは、参加した全員の皆さんが精一杯活躍されたことの何よりの証です。スタッフの皆さん本当にお疲れ様でした。そして今回も宗信寺支援隊の活動に御支援、御協力を下さいました全ての皆様に心から篤く御礼申し上げます。 
合掌

☆ お 知 ら せ ☆

8月の支援活動は26日金曜日の夜出発し、27日土曜日に宮城県女川町にて実施致します。
今月は炊き出し支援等に加え、同行のアーティストによるライヴの実施も検討中です。
ボランティア参加ご希望の方は御連絡下さい。
また、支援物資など御協力を頂けます皆様も御連絡を頂けますと幸いです。どうぞ宜しくお願い致します。

義援金 お振込先

電話:0463-59-8235(宗信寺)
   03-5790-2785(東京布教所)

住所:〒151-0063
   東京都渋谷区富ヶ谷1−21−6

メール:myoho@soushinji.com

義援金も引き続き受け付けております。
郵便書留、御振り込み等御都合の良い手段をお選び下さい。

○ゆうちょ銀行
記号10210 番号51350321
宗教法人 宗信寺

○三菱東京UFJ銀行
店番133 表参道支店 普通0898031
宗教法人 宗信寺
代表役員 岡 貞潤(おかていじゅん)




7月お盆

皆さんは“お盆”と聞くと何月を思い浮かべますか?
一般的にはやはり8月を思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。確かにそれは正しいのですが、8月同様に7月もお盆を迎える地域があるのです。代表的なのは東京・横浜・川崎などの大都市部、また、御寺の御近所でも平塚市の中心部に近いところや秦野市の一部でも8月ではなく7月にお盆を迎える地域があります。
こうした約1カ月の違いがあるのはどう言うわけでしょうか?これは諸説あるのですが、代表的な理由といたしましては旧暦と新暦の約1カ月のずれが影響しているというものです。つまり旧暦での1月は今の2月に当たるわけですから、時期的な点を重んじれば新暦の8月となりますし、あくまで暦上の月を大切にするという事になりますと新暦の7月がお盆となるわけです。
ところでお盆はそもそも1年の真ん中を意味する中元行事の一つでもあります。ご先祖様に沢山の御供物や御馳走を御供えすることから

ご先祖様 → 敬うべき存在、そして敬うべき人 → 目上

という事でこの時期、上司やお世話になっている方々にお中元などの贈り物をするようになりました。
お中元の習慣も元をたどればご先祖様を御供養させて頂くことにたどりつくという事です。
さて、皆さんの住む地域のお盆は7月ですか、それとも8月ですか?
いずれにせよ、お盆の時期には殺伐とした世相からひと時でも心を切り離して、日頃なかなか出来ない“感謝する”という気持ちをもってご先祖様に向き合う事が大切ですね。

献体者合同慰霊法要

7月7日七夕のこの日、大田区の東邦大学医学部解剖学講座におきまして平成23年度の献体者の方々の合同慰霊法要が営まれました。
東邦大学付属病院には白菊会という献体を申請登録されている方々の会があります。
この会員の方はお亡くなりになられた後、その御遺体は東邦大学医学部において将来の医療を担う医師を目指す医学部生の方々の為にその尊い御意志が活かされるのです。
今年は45名の献体者の皆様の供養を解剖学講座の教授、先生方と共に営みました。医療発展の為にはコンピューターや講義だけでなく、どうしても実技は外すことが出来ないそうです。ですから、白菊会に登録をして下さるような方々がもしもいなくなってしまったとしたら、医療の発展にブレーキがかかってしまう事になりかねません。献体をなされる皆様のその尊い御意志には本当に頭の下がる思いです。きっと医学部生の皆さんもその御意思をしっかりと理解されて実習授業に臨んでいることと思います。
願わくは将来そんな皆さんが心ある医師として多くの病を持つ方々の為に存分に活躍されますことを心から願っています。

被災地へ 〜その〜

6月16日深夜、翌17日に宮城県女川町で行う炊き出し支援実施のため、宗信寺東京布教所には総勢12名のスタッフが集合しました。
あいにくの小雨交じりの天候の中、炊き出しに使用する食材や調理器具、また、支援物資等を入念に確認しながら車両に積み込みました。毎度のことながら被災地に向かう車の中は物資が満載されているため、御世辞にも“快適な車内”とは言えないのですが、誰一人不平を言う方はいらっしゃいません。これもきっと参加してくださった皆さんの被災地のために!という強い決意があればこそ、本当に頭の下がる思いです。

今回の支援物資の中には今までにないもの、もっと言うとそうそうお届けする事のない品物が沢山積まれていました。それは法華経の御経本と御数珠、そして御数珠袋です。これらが今回の支援車両には沢山積まれていたのです。それはこんなことがきっかけでした。私たちがいつもお伺いする女川町立第一保育所の避難所の隣には妙照寺という日蓮宗の寺院が隣接しています。こちらの御住職を勤める鈴木錬昭上人とは昭和63年、私にとって初めての壱百日の大荒行に入行した時の先輩であったことから御縁を頂きました。
行の中での鈴木上人は正直なところ私の記憶にある限り、最も怖い先輩でした。修行中上下関係は全体的なものですから先輩と目を合わせて対等な視線で話をするなどと言う様な事はまずあり得ません。ですから今回、こうして鈴木上人とお話しをするようになった事は何かとてもぎこちない思いでもあります。そうは申しましても、我々が今なすべきことは先ずは少しでも被災地のためになるということですから、毎回女川に伺う時には鈴木上人に連絡を取り、何か必要な物資、不足しているものはないかお聞きするのです。今まで大概は「ありがとう。でも大丈夫だよ」とおっしゃって遠慮なさるのが常でした。そんな中、今回は初めて「御経本も御数珠もないんだ。助かった檀家さんたちも津波で家を流された皆さんは着の身着のままで逃げたから・・・」。そんな話を告げられました。私はハッとしました。支援物資を調達する時にも「何が喜ばれるかな?欲しいものは何だろう?」そんな意識が当然いつも私の頭の中にはありました。
しかし、実際に津波から命からがら逃げることの出来た方々は当然のことながら、とる物もとらずに避難され助かった方々なのです。ですから、何が欲しいというよりはむしろ何もない、全てを失われたという事を前提に私たちは最大限の配慮を心がけなくてはなりません。自分自身の気配りの甘さにあきれた次第です。そして今まで一度もおっしゃらなかった鈴木上人が“欲しい”とおっしゃられた事も、その必要性を私に理解させるには十分なものでした。しかしながら、実際は御経本、御数珠ともどこでも簡単に手に入るお品ではありません。まして、数も一つ二つではないのです。何事も困った時にはその道の専門の方にお尋ねするのが一番です。と言う事で日頃より大変お世話になっている日蓮宗総本山身延山久遠寺の参道にお店を構えた松司軒さんに相談をしてみることにしました。するとありがたい事に「目に見える支援をしたかった」と言って頂き、この件は全面的に御協力を頂ける事になったのです。その結果、御経本約90冊、御数珠約170連、御数珠袋約170個、更には子供用から大人用まで様々なサイズの新品Tシャツ約80着、そして沢山の御煎餅を提供してくださったのです。御経本と御数珠、そして数珠袋は妙照寺で必要な数をお渡しし、そのあとは避難所の皆さんにお渡しいたしました。夕食後、保育所の玄関ホールで皆さんにお渡ししたのですが、いろんな種類の御数珠や数珠袋を前にとても楽しそうに好みのものを選ばれていたのがとても印象的でした。

被災地へ 〜その〜

女川町に到着すると真っ先に支援隊が行うのはお亡くなりになられた方々の御供養です。今回もずたずたに壊れた女川駅の見える女川港の岸近くにて参加スタッフ全員で御供養させて頂きました。
私が読経している間、スタッフの皆さんにはお線香を港や町があったであろうかつての“生活の場”に供えて頂きました。朝の静かな港に御経の声と木柾の音がしばらくの間響きわたりました。

ところで前回の初めての炊き出しの実施に際しましては、栄養のバランス、食べやすさ、被災者の方々の年齢など様々な視点から可能な限り知恵を絞ってメニューを決めたのですが、今回はすぐに決まりました。それは私たちが決めたのではなく避難所の皆さんに食べたいものをお聞きしたからです。5月19日にお伺いした折、保育所の先生方に“皆さんが食べたいものを聞いてほしい”とお願いをさせて頂きました。そして5月25日扇風機を届けた時にその結果を教えて頂いたのです。
メニューはずばり“天丼”に決まりました。こうしてリクエストメニューの天丼をメインにして、その内容等を検討したのです。しかしながら、天丼と一言で言っても色々です。天ぷらの具は何がいいのか?タレの好みは?栄養のバランスを考慮すると?しかも今回は生ものを運ぶことになるので、この気温の高い時期、衛生面も最大限配慮しなくてはなりません。また、およそ140人分の天丼作りとなるわけですから、いかに暖かい状態で食べて頂くかを考えますとかなりの工夫をしなければなりませんでした。それは食材選びから調理方法に至るまで本当に多岐に亘りました。そんなピンチの状況の中、当に救世主が現れたのです。ただ、突然現れたのではなくすぐ目の前にその人は存在していました。思えばさる3月22日、被災を免れた地域でもガソリンは満足に給油出来ずにガソリンスタンドの前には長蛇の列ができ、どこに行っても水や乾電池、カップ麺等はすべて売り切れ、被災地に入れる車両は特別な許可を受けた緊急車両のみと言った時期から私と一緒に懸命に支援物資の調達や輸送に尽力してくれた方がいました。彼はここまで全ての宗信寺の支援活動にもれなく参加してくれている唯一の存在でもあります。それは和賀君です。自身の仕事を押してまで宗信寺の支援活動に毎回全力で協力して来てくれたかけがえのないスタッフです。その上、実は彼が釣りの達人、そして料理の腕前はその辺の料理人が目を丸くするほどの腕の持ち主だったのです。そのプロ顔負けの実力はすさまじく、自宅に業務用の大きな冷蔵庫を備えているのもうなずけます。と言う事で先ず天ぷらに使う白身の魚は和賀君が船を出して釣り上げた天然もののカレイを使う事になりました。さらに、初めて私が被災地を訪れた時に持参した支援物資から全ての支援活動に協力してくださり、宗信寺の本堂に義援金募金箱も奉納してくださった宗信寺のお檀家の久保寺さん御提供のエビ、そしてかぼちゃ、インゲンと野菜も加えた4品を天丼の具にすることとなりました。更に郷土の味覚も取り入れると言う事で仙台麩を用いた御汁も作ることになりました。
こうして調理班長和賀君を筆頭に日頃ご家庭で料理に腕をふるっていらっしゃるスタッフが協力して用意した材料を手際よく調理していきました。

