宗信寺かわら版

ここは宗信寺からのご連絡やご報告、また、お寺とご縁ある方々にご登場いただく情報コーナーです。

コーナー
宗信寺の檀家さんや信者さんをご紹介させて頂きます。



被災地へ 〜その〜
先般告知させて頂きました通り、去る12月22日、宮城県の女川町にて「第2回サンタプロジェクト」が実施されました。この被災地支援プロジェクトは昨年に続き2度目の実施となりました。前回同様、11月の支援活動の折、女川町のお子さん達に今年のクリスマスには何が欲しいのかを教えてもらうために申込用紙をお渡しして来ました。そして申し込みのあったお子さんを主体に述べ68人の子供達に御希望のプレゼントを揃えてクリスマスケーキと共にお届けさせて頂きました。

被災地へ 〜その〜


ケーキに関してはお子さんのいらっしゃらない仮設住宅の皆さんや鷲神浜地区の皆さん、そして災害FM局であるFM女川のスタッフ及びリスナーの方々にもお配りしましたので、その数は合計162コにもなりました。今回のケーキ作りも宗信寺の檀家さんが運営されている仙台コミュニケーションアート専門学校(SCA)の15名の学生有志の皆さんが先生方と共に何と1週間もかけて作って下さいました。また今回の学生有志の皆さんは全員1年生ということでこんなに沢山のケーキ作りはまさに初めてだったそうですが、昨年のケーキに優るとも劣らぬ出来栄えで、その味もまた飾り付けも、このままケーキ屋さんのショーウインドウに並べられても充分な程素晴らしいケーキでした。

被災地へ 〜その〜被災地へ 〜その〜


東京から女川に向かった宗信寺支援隊10名は21日の午後11時に東京布教所を出発しました。そして午前8時に仙台コミュニケーションアート専門学校に到着して当校の支援チームと合流し、一路女川を目指して出発しました。東北自動車道蔵王付近より降り出した雪は支援隊の車両が海沿いに差し掛かった頃には冷たい雨に変わっていました。その後女川港に到着した支援隊一行は午前10時30分頃より全員で大震災でお亡くなりになられた全ての方々の供養を営みました。

被災地へ 〜その〜


午前11時を少々過ぎた頃、ようやく目的地である清水仮設住宅に到着しました。到着後は早速用意して来たプレゼントとケーキをお届けする作業に取り掛かりました。あいにくの雨模様の天候の中、雨具も使わずにその作業はスタッフの笑顔とやる気に支えられながら続けられました。温度計は0〜1℃を示していました。手先や足先がジンジンと冷えて来るような様な寒さの中ではありましたが1人も弱音を口にすることなくおよそ1時間30分ほどで全ての世帯にケーキと子供達にはプレゼントが届けられました。玄関先でプレゼントをサンタから手渡され、とたんに笑顔になる多くの子供達、またケーキを受け取られて思