被災地へ 〜その〜

そんな中、ハプニングがありました。第一保育所から通りを挟んですぐ向かいには女川町立勤労青少年センターがあるのですが、こちらも保育所同様今は避難所として使われています。実はこちらからも“夕食を提供してほしい!”という依頼があったのです。食材はある程度ゆとりを持って用意はして来ましたが両方合わせて140人分の天丼は妙照寺さんやボランティアセンターには差し入れが不可能となってしまう数でもありました。スタッフの分を抜いてもギリギリの数です。しかし、今回は両方の避難所に提供する事を選択し実行しました。青少年センターにも厨房はあるのですが、事情があって今は使用できない状態です。ですから手のかかった食事はもう何日も食べていらっしゃらない事は察しがつきました。加えて、もう一つ大きな理由がありました。皆さんはこの文章をお読みになって疑われるかも知れませんが、6月17日の時点で避難所生活をしている方々はボランティア団体などの炊き出しの提供がない日は朝食にパン一個と牛乳、夕食はおにぎり一個とお茶と言った極めて劣悪な食事事情だったのです。その事実は私自身が昼過ぎに伺った女川町の支援物資配給基地で町の職員の方からお聞きしたので間違いはありません。実際に各地区にこれから夕食分として配給されるおにぎりが入ったコンテナを拝見しました。そんな事情もあり、“せっかく来たのだから出来る限り手を尽くそう!”とスタッフ全員の心は迷うことなく一つになりました。こうして休む間もなく全員のスタッフが力を合わせて今回も滞ることなく食事をご提供する事が出来ました。スタッフの皆さん、本当にお疲れ様、そしてありがとうございました。

被災地へ 〜その〜

今回の支援隊には、宗信寺が日頃お墓の工事などでお世話になっている地元平塚の石材店であるイシックスから芦川さん、猪股さん、田中さんの3名も加わってくれました。彼らは厨房ではなく私と一緒に保育所敷地内の草取りなど清掃作業に従事してくださいました。また鈴木上人の御好意により被災して甚大な被害を被った妙照寺の墓地を視察させて頂きました。あまりの被害の大きさに皆、驚きは隠せない様子でした。関東の地域よりもはるかに地震に備えた作りがされているにも関わらず、壊滅的な被害を受けたお墓を拝見すると2度目の本震で下から突き上げるような力が加わり、何百キロもある墓石や石灯篭が数十センチもとび跳ねたという鈴木上人の目撃情報も素直にうなずく以外にありませんでした。また、夕方には保育所の元所長さんの案内で女川町内の甚大な被害を受けた共同墓地なども視察させて頂きました。しようと思っても出来ない貴重な体験をして頂けた事でしょう。こうした経験をこれからのお墓の設計や工事に是非繁栄して頂ければと思います。

被災地へ 〜その〜

今回とても気になった点を幾つか御報告したいと思います。既に報道もされていますが、このところ、ハエや蚊等の害虫が大量発生しています。原因の多くは津波によって水酸加工場から流れ出た魚介類の腐敗、そして下水関係の損壊です。いずれにせよこのままでは増える一方なのですが、女川町から県にお願いしても殺虫剤等の対策物資は一向に届かないそうです。この点は是非当ホームページをご覧になられている皆様にお願いです。殺虫剤やハエ取りリボン、蚊取り線香など害虫対策のためのお品をご提供頂けますと幸いです。お送り頂きましたお品は次回7月17日出発の折、責任を持って被災地に届けますのでご協力の程宜しくお願い致します。
それから、先月お届けした扇風機がどの教室でも使用されていないという点も気になりました。決して涼しいからではなく、我々が伺った当日も晴天で少し動けば汗ばむ陽気だったのですが、使われている扇風機は1台もありませんでした。お聞きしたところ、保育所自体に供給されている電圧がとても低く同時に照明や冷蔵庫などの電気を使用しながらではとても扇風機を一気に使う事は出来ないという事でした。“では電圧を上げてもらったら?”との問いかけに対しては“町の施設なので勝手には出来ない”と言う事でした。何とももどかしい現状なのです。
それから女川町を始め、被災地の現状は見る限りでは瓦礫の撤去が随分と進んだ印象を受けましたが、同時に地域による作業の進展の差もより顕著になったという印象を受けました。先月にもまして自衛隊の工事車両に加え、民間のダンプカーなどの車両が増えてひっきりなしに作業は続けられていました。しかしながらその瓦礫は根本的な処理が行われたわけではなく、瓦礫の集積場に移動されたにすぎません。実際、例えば石巻港にはかつて東京湾にあった夢の島や13号埋立地等を彷彿するくらいの気の遠くなる様な大量の瓦礫がうず高く積み上げられています。こうした瓦礫全てを完全に処理するには数年を要すると言う報道が以前されていましたが、皆目見当がつかないというのが正直なところではないでしょうか。ただし、今行われている全ての作業は将来いつか必ず来るであろう被災地の完全復興の日のために通る道には違いありません。どんな作業でも今はただコツコツと積み重ねていくことが何よりも大切なのだと思います。

夕食の炊き出しも終わり後片付けをしていた時の事でした。保育所の梁取所長さんから“夕涼みをしている被災者の方の話し相手になってほしい”と声をかけられましたので園庭にいた方々とお話しをしました。その中である方がこんなことを言っておられました。
「俺たちはまだましな方だよ。だって家も何もすっかり全部流されちゃって何もなくなっちゃったんだから・・・。例えば半分だけ壊れた家が残っちゃった人たちなんか本当に気の毒だよ。だってあきらめがつかないでしょ!」と。震災前は漁師をしていたというその初老の男性は家族も船も家もつまりありとあらゆるもの全てを失われたのです。遠く夜空を見上げながらそう語る男性の目には涙こそありませんでしたが、私には残念ながらその瞳にその時は将来の希望を見てとる事は出来ませんでした。何という潔さでしょうか!しかし私はその方の言葉が潔くもむなしく聞こえてしまいました。そしてその言葉に大した返答が出来なかった自らの無力さも改めて痛感させられました。それからおよそ1時間後、片付け作業を終了した私たち支援隊は暗闇の中、園庭に出て“ありがとう!”と言いながら手を振り見送ってくださる被災者の方々にこちらも“また来ます!”と言いながら手を振ってお答えし、避難所を後にしました。

被災地へ 〜その〜

☆ お 知 ら せ ☆

7月は17日の深夜出発し、18日の海の日に女川町の被災地支援活動を予定しています。
今回は海の日でもあるので被災地の方々に屋台等も御提供し、多少なりとも気分転換して頂くことが出来ればと計画、準備中です。
今月の必要物資も多岐にわたります。御支援を頂けます方は先ずは電話、メールなどで恐れ入りますが、下記まで御連絡下さい。

義援金 お振込先

電話:0463-59-8235(宗信寺)
   03-5790-2785(東京布教所)

住所:〒151-0063
   東京都渋谷区富ヶ谷1−21−6

メール:myoho@soushinji.com

義援金も随時受け付けています。
お振込先は下記の通りです。

○ゆうちょ銀行
記号10210 番号51350321
宗教法人 宗信寺

○三菱東京UFJ銀行
店番133 表参道支店 普通0898031
宗教法人 宗信寺
代表役員 岡 貞潤




支援隊再集結
支援隊再集結

5月27日の夜、先日女川町で行われました炊き出しに参加してくださった宗信寺支援隊の皆さんが赤坂に再び集まりました。
ただし、この夜はボランティア活動が目的ではなく、赤坂アクトシアターで始まった舞台を観賞するためでした。『三宅裕司生誕60周年記念』と銘打った舞台がこの日、初日を迎えられたのです。
三宅ご夫妻の御好意で支援隊の皆さん全員がご招待頂きました。三宅裕司さんをはじめ伊東四朗さん、真矢みきさん、小倉久寛さん、春風亭昇太さんなど豪華キャストによる大爆笑の舞台で公演時間のおよそ2時間余りはあっという間に過ぎてしまいました。

今回の大震災に対しては本当に多くの著名な方々も様々な支援活動をされています。ただ、見ようによっては「この人の行為はわざとらしい・・・」とか「なんだか偽善者みたい・・・」、「売名行為なんじゃないの!」とかいう印象を抱かれた方もいらっしゃるかも知れません。もしかすると中には本当にそうだったものがあるかも知れません。ただ、私はそれでもそうした行為がないよりはあった方がきっとその行為を受けられた皆さんにとっては良かったのではないかと思っています。
ただし、今後においては支援を行う側の人々はその行為を受ける側の方々の事を今まで以上に最大限に思いやって行動していくことが大切であると考えます。有難迷惑になってもいけませんし、万が一にも被災者の皆さんにご負担をかけてしまう事も避けなくてはいけません。被災者の皆さんから自然に発せられる「ありがとう!」ではなく、便宜上の「御礼」を結果的に強要するようなことがあっては断じてならないと思っています。そして被災地も被災者の方々もまさしく“諸行無常”、常に変化しているのです。復旧、復興もそこにいる人々の心も日々変わって行くのです。ですから、外から被災地に赴く我々は現地と現地の方々に対して出来る限りの配慮を怠らないことが肝心であると考えています。

支援にご協力して下さる皆さんに常日頃お話していることがあります。
それは「支援の存在とは例えるなら、松葉杖や車いすの様な存在であるべきだ」と言う話です。
健康な方が怪我をすると場合によっては一時的にこうした医療器具がないと不自由してしまう事があります。でも怪我が完治する前であっても松葉杖や車いすを使えば歩いたり移動する事が出来るわけです。ただし本人にとりましては松葉杖や車いすを上手に使えるようになることが最終的な目標であるわけはなく、また以前の様に自分の脚で立ちあがり歩けるようになることがあくまで目標なのです。こうした震災に対する支援も同様で、被災地の皆さんが安心と笑顔ある生活を取り戻す事が出来るまでのサポート的存在であるべきで、いつしか不要になる日を支援する側の我々は目指すべきだと思います。

被災地へ 〜その〜

5月25日、今回は日帰りで女川町第一保育所に支援物資を届けに行って来ました。
実は前回の炊き出し支援のスタッフとして俳優・タレントの三宅裕司さんの奥さんも参加されていたのですが、初めて被災地を訪れ避難所で被災者の皆様とお会いしてとても心配になられたことがあったそうです。その一つはこれから迎える夏場における暑さ対策です。保育所では教室ごとに10名から25名ほどの方々に分かれて生活されています。基本的にエアコンはなく天井に設置された扇風機が唯一の設備です。そこに気づかれた三宅さんがご夫婦で話し合われて、その結果「何か暑さに対処するための品をご寄付させて頂きたい」と申し出てくださったのです。保育所の梁取所長さんなどと話し合った結果、エアコンや冷風機ではなく消費電力が少なく持ち運びも出来、手入れも容易であるという事で、扇風機をご用意頂くことになりました。しかし、今年は被災を免れた地域でも“節電”は避けられないことから電気店ではどこも扇風機は早くも品薄というのが現状です。結局、三宅さんご本人があちらこちらの店舗を探して下さり、結果15台の同型の扇風機を確保してくださいました。24日の夜、指定の電気店に品物を受け取りに行き、翌25日早朝三宅さんと私と家内の3名で女川町に向かいました。
午後1時頃に第一保育所に到着し、早速職員の皆様に扇風機をお渡ししました。これでこれから迎える梅雨時の鬱陶しさ、夏場の暑さが少しでも和らげて頂けると幸いです。その後、職員室で貴重なコーヒーを頂きながら、職員の方々と今後の支援活動についての話し合いをさせて頂きました。
その結果、単調な避難所生活を余儀なくされている被災者の皆様の娯楽的な事も今後、検討、提供させて頂くことになりました。また、次回6月の支援活動は炊き出しを行うこととし、メニューは被災者の方々が食べたいものをご提供するという事になりました。

第一保育所を後にしてから女川ボランティア本部に出向き、宗信寺支援隊の活動報告と予定を伝え、その後、女川町の別の避難所などを視察しました。町の総合運動場のテニスコートには現在自衛隊による仮設入浴施設“弘法の湯”が設けられており、同避難所の方々の憩いの場所となっていました。このお風呂だけでも常時20人の自衛隊員の方々が運営管理任務にあたっているそうです。“自衛隊”と聞くと男性のイメージが強いですが、男湯と女湯があるわけで当然、女性自衛官の方々も活躍されていました。この地域だけでも約150人態勢で自衛隊の皆さんが野営をしながら厳しい任務にあたっていらっしゃいます。本当に頭の下がる思いです。
そこから車は女川原発を目指しました。無論、原発敷地内まで入ることは出来ませんが、原発ゲート付近の放射線値、更には今まで伺っていない牡鹿半島の地域の視察が目的です。まず、女川原発に関してですが、こちらは公式の発表通り安定して停止状態が保たれているようで、測定した数値的にも東京や神奈川と変わらない極めて低い測定値でした。しかし、原発に至る海岸線の道路はいたるところで激しく損傷しており、修復も手つかずの箇所がほとんどでした。また、石巻市の牡鹿半島西側地域は海沿いに小さな漁村がいくつもあるのですが、こちらも津波による被害は甚大としか言いようがなく、それこそ建物どころか道すらも津波にえぐり取られ、復旧作業の人すら見当たらず、まさに何もかも一切がさらわれた地域が何箇所もありました。港付近の海面には今も流された家々がむなしく漂っている姿が幾つもありました。今まで報道等ですら見た事のない目の前に広がるその光景に私たちは一同、言葉を無くしてしまいました。被災者が多数いる地域、また行政的にも重要な地域から復旧・復興の作業が行われるという事は理解出来るのですが、被災後、2ヶ月以上を経過して地域によって作業の進展の度合いに目に見える差が生じてきているという事実に対して複雑な思いは否めません。また仮設住宅の建設も急ピッチで進められていました。しかしながら、場所によっては“こんなところに数件だけ建てたところで、入居した皆さんのその後の不自由はどう補うのか?”と持ってしまう程、近所に住宅地すらない辺鄙な猫の額ほどの狭い平地に建設中の仮設住宅もありました。この地域の仮設住宅の候補地不足を当に象徴した風景でした。

被災地へ 〜その〜
女川町からの帰り道、石巻市の津波被害を免れた市街を走行中、営業を再開している飲食店がありましたので、立ち寄り少し早目の夕食をとりました。こちらのお店では地震による建物への被害、津波の影響も幸いほとんどなかったそうですが、水道など一部のインフラの復旧に時間がかかり、お店が営業再開出来たのはゴールデンウィーク明け以後しばらくしてからだったそうです。そして今でも全てのメニューが提供できるわけではなく、一部の食材は未だに仕入れが出来ないそうです。しかしながら、お店には次々とお客さんが来店し、徐々に活気が戻っている様に感じました。そして何よりお店の皆さんの“がんばるぞ!”という前向きなやる気が伝わってきたことがとても印象的でした。被災地の方々には、避難所で時間を費やすよりは、仕事など日々取り組むべき事があること、更にはその先の目標の具体化が今最も必要な事であるこということも実感しました。
深夜、帰京してから三宅さんご家族と合流し、本日の報告と共にこの大震災についてしばし歓談しましました。御主人の裕司さんはメインパーソナリティーを勤めるラジオ番組をお持ちなのですが、その番組の中で今、支援の在り方や今後の対応、国民として何を思うべきなのか、被災地の方々と被災を免れた地域の人との意識の違いなど沢山の話したいこと、伝えたいことがあるのだという事、そして伝えることのできる立場として何を伝えるべきかということ、そうした事に対し、互いに真剣な気持ちを交わしました。芸能人の方々も被災直後から様々な形で被災地支援活動を行っている事は皆さんも御承知のことと存じます。無論、裕司さんもそのおひとりです。彼が語ってくださった話の全てには“被災地の方々の立場になって”という被災者の皆さんを思いやるお気持ちが共通して感じられました。

「もし、僕の番組に『総理大臣になったら何をやりたいか』というコーナーを作ったら沢山しゃべりたいことがありそうですね(笑)」と、そんな雰囲気の中、あっという間に時間が過ぎて行きました。
「現地の方にどんな言葉をかけるんですか?」という質問を頂きました。
正直、この事は私がいつも細心の注意を払う事の一つです。『頑張ってください。』とはまだ一度も言ったことがありません。もう充分に頑張っていらっしゃるからです。『大変ですね』とも言っていません。
何か人ごとの様で思いやりが感じられない言葉の様に思えるからです。
ですからいつも帰り際、現地の方には「また来ます!」とお声をかけさせて頂いています。
先日の炊き出し支援の折、後片付けをしていた女性スタッフが被災地の方に「嫌じゃなかったらまた来てね」と声をかけられたそうです。とても嬉しかったそうです。支援に参加して本当によかったと実感したそうです。そんな雰囲気が継続していくことが出来ればいいなと思います。「岡さん、私たちはこれから何をしていったらいいんでしょうね?」裕司さんから最後にそんな質問が投げかけられました。「寄り添っていくことだと思います。」そんな言葉が私の口から自然と発せられました。たった一日、しかしとても充実した一日でした。

放射能モニタリングデータ

現在、新聞朝刊の紙面では政府が発表している各地の放射能のモニタリング結果の数値が公表されています。ご覧になられた方、注視されている方も多いかと存じます。5月25日女川町往復の行程中、事前に計測ポイントを定め放射能値を計測してみました。その結果は以下の通りです。

放射能モニタリングデータ一覧(渋谷区〜女川町間・5.25.2011)

計測地点数値(μSv/h)計測時間風向き
渋谷区0.155:30無風
渋谷区0.1323:30北東
蓮田SA下り0.137:20
蓮田SA上り0.0922:52東南東
佐野SA下り0.127:50北北東
佐野SA上り0.1122:25東南東
上河内SA下り0.149:25
上河内SA上り0.1421:54
那須高原SA下り0.279:50東南東
那須高原SA上り0.1621:26北西
鏡石PA下り0.2810:20北北西
鏡石PA上り0.1221:06北西
郡山IC下り0.3310:30北北東
郡山IC上り0.2420:53北西
安達平良SA下り0.6410:36南南西
安達平良SA上り0.5220:46
二本松IC上り0.78(最高数値)20:35北北東
福島松川PA下り0.2710:45北東
福島松川PA上り0.4120:35
国見SA下り0.2711:05北北東
国見SA上り0.1720:00西北西
JR仙台駅周辺0.1212:05南南東
JR仙台駅周辺0.1118:52
石巻河南IC0.1113:00
女川第一保育所0.0914:26南南西
女川原発付近0.0815:40
赤字の部分は線量計の警告アラームが鳴った地点です。
 また今回の測定で最高数値が検出されたのは二本松IC付近でした。

今回の測定で分かった事はやはり福島県内は数値が高めであるという事実です。
東北道は福島県内とはいえ、事故のあった福島第一原発からは直線距離で約40〜50kmは離れた地域を通っています。
しかしながらやはりこれだけ離れていても放射能の影響が及んでいるという事です。
また、毎朝新聞に掲載される政府発表の数値は全体的に低いという点も気になります。
無論、測定環境や測定器の違いがあるので一概には言えませんが、例えば都内と神奈川県内何箇所かで独自に測定した全ての地点で政府発表の数値を上回りました。
例えば新宿0.06μSv → 0.15μSv といった具合です。政府の測定方法を少し調べましたところ、政府発表の数値は地上約20メートルのビルの屋上で大気中の放射性物質を検知、計測しているそうです(新宿区の測定地点)。
こうした計測方法とその設備は無論今回の福島第一原発の事故後に決められ設置されたものではありません。これは1950年代より世界中で頻繁に核実験が行われていた時期から継続的に我が国への放射能の影響を実態調査するために設けられた設備です。
しかし、これは我々多くの人々が日常生活している地上付近の環境とは異なることを意味し、よってより実生活に近い環境、地点での計測が望まれます。
また、偽りではないにせよ、一見すると心配なさそうな小さい方の数値が公式に発表されること、この数値の違いが万が一にも政府の何らかの意図が含まれているからではないこと、つまりは我々国民の期待に反する何らかの理由がない事を切に願います。

☆ お 知 ら せ ☆

次回の支援活動は6月17日(金)宮城県女川町立第一保育所の避難所にておやつと夕食の炊き出し、並びに労働作業を予定しています。
当日の作業内容、献立等は現地の希望を取り入れながら検討中です。ただ今、義援金・食材等の支援者を募集しています。それぞれに対してご協力頂けます方はご連絡をお待ちしています。ご連絡先は下記の通りです。

義援金 お振込先

○ゆうちょ銀行
記号10210 番号51350321
宗教法人 宗信寺

○三菱東京UFJ銀行
店番133 表参道支店 普通0898031
宗教法人 宗信寺
代表役員 岡 貞潤


宗信寺 
住所:〒259−1201 神奈川県平塚市南金目2336
電話:0463−59−7235
ファックス:0463−59−4556

東京布教所
住所:東京都渋谷区富ヶ谷1−21−6
電話:03−5790−2785
ファックス:03−5790−2786

メール:myoho@soushinji.com
宗信寺ホームページ http://www.soushinji.com

追伸:
次回6月に行われます支援活動に必要なボランティア参加者目標数は5月29日時点でおかげ様をもちまして定員となりました。
沢山のお申込み誠にありがとうございました。



被災地へ 〜その〜
被災地へ 〜その〜

5月18日夜、かねてより告知しておりました通り、19日に行う炊き出し支援のため被災地女川町に向けて東京布教所を出発しました。
今回は初めての炊き出し実施ということで、参加して頂けるスタッフを募るところから始まり、献立の検討、人数分の食材の手配など今までとは少々異なった事前準備となりました。

献立に関しましては栄養面を最重要視しました。というのも報道等で避難所での食事は栄養的にかなりの偏りがあるという事が報じられていたからです。炭水化物が多く、ビタミン類の摂取が不足しているという事でしたので、炊き出しの献立はそうした部分を少しでも補う事を目標としました。
女川町の避難所では5月に入り、昼食だけはようやく自治体からお弁当が配給されるようになりました。
今回、昼食時はそのお弁当に添える汁もの、午後のおやつ、そして夕食を提供する準備を整え避難所に向かいました。

今回は現役高校生や、大学生、社会人、更には60歳代の方まで計12名の方々が支援スタッフとして参加して下さいました。私を含め調度男女6人ずつとなりました。炊き出し実施と言う事で日頃料理に慣れた女性スタッフの参加は必要不可欠、そしてとても心強く感じました。
事前のミーティングでは献立を決めることに時間が費やされました。“栄養のバランス”、“避難所ではなかなか食べられないもの”、“子供も大人も喜んで頂ける料理”などなど様々な意見が活発に飛び交いました。併せて昼食とおやつは約100人分、夕食は約150人分という日常では作る事のない人数に対応するという事でその準備も日常の炊事とは当然異なってきます。メニューが決まると今度は必要な食材、またその量を計算していくという作業が繰り返されました。検討の結果、先ず、昼の汁ものは不足しているビタミンB1と野菜を沢山摂取して頂きたいということから具沢山の豚汁、おやつには黒糖の揚げパンとソーセージにお餅を巻いたオリジナルな一品、そして夕食はちらし寿司とおでん、焼き鳥、ひじきの煮物、ホウレンソウのおひたし、ナポリタンスパゲティ、更に野菜と果物のゼリーをデザートとして提供することに決まりました。

被災地へ 〜その〜
今回、炊き出しを行う事になったのには大きな理由がありました。それは訪問している女川町立第一保育所のライフラインの復旧です。本当はいち早く炊き出しを行いたいと言う気持ちはあったのですが、残念ながら我々の様な民間レベルでは炊き出しに必要なガスボンベや飲料水タンク、大型の炊事器具、テントなど諸々の設備をそろえて被災地に赴くことは不可能でした。しかし、4月に伺った時点でライフラインが復旧したこと、そして保育所に厨房があること、更にはその厨房設備をお借り出来ると言うご了解を得られたことによって、不可能が可能になったのです。後は炊き出しに必要な人数のスタッフ、食材、調理器具などを揃えて伺う事が出来れば実現可能という目途をつけることが出来たのです。
しかしながら、もともと保育所の厨房は150人分の食事の用意をするためには作られていません。限られた厨房設備で必要な人数分の食事を用意するために出発前にこちらで下ごしらえ等の準備は出来るだけ済ませてから現地に向かう事にしました。参加してくれるスタッフの方々が其々必要な準備を担当してくれました。我が家でもおでんに入れるゆで卵100個と、ひじきの煮物、ホウレンソウのおひたしの準備を担当しました。また、今回も支援に必要な食材を含めた物資は全て檀信徒の皆様、また御縁を頂いた支援者の皆様からの御提供、更には義援金によって何一つ不足することなく調達する事が叶いました。ご協力頂きました全ての皆様に心より御礼申し上げます。

18日午後11時30分、支援隊の車両2台は東京布教所を出発し、休憩をとりながら一路宮城県を目指しました。東北道仙台宮城インターからはいつも通り一般道で女川町に向かいました。途中通過した石巻港付近では被害にあった水産加工場から流出した魚介類などが原因と思われる異臭がひどく立ち込めており、復旧作業の過酷さが更に厳しくなった印象を受けました。19日午前9時30分女川港に到着後、先ず全員で亡くなられた方々への供養をお勤めさせて頂きました。その後、第一保育所に入り、早速炊き出しの準備に取り掛かりました。事前に準備、また調理の段取りをシミュレーションしてきた甲斐あり、とても初めての炊き出しとは思えないほどの素晴らしいチームワークで炊き出しの仕度が進められました。

被災地へ 〜その〜
食事の準備と並行して今回はもう一つ実現したかった作業が行われました。それは花の種まきです。
保育所には花壇があるのですが、大震災以後手入れが行われることもなく現状は雑草に覆われていました。
今回はその雑草を取り除き、そこに花の種という“新たな命”を蒔いて被災者の方々の癒しと励みの一端を担えればと考えていたのです。この考えに御賛同くださった支援者の方から800袋もの沢山の花の種が寄付されました。矢車草、アスター、西洋石竹など今種まきをするとおよそ2カ月程で花を見ることが出来るそうです。こちらは男性スタッフで午前中から作業に取り掛かりました。この日は気温が30度近くまで上がり、屋外は暑いくらいの陽気でしたが作業にあたったスタッフの皆さんはその暑さにもめげず、淡々と作業に取り組んでくれました。おかげで午後のおやつの時間には保育所の種まきは完了しました。休憩後は保育所のお隣にある妙照寺様の境内にても、草取りと種まきという同様の作業をさせて頂きました。今回蒔いた種が芽を出し、花を咲かせる日が今からとても待ち遠しい思いです。
炊き出しは昼食は正午、おやつは午後3時、そして夕食は午後5時からと、決められた時間に提供できなくてはいけません。スタッフの皆さんはほとんど立ちっぱなしで作業に取り組んでくれました。夕食の準備ではキャンプ用のコンロを厨房の外に2台設置し、焼き鳥を焼くなどして出来るだけおいしく食べて頂こうと皆で努力しました。とにかく初めての炊き出しではありましたが、保育所の職員の皆様のアドバイスに加え支援隊スタッフの見事なチームワークの甲斐あってなんとか無事に行う事が出来ました。皆さん、本当にお疲れ様でした。

被災地へ 〜その〜
支援物資のお届けもさせて頂きました。事前にお預かりしておりましたTシャツ、夏物子供服、生理用品などをはじめ、特に今回はARMANIJAPANを中心とした被災地支援チームからCONVERSEの新品スニーカー約100足をご提供頂いたのです。事前に保育所と連絡を取り合い、必要な靴のサイズと個数を確認して可能な限りそのご要望に沿ったスニーカーをご提供いただき、避難所にお届けする事が出来ました。夕食後、保育所のエントランスホールで被災者の方々にお渡ししたのですが、これが大盛況でさながら活気のあるバザーのようでした。何より被災者の皆さんの笑顔が拝見出来た事が一番の喜びでした。
午後9時過ぎ、全ての片づけを終え荷物を車に積み込んでいた時の事です。すっかり暗くなった保育所の庭に職員の皆さん、そして被災者の皆さんが私たちを囲むように集まってきました。そして、皆さんが“ありがとう”という言葉と共に大きな拍手で私たちを見送ってくださったのです。私は精一杯の笑顔で答えました。でも心の中では大粒の涙があふれ出していました。支援隊スタッフも皆、涙を流していました。様々な思いが込められた涙でした。言葉ではなかなか表現できない複雑な涙でもありました。でも、私だけでなく今回支援に参加してくれた全員のスタッフが再びこうしてこの場所に来ようとはっきりと誓った瞬間でもありました。

被災地にお伺いするにあたり、初めて用意した機材があります。線量計つまり放射能測定器です。皆さんも御承知の通り、政府や東京電力の福島第一原発に関する発表についてにわかにその信ぴょう性に疑わしき点も出てきました。そのため大勢の支援隊参加者の安全最優先との立場から線量計を持参して現地に向かいました。今回は幸い緊急避難を余儀なくされる様な数値が検出されることはありませんでした。しかし、東北道において福島県内のサービスエリアなどはどこも数値は高めで、その一部では線量計の警報アラームが鳴る場所もありました。詳細のモニタリングは次回予定しています。結果がまとまり次第、当ホームページでお知らせいたします。

“田中好子さん”逝く
“田中好子さん”逝く

春爛漫の4月21日の夜、午後19時04分、女優の田中好子さんがお亡くなりになられました。行年55歳での御隠れでした。
御存じの通り、好子さんは十代の頃よりキャンディーズの一員として70年代の芸能界を一世風靡して当に今日のアイドルグループの先駆けとなりました。その後、『普通の女の子に戻りたい』という明台詞を残し、一時芸能界を引退しましたが今度は女優として復帰されました。その後の活躍の数々は今更ここで申し上げるまでもありません。91年には共演した故夏目雅子さんの縁で雅子さんの長兄である小達一雄さんと御結婚されました。
実生活ではお子様はいらっしゃいませんでしたが、“名母親役”として多くの映画やドラマに出演し、沢山の子供たちの“母親”になりました。
好子さんはこの様に芸能界での活躍のほか、厚生労働省、国立医療センター、エイズ予防財団等、様々な場におかれましても積極的な活動をされておられました。
また、報道等ではほとんど知らされていませんが、好子さんは私が毎年3月に全国行脚でお伺いしている専門学校におかれましても長年要職をお勤めになられていらっしゃいました。私はその学校の関係でお会いする様になり、もう8年ほどの御縁になります。無論、御主人の一雄さんとも姓名鑑定の依頼等もあり公私ともにお付き合いをさせて頂いておりました。毎年必ずお会いするのは東京地区の学校の入学式でした。
東京フォーラムで行われますこの入学式でいつも控室がご一緒でしたので、お茶を頂きながらマネージャーの丸尾さんも交えて、いろんなお話をさせて頂きました。今振り返りますとここ数年は目の不調を訴えていらっしゃいました。40代頃よりどなたでも始まる老眼の症状ではなく、控室ではしばしば辛そうな仕草をされていたこともありました。しかし、いざ入学式が始まりますと壇上に上られたそのお姿はそうした体の不調を微塵も感じさせない凛とした好子さん御本人でした。今思うと、そうした不調の原因は癌にあったのかも知れません。
お恥ずかしながら19年もの間、癌との闘病生活をされていたことは存じませんでした。昨年の秋、体調を崩されたので入院するという事はお聞きしていましたが、多忙な毎日を送られていたので“お疲れがたまったのでは・・・”とばかり思っておりました。大震災の影響で今年の東京地区の学校の入学式は中止となりましたので、好子さんにお会いしたのは昨年の4月に行われた入学式が最後となってしまいました。
皆さんは好子さんにどんなイメージをお持ちでしょうか?キャンディーズ時代の『スーちゃん』のイメージをお持ちの方は“はち切れそうな・健康的な・はじける明るさ”といった印象でしょうか。また、女優になられてからのイメージとしては“良き母、家庭的な母親”という印象、また、コマーシャルの印象が強いという方もいらっしゃるでしょう。私が知るここ数年の実際の好子さんは、誠実で飾らない、気さくな方でした。見た目にはむしろ少々華奢な方でした。
好子さんのお通夜は4月24日、東京都港区の青山葬儀場で行われました。当日は約2400人もの会葬者が好子さんのもとにお集まりになられました。翌日の葬儀には約2200人もの方々が好子さんにお別れを伝えにお見えになられました。お通夜の日、ある方が「その人の徳は、亡くなられたときに分かるものですね・・・」と私におっしゃいました。関係者を含めますとおよそ5000人もの方々が好子さんとの最後のお別れを直接されたことになります。本当に好子さんの御生前の御人徳が偲ばれます。
お通夜が始まる直前ではありましたが、御主人の一雄さんが「好子にあってほしい」という事で、棺の中の好子さんとお会いすることが出来ました。長きにわたる闘病生活をされていたとはとても思えないほどの穏やかで優しく安らかな御尊顔でした。辛さから解放されてほっとされたという様子も伝わってきました。
色々な場で御活躍された好子さん。私は常日頃御相談事でお会いする方々に申し上げていることがあります。それは“人として生きること、それは自分を活かすこと”と言う事です。自らの役割と技量をしっかりと把握してなすべきこと、出来ることにしっかりと取り組むという事をお伝えしています。好子さんの御生涯はまさしく自身を活かしきった人生でいらっしゃいました。

『春光院妙純日好大姉』 好子さんの御冥福を心よりお祈り申し上げます。
南無妙法蓮華経 合掌

被災地へ 〜その〜
被災地へ 〜その〜

4月19日の深夜、再び支援物資を届けるために大震災の被災地へ向け支援車両2台で出発しました。
今回は3月に初めて被災地に向かった時とは違い、携帯電話で避難所の方々と連絡がとれる様になったので、現地で今何が必要なのか、どんなものが不足しているのかという事の最新情報が得られるようになりました。
前回は宮城県の亘理町と女川町の避難所に支援物資をお届けしましたが、その後物資の行き渡り方が地域によってかなり差が生じてきました。今回被災地に向かう直前、宗信寺支援車両の2号車が初回同様亘理町に伺ったのですが、こちらは比較的支援物資が行き届いていたとの報告があったこともあり、今回は2台とも女川町の避難所に支援物資を届けることにしました。
事前の現地とのやり取りで夏服、子供服、生理用品などこれから必要な物、不足している物などの情報を得ていましたので今回も多くの方々に御支援を頂きまして、大きな段ボール箱に30個程の物資を用意する事が出来ました。御協力を頂きました皆様、急なお願いにも関わらず、御支援を賜りましたこと、心より御礼申し上げます。
今回も東北自動車道で宮城県に向かい、仙台宮城インターで下車し、仙台市内を通過して塩釜、松島、東松島、石巻、そして女川というルートで現地に向かいました。仙台市内では、もうおそらく被災前と同じ様な朝の通勤通学の風景が見られました。また、仙台港近くも1カ月前に比べますとだいぶ瓦礫や泥などの除去作業が進んでいるなという印象を受けました。
3月の時点では実は松島から石巻の一部で海沿いの道路へは緊急車両でも通行が出来ませんでしたが、今回は通行可能でしたので、日本百景の松島の島々を右手に見ながら女川を目指して北上しました。車を進めていくと前回通行止めだった理由が理解できました。この地域は地盤沈下が激しく、海水がかなりの広範囲で流れ込んできてしまう様です。道路の痛みも激しく一見被害が小さく見える松島の海も、海面をよく見ると大量の泥や瓦礫が流れ込んでしまっていました。
また、東松島の街中を流れる河川では多くの自衛隊の方々が今も尚、懸命な安否不明者の捜索を行っていました。石巻港で全壊した日本製紙の工場、またその界隈は火災が発生した様で被災した町の様子は本当に悲惨な状態でした。
女川町に到着して先ずは女川町立第一保育所に伺いました。梁取所長さんや津波によって全壊してしまった第二保育所の池田所長さんをはじめ、沢山のスタッフの皆さんが暖かく迎えてくれました。
良いニュースがありました。それは第一保育所の地域のライフラインが復旧したことです。最後までなかなか復旧できなかった水道がつい数日前にようやく復旧したことから、倒壊を免れた高台の住居ではお風呂も使える様になったそうです。日本人にはやはりお風呂は欠かせないものですね。他の被災地域でも早くライフラインの復旧が叶う事を願ってやみません。
第一保育所で支援物資をお渡しし、また今後の支援活動についての打ち合せを済ませた後、私たちは隣接する妙照寺に伺いました。ライフラインの復旧のニュースで喜んだのもつかの間、御住職の鈴木上人のお話を聞くと未だに安心できない被災地の現状が伝わってきました。それは度重なる余震の影響です。現地では本震以後も大きな余震が続いています。その影響で本震では倒壊を免れた家屋も大きな余震で影響を受けたり、地盤が崩れたりと余談を許せない状況が続いているのです。妙照寺におかれましても庫裏の扉や襖が開かなくなったり、墓地のさらなる倒壊、更には境内の一部が更に地崩れを起こすなど事態は深刻です。
女川第二小学校にボランティアセンター本部が開設されています。次回の支援活動は炊き出しを予定していることから、このボランティアセンターへ支援団体としての登録を済ませました。その後、女川町内の他の地域の被災状況を視察しました。その中でひときわ強烈に印象に残る光景がありました。その場所は女川港から内陸方向に1.5キロ程入った、女川の町を見下ろす事の出来る小高い丘の上にありました。ここには共同墓地があるのですが、目測でおそらく海抜20メートル程はあろうかという丘の上です。その丘の上の墓地の上に何と女川駅辺りから電車の車両が津波によって流されてきて墓地の上に打ち上げられ、その無残に傷ついた巨体をさらしていたのです。まさに想像をはるかに超えた今回の津波の脅威を思い知らされる光景でした。
その後、海沿いに車を走らせました。眼下に女川港、そして海を挟んで向こう側には女川原発が望む事の出来る展望台に行きました。ここも地震で所々大きな地割れが生じており、立ち入り規制がされていました。かなたに見える女川原発に今後絶対事故がない事を心から祈りました。ふと頭上を見上げると開花した桜の花が私を見下ろしていました。一瞬、現実から離れホッとした瞬間でした。この場所できっと来年も咲くであろうこの桜の花をまた見に来たいと思っています。

被災地へ 〜その〜

☆ お 知 ら せ ☆

次回の支援活動は5月19日女川町立第一保育所での昼食・夕食の炊き出しを予定しています。
御米・調味料(醤油・みりん・油・砂糖・食塩・みそなど)・野菜(にんじん・大根・ごぼう・シイタケ・ホウレンソウ・ジャガイモ・ネギなど)・卵・肉(牛肉・鶏肉)等を用いて昼食・夕食とも約150人分の炊き出し支援を行います。食材等の物資提供の御協力を頂ける方々は下記までご連絡をお願い致します。なお、支援隊は5月18日の夕刻には出発し被災地へ向かいます。よって物資をお送り頂く場合には恐れ入りますが、18日午前必着にてお願い申し上げます。

電 話:0463−59−7235 宗信寺

メール:myoho@soushinji.com

宅配便:5月18日午前必着
〒151-0063
東京都渋谷区富ヶ谷1-21―6
宗信寺東京布教所 岡 貞潤
TEL:03-5790-2785

直 接:宗信寺まで
5月1・3・4・5・7・8・14・15日の午前9時〜午後5時の間

戦没者慰霊
戦没者慰霊

ここ数年継続して行われてきました第二次世界大戦の激戦地を訪ねて御供養を勤めて参りました戦没者慰霊。今年はフィリピンにて行われました。フィリピンは7.000を超える島々からなる国です。16世紀にはスペインの植民地となり、その後19世紀にはアメリカの植民地となりました。旧日本軍は1941年12月にマニラに上陸し、翌1942年にはこの地を占領しました。この国においては終戦までに約518.000人の日本兵が戦死したという資料が残っています。と同時に実に1.000.000人を超えるフィリピン人の方々もお亡くなりになられました。また、フィリピンは日本が第二次世界大戦における降伏を宣言した地としてもその名が歴史に残ることとなりました。

現在フィリピンは経済的には主要貿易国は日本とアメリカと言う事もあり、日本とは良好な関係を維持しています。しかしながらこの地域にある他の国と同様、戦時中においては悲しい歴史があるのもまた事実です。今回は現地法人アステラス・フィリピン・ファーマincのテス社長、橘副社長をはじめ皆さんのサポートを頂きながら、マニラから空路パナイ島へ、そこからは自動車やボートを使って供養の地に出向きました。

ところで、フィリピンに滞在中、至るところで皆様から東日本大震災の事を気遣って頂きました。日本から来た事が分かるとほぼ全員の方々がお見舞いの気持ちを伝えて下さいました。本当に嬉しい瞬間でした。また、街中でもいたるところで『PRAY FOR JAPAN(日本のために祈ろう)!』と書かれたTシャツを着た人やバッジをつけた人を見かけました。世界が今の日本を応援してくれていることを肌で感じることが出来ました。こうした気持ちに応えられる様、日本がしっかりと復興の歩みを続けていけることに励んで行きましょう。いつかこうした皆様に恩返しが出来るようになるためにも・・・。

被災地へ
東日本大震災

春のお彼岸の最中ではありましたが、21日までに宗信寺にお寄せ頂きました様々な救援物資を通行許可証を得た2台の緊急車両に積み込んで22日午後、1号車は宮城県女川町方面へ、そして2号車は同じく宮城県亘理町方面へと宗信寺を出発致しました。私は1号車で女川町方面を目指しました。東北自動車道をひたすら北上しました。この時点で既に応急的な補修は施されていましたが、東北道にはいたるところにうねりや、クラックなど震災の爪痕がありました。また、ほとんどのサービスエリアは断水状態で、売店にはおにぎりやサンドイッチと言った食料はどこも売り切れ状態でした。パーキングエリアは全て全国から被災者支援に駆けつけた緊急車両ばかりで、凍てつく暗闇の中、何ともいえぬ緊張感が漂っていました。仙台インターチェンジ手前のサービスエリアで営業している食堂があったので被災地に入る前に食事をとりました。お店の方々もおそらく被災された方々なのでしょうが、「皆が全国から救援に来てくれてありがたい。せめておかわりは自由にしていってください!」とお店を訪れる救援隊の皆さんに振舞っていいたのがとても印象的でした。東北の人の暖かさを感じました。

夜が明けた頃、ようやく1号車は仙台市内に入りました。その様子は一言で表現しますと、拍子抜けしそうなほど、静かな町並みでした。早朝ということもあったのでしょうが、大きく倒壊している建物は見当たらず、“本当にこの町をあの大震災が襲ったのか?”と思ってしまう程、市内は平静を保っている様に見えました。しかし、その風景は仙台港に近付くにつれ、突如として一変しました。津波の被害です。路上には数えきれないくらいの車が、まるで沢山のミニカーをかき集めたがごとく激しく破損した状態で無秩序に散乱しています。そして大通りに面した大型店舗はがれきで敷地内が埋め尽くされています。そんな中、1号車は海岸線を右方向に見ながら北上しました。
その後、塩釜、松島、石巻と進んで行きましたが目の前に広がる惨状、そしてその被害の大きさは事前に報道なので把握していた情報の比ではなく、言葉で表現する事が困難なほどでした。
また、ことに印象的だったのは津波を受けた地域と免れた地域の建物等の被害の差が著しいという事でした。例えば通り一本を隔てて津波が押し寄せたところは壊滅的被害を被っているにも関わらず、津波が来なかった隣接地は建物に外観的なダメージがほとんどないのです。“もし津波が来なかったら今回の大震災で犠牲になられた方の人数、そして被害状況も全く違うものであっただろう・・・”という思いが悔しさ、無念さと共に胸に込み上げてきました。また、途中瓦礫の避けられた道路一体に海水が流れ込んで来てあっという間に大きな池の様になってしまう場所もありました。地震の影響で広範囲にわたり地盤沈下が起きているという事で大潮や満潮の関係でこうした現象や海水が引いていかないという事も続いているそうです。

1号車、2号車とも今回の物資搬送に関しては大きな避難場所ではなく比較的小規模な避難場所に救援物資を届けようと決めていました。これはかつて発生した阪神大震災の救援活動の経験から至った考えです。当時、私は神戸市東灘区にある本山第二小学校に被災数日後にボランティアとして入りました。ここは比較的大きな避難場所でしたので、救援物資も比較的届き易い環境にありました。しかし、近隣には半倒壊の御自宅や、火事場泥棒を警戒してか、避難所には入らず数件で避難生活を続けられている方々、小さな児童公園などで過ごしている方々など救援物資を円滑に受け取ることが出来ない多くの被災者の方々を目にしていたからです。このような状態で過ごされている方々と大きな規模の避難場所で過ごされている方々の間ではどうしても支援の面で大きな差が生じてしまう事が避けられません。ですから、私達は民間の支援活動として出来るだけ手の届き辛い地域に物資を届けようと言う事になったのです。
女川町には私が初めて大荒行に入行した時以来の先輩が住職を勤めるお寺があります。そのお寺は高台にあったため、津波の被害は免れましたが、本堂内部や墓地など大きな被害を被り、御住職御家族も隣接している町営保育所に避難されているということ、なかなか物資が行き届いていないという情報を得ていましたので、その避難場所を目指しました。少しだけ山間の道を走り、女川港方面に下り始めると目の前には言葉を失う程の惨状が広がっていました。山の斜面にはおそらく道路から20メートル程はあろう所まで津波がその威力を示さんがごとく、瓦礫が縁取りの様に追いやられています。目の前にあるそのもの自体が過去何であったのか、どこにあったのか、どんな形をしていたのかも一見しただけでは判断できないくらいの被害の地域を抜け、皮肉にも視界が広く開けたもと町並みを見渡すと、小高い丘の上にお寺の屋根らしきものを見つけることが出来ました。限られた道路を進みながら何とか先輩のお寺に到着する事が出来たのは午前9時頃でした。妙照寺の御住職、鈴木上人にお会いするのは十数年ぶりのことです。ただ、お互いにこの様な形で再会を果たすとは予想だにしていなかったことは言うまでもありません。保育所の避難場所には私が伺った時点で245名の地域の方々が避難されていました。数日前より自衛隊による食料と水の配給が安定的に行われ始めたとのことでしたが、神奈川という遠方からの民間レベルの救援物資は初めてだったそうで、とても喜んで頂くことが出来ました。それより何よりこの様な状況の中、貴重な水を使ってお茶を入れて下さったり、“寒かろう”と言う事で焚き火に案内して下さったりと、かえってこちらが気を使って頂いてしまい、恐縮する場面もありました。幾多の困難を強いられながらも、決してお互いに思いやることを忘れない女川の皆さんの笑顔に見送られ、1号車は避難所を後にして女川港に向かいました。
実は今回被災地に向かったのには被災者の皆さんの支援と同時にもう一つとても大事な目的がありました。それはお亡くなりになられた方々への御供養です。本来は御遺体の安置所にて御供養させて頂くことが叶えばと言う思いでいたのですが、突然の訪問と言う事もあり、行政側の許可が頂けないという理由で、今回は叶いませんでした。よって、せめてもという事で、女川の町を飲み込んだ大津波が押し寄せた女川港に出向き、そちらで御供養をさせて頂く事にしました。この被災地訪問を決めた時、同行を申し出た私の弟子でもある息子と共に袈裟、法衣を身に付け、今は皮肉なほど凪いだ女川の海を背に、つい数日前までは田舎の港町ならではの穏やかでのんびりとした多くの幸せな生活があったであろう、もと町並みに向かって一会の法要を営みました。今は瓦礫と化してしまった地面にお線香を供えていると、平和な生活が一瞬にして奪われてしまったことが痛いほど、そして苦しいほどに伝わってきました。平和な営みの片鱗がここそこに散らばっていたのです。何が起きたかもわからぬ間に尊い命を奪われてしまう事になった多くの霊魂に心から祈りをたむけることがその時の私たちには精一杯でした。

様々な思いを胸に私たちは帰路につきました。帰り道、車中で色々なことを考えました。考えても答えの出ないことも沢山ある中で、明確になったこともありました。それは自分の命は自分のものではありますが、その終わりも長さも決して自分では決められないということです。これは残念ながらどうにもならないことです。だからといって“どうせいつか死んでしまうんだから・・・”といった悲観的な立場に立つのではなく、“でも今こうして生きている以上、出来ることを懸命に努めていく”という前向きな気持ちを持って生きていくことが大切なのだと思います。そしてもう一つ、私たちの日常生活は決して当たり前に営まれているのではないという事です。したい事が何の障害もなく思い通りに実現できるという事は、実は心から感謝すべき事であるということです。
“平和ボケした日本人”と揶揄される事がしばしばあります。ボケる程に平和なのはとても結構なことだと思います。ただ、その平和には当然感謝が伴うべきであり、万が一にも“当たり前”などと思う事は言語道断であると思うのです。こうした思いは以前から私の思考の中にはありましたが、今回の被災地訪問を経て、その認識は一層深まりゆるぎないものとなりました。

後日2号車で亘理町方面に出向いた宗信寺救援隊のスタッフから現地での報告を受けました。とりわけ印象に残った話がありました。御近所数件で身を寄せていた方々のところに不足している物資がないかと尋ねた時の事だそうです。持参した救援物資を渡した後に「ここには小さな子供は幸いいないので必要としている人のところに届けてあげてほしい。本当なら自分たちで行くことが出来ればいいが、ガソリンがなく行くことが出来ないのでお願いしたい!」と紙オムツと粉ミルクを託されたという報告です。被災者でありながら人を思いやることを忘れない、被災地の皆さんの人間的な暖かさ、思いやりの深さは当に私たちの尊敬に値するものであると確信しました。

宗信寺ではこれからも長期にわたり、被災地支援活動を継続していきます。現地で必要な物資調達の折にはあらためて御案内させて頂きます。また、義援金に関しましては直接のお預かりのほか、郵便書留、また下記の通りお振込での受け付けも致しております。振込先は下記の通りです。

義援金 お振込先

○ゆうちょ銀行
記号10210 番号51350321
宗教法人 宗信寺

○三菱東京UFJ銀行
店番133 表参道支店 普通0898031
宗教法人 宗信寺
代表役員 岡 貞潤



今後、今後とも皆様からの物心両面の御支援を心よりお願い申し上げます。

春季彼岸会

3月18日の彼岸の入りから24日の彼岸明けまでの1週間、今年も春のお彼岸を迎えました。
今年の宗信寺のお彼岸は例年とは少し様子が違いました。それは今回の東日本大震災に対し、お寺として出来ることの一環として、急きょ檀信徒の皆様を中心にお寺に御縁のある関係各位の皆様より、被災地の皆様が不足している物資をお持ち頂いたからです。18・19・20・21日の4日間で肌着や衣類、カイロ、歯ブラシ、御米、保存食、飲料水、履物、台所用品、乾電池、作業用手袋、紙おむつ、生理用品、ティッシュ、毛布、コップ、石鹸、シャンプー、燃料などなど、急な御声かけにも関わらず、本当に多くの皆様から沢山の救援物資が宗信寺に届けられました。当初は車1台で被災地に届ける予定でしたが、急きょ緊急車両を2台に増やし皆さまからお寄せいただいた多くの“心”を現地に届けることにいたしました。また、この間、義援金も沢山の方々がお届けくださいました。義援金に関しましては、引き続きお預かりさせて頂き、今後、適材適所1円まで活かして復興にお役立てさせて頂きます。御協力頂きました全ての皆様に心より篤く篤く御礼申し上げます。

東日本大震災

3月11日、日本は東北地方太平洋沿岸を主にかつてないほどの大地震とそれに伴う大津波に襲われました。
そしてさらには、福島第一原子力発電所が被災し、放射性物質が飛散するという、これまた大きな脅威に駆られることになりました。この未曾有の大災害においてお亡くなりになられました多くの皆様の御冥福を心よりお祈り申し上げます。そして多くの困難を強いられながら、今なお避難生活をされている被災者の皆様に心よりお見舞い申し上げます。

私は名古屋地区の専門学校の御祈祷を終え、学校の皆様と昼食を済ませた後、予定より早く名古屋駅に到着できましたので乗車する新幹線を早めて午後2時30分発上りののぞみ新幹線に乗車して約16分後、新幹線が停電により緊急停車して地震の発生を知りました。新幹線の車中では情報が乏しかったので、持っていた携帯電話のワンセグ放送やインターネット配信されているNHKの海外向けの動画ニュースなどで可能な限り情報を集めました。実は3月2日には仙台地区の学校に伺ったばかりでしたので、被災直後に電話やメールで連絡を試みましたが御承知の通り、すでにそうした通信手段が活かされる状況ではありませんでした。上記のインターネットニュースからは、先日利用したばかりの仙台空港が津波に飲み込まれる映像をはじめ、目を疑うような現実が次々と放送され続けました。阪神大震災が発生した日の報道で時間を追うごとにその被害の大きさが増していった時の事を思い出し、これはただ事ではないことを瞬時に悟りました。

既に駅を出発していた新幹線は5〜6時間ほどの停車の後、徐行運転を繰り返しながら何とか同日の午後10時30分頃には品川駅に到着しました。本来は東京駅下車の予定でしたが、東京駅が帰宅困難の方々で大変な状況になっている事を知り、多少なりとも拍車をかけることは避けたいとの思いから、ひとつ前の品川駅で下車したのですが、駅構内では一部天井が剥がれ落ちるなどしており、また帰宅できなくなった何万という人々でごった返していました。駅を出ると道路は車で大渋滞し、マヒ状態でした。結局渋谷にある東京布教所まで約2時間半ほどかけて徒歩で戻りました。

東京は震源地近くの震度の地震こそ免れましたが、都市部の弱さを露呈する形となりました。そして更には発達した通信環境が時に災いして、デマや恐怖心をあおるようなチェーンメール、そして非道徳な被災地の写真などがまたたく間に日本中に広がってしまいました。また、この非常時にあるにも関わらず、政府と国民との信頼関係は更に希薄なものとなってしまいました。

昨年は『立春』を迎えたタイミングで暦を使ったその年のお話しを掲載させて頂きました。同じ視点をもって今年も暦から何を受け取ることが出来るのか、お話ししたいと思います。無論、既に大震災が起こった今、この話を掲載する事にいささかの抵抗がないわけではありません。よって今年の新春初祈祷会にて法話で暦を用いてお話しした内容をそのまま原文通りに改めてここにお伝えさせて頂きます。皆様の今後の御参考になれば幸いです。

※以下、「新春初祈祷会」(平成23年1月9日宗信寺にて開催)の法話より

本年平成23年は十干では辛(かのと)、干支では卯(う)、九星学では七赤金星という年になります。十干・干支・九星はそれぞれ尺度が違います。例えて申すなら、長さを測ったり速さを計ったり重さを計ったりといった具合です。しかしながら全てに共通していることがあります。それは全てが本年“平成23年”を言い表しているという事です。1つの対象物に対して1点より2点、2点より3点とより多くの視点から眺めた方がそのもの自体の理解が深まります。同様に、1年という時間もより多くの視点をもって見ることによってより具体的に把握する事が叶うわけです。

それでは次に今申し上げました辛・卯・七赤金星という3つの言葉それぞれがどんな意味を持っているのかをお話ししたいと思います。
先ず「辛」は辛い・過酷・冷淡・貫く気持ち・鋭い言葉・枯死(植物が枯れること)そして新しい芽生え とい言った意味を含んでいます。
次に「卯」は春・明るい春の到来・活気・躍動・辰巳にむけての上昇気運の始まり といった意味を持ちます。
最後に「七赤金星」ですが、こちらの象意は喜び・祝賀・金銭・活発・不十分・不足・不注意と言ったところです。

以上の暗示から本年を幾つかのテーマに分けて見つめてみたいと思います。
先ず「政治」というテーマでお話ししたいと思います。
政治的には戦後の政治構造が崩壊し、今まで通りの政策ではなかなか成果を上げることが出来ず、政治家たちは国民の信頼を失い、自信を喪失していきます。結果、多くの政治家の関心は保身に傾くことから、政治的混乱が続きます。しかしながら、本年の運気を前提に考えるならば、これは新しい時代の新たなる政治体制、新たなる政策、そして真の指導者を誕生させるためのいわば“産みの苦しみ”の時期ととらえるべき時なのです。今までの様に偏ったアメリカ依存の姿勢ではなく、明治維新の頃の様に“独立自尊”、つまり日本として明確な意思と誇りを持てる国家体制の実現が肝心となるでしょう。

次に「経済」というテーマでお話しします。
今年は新時代の技術、発想、企業の芽吹き、台頭が現実となります。古い発想から新しい発想への転換が大きなカギとなります。暦を用いた話をする時、60年という時間が1つの周期として用いられます。これは十干が10種類、干支は12種類であることから、同じ十干と干支が再び巡り合うのは60年に1度と言う事に由来します。今から60年ほど前はエネルギーの主力がそれまでの石炭から、石油への移行していった時代です。そして今、今度はその石油から太陽電池・水素・メタンハードレイトなど次世代エネルギーへの関心が高まり、実用化される時代へと変化して来ました。身近なところでは初放送依頼続いてきたテレビのアナログ放送が本年7月より地上波デジタル放送へと全面的に切り替えられるのも暦の上では本年あってしかるべし事象と言う事が言えるでしょう。こと、経営者、運営者の方々にとってはこうした時代の変化を読み捉えられるか否かがとても重要であり、勝ち組と負け組の格差はより広がっていくことでしょう。

最後に「社会」というテーマでお話ししたいと思います。
社会、すなわち我々の日常生活におきましては、今までの経験や常識、定説といったものが通用しなくなるという事が起こってきます。
そんな時は何事にも柔軟な対応が肝心です。「世も末、末法」的な風潮は続き、目も当てられぬ様な惨事や犯罪、理解の範囲を超えた事故、事件等も増える傾向にあります。ただし、一方で昨年末辺りから全国各地に“タイガーマスク”が現れて様々な慈善活動を行っている事に象徴される様なつまり、今まで誰しもが心に抱き、その大切さを理解しているにも関わらずなかなか声にすること、はたまた表現する事が叶え辛かった「自分の事より人のために」、「自分の利益より社会貢献」という価値観を持つ人が増え、またそのような価値観に基づいた様々な行為行動が社会で認知され必要とされる、そんな時代の先駆けとなるでしょう。現状を“暗い”と立ち止まって嘆くより、“前に進んで明るいところを目指す”という前向きな気持ちを強く持ち、行動する事が何よりも大切な年となります。

以上が本年の「新春初祈祷会」での法話での内容です。今改めて今年を暦の上から見つめ直してみますと、東日本大震災の発生、そしてその後の我々のおかれた現実の端々が見て取れます。確かに先師が膨大な時間と研究を重ねて今に残して下さった暦と言う“知恵”から、年頭、私自身がこの“未曾有の大災害”をより具体的に読み取ることが出来なかった事は自らの修行不足、勉強不足にその最大の原因があると言わざるを得ません。実際、大震災発生の当日、しかも直前に名古屋の学校のスタッフの皆さんとの昼食後の会話の中でニュージーランドでの地震の話題になりました時にも「暦の上からは今年日本に同クラスの大きな地震が発生するという事は見て取れません。」と明言していました。しかし、暦の中にはすでにそのこともそして今我々が何を重んじ、何をすべきかという事さえも明確に語られていたのです。皆さんには今年の暦の暗示はどのように見えるでしょうか?遅かりし感が否定できない点もありますが、これから役立てていくことのできる大切なことも暦は私たちに伝えてくれています。

今から、65年ほど前、日本は宮城や福島のみでなく、長崎も福岡も広島も大阪も名古屋も横浜、平塚もそして首都東京も焦土と化した時代がありました。第二次世界大戦終戦末期、日本はアメリカ軍による激しい本土爆撃を受け、世界で唯一原子爆弾をしかも2個も投下されて甚大な痛手を被り、当に瀕死の状態にまで追い詰められました。しかし、終戦後私たちの祖父母、そして父母の世代の皆様が打ちのめされた祖国日本を20年もしない間に黒こげの町を復興し、高速道路や新幹線を次々と開通させ、東京タワーを建て、オリンピックが開催できるまでの経済大国に蘇らせて下さいました。おかげで今、私たちは生まれてこのかた日常生活の中で死を意識させられるような事のない平和で安全な日本で生を受け成長する事が出来たのです。その日本が今、大きな傷を負いました。今度は私たちの世代の番です。今、一生懸命働くことのできる私たちの世代が、この傷ついた日本を再生する事を担う番なのです。宗祖日蓮大聖人は御遺文の中で“異体同心”と言う事を重んじられています。この言葉の意味は、「体は異なれども心は同じ」というものです。私たちは今、全員が心を合わせ、志を一つにして深く傷ついた日本を復興させることを目指し、実行すべき時なのです。

戦後の復興の時には日本中が物資や食糧に乏しい最悪の状態での再出発でした。何もない中からの再出発、しかしきっと復興を実現して下さった当時の方々は皆、この国の復活を信じ、将来に夢と期待を抱いていたからこそ、この奇跡の復興は成し遂げられたのだと思います。今回の大震災とそれに伴う被害は甚大であることは言うまでもありません。しかし不幸中の幸い、日本全土の機能が失われたわけではありません。全ての国民の日常生活が営めなくなったわけではありません。万全ではないにせよ、日本にはまだまだ元気な地域が沢山あります。普段通りに生活できる地域の方々は日常生活を継続していくこと、こうした事も大切です。日本は今、桜前線が北上する時期でもあります。被災当時はまだ冬の寒さだった被災地域からももうじき桜の便りが届く季節を迎えます。

仏様のお教えのお言葉に「諸行無常」という言葉がありますね。このお言葉は“世の中の万物は常に移り行き変わりゆく”という自然の原理を説きましたお教えのお言葉です。これは目に見えるものだけに限らず、私たちの心も同様です。辛い時期も前向きに取り組むことによって必ず辛さは和らぐのです。桜のつぼみも凍てつく冬の間、もうすぐ到来する春を信じて辛抱すればこそ、春の木漏れ日の中その可憐な花を咲かせるのです。この先、復興への道のりは困難を極めることでしょう。しかし、今年から桜の花が咲く季節を迎える度に確実な復興の歩みが実感できることと信じて疑いません。

全国行脚

3月1日より15日までの日程で今年も宗信寺のお檀家様が運営されています全国の専門学校の御祈祷に行って参りました。
北は仙台から東京・名古屋・京都・大阪・福岡にある20校程の校舎に学生さんや教職員の皆様の事故が起こらぬ様、そしてより良き学び舎となる様、御祈祷しスタッフの皆さんには法話をさせて頂いています。早いもので、今回でもう8年目を数えます。

時には個別に様々な御相談を頂くこともございます。いろんな方々の悩みや苦しみをお聞きするたびに気づく事があります。それは大概の方々はそうした事柄をなかなか人には話せないでいるという事です。確かに相手を選ばなくてはなりませんから、そうした存在が自身の身近にいるかいないかという環境的な差があるのは事実です。ただ、人は皆悩みや問題を抱えた時、日常に比べて心を閉ざしがちになってしまうものです。

悩み苦しんでも結果、自分で解決出来たならそれは一つの理想形と言えるでしょう。でも、残念ながら自己努力だけでは解決できない幾多の問題もあるわけです。ですから例えば、大きな悩みをかかえる前に信頼できる関係の人を見つけておくと言う事も大切です。そして時には自分もそんな信頼を寄せられるべき存在になるという意識を持つことも、とても大切です。何故ならそのような大切な役割を担うという前向きな意識を持つことがその人自身の“心の成長”を促すからです。

新春初祈祷会
新春初祈祷会

1月9日、宗信寺にて新春初祈祷会が営まれました。
冬晴れの晴天のもと、遠近各地より150名程の檀信徒の皆様が御参加されました。早朝よりの御参詣、誠に御苦労様でした。
今年は総代役員の皆さんが前日から準備をして下さり、御参詣の皆様には“豚汁”がふるまわれました。冷えた体を温めてくれるもてなしに、皆さん大変喜んで下さいました。もちろん、私もとても美味しく頂きました。

当日皆様がお祈りになられました全ての願いが成就します様、心より御祈念申し上げます。そして何より、祈願をされた皆様が目標を達成するために精一杯の御精進を積まれますことをご期待申し上げます。

荒行堂初詣

1月8日、全国各地から御参詣頂きました宗信寺の檀信徒の皆様と共に千葉県市川市にある日蓮宗大本山法華経寺の大荒行堂に初詣に行って参りました。
そして本年百日の大荒行に入行中の大勢の修行僧に皆さんに御祈祷をして頂きました。

私自身も過去、昭和63年・平成2年・平成8年と、過去3回入行させて頂きましたが、今でも修行中の厳しい日々は昨日の事のように記憶に鮮明に焼き付いています。
そして修行の中で学んだ多くの事、そして多くの経験があったからこそ、今の私が存在するという事は言うまでもありません。

正月元旦
正月元旦

平成23年も例年通り、宗信寺の新年は元旦の水行から始まりました。
水行の樽に薄氷がはるほどの冷え込みの中、午前零時に合わせて近隣の檀家の皆様に加え、今年は都内からも御信者の皆様がお参りくださいました。

静まり返った新年の境内に水行中は水がはじける音がただひたすら響きわたります。私自身、本当に心の底から心身共に引き締まる瞬間です。
新たなる年を穏やかに迎えることが出来ました事に心より感謝する瞬間でもあります。

新春初祈祷会の御案内

平成23年1月9日(日)午前9時より恒例の新初祈祷会を執り行います。何かと暗い話題やニュースばかりの今日この頃ですが、こんな時こそしっかりと前を見据えて強い意志を持って何事にも取り組む姿勢が大切です。新たなる年の初めに皆様の其々の御祈願をしてより良き1年となります様、大勢の皆様のご参加をお待ちしております。また、当日は総代役員の皆様から豚汁も参詣の方々にふるまわれる予定です。
なお、御祈願の申し込みはファックス・郵便・メール、もしくは直接受け付けのいずれかの手段にて12月28日までに宗信寺までご連絡ください。

御祈願の申し込み [12月28日まで]

ファックス : 0463-59-4556
メール : myoho@soushinji.com
郵便 : 〒259-1201 神奈川県平塚市南金目2336
直接受け付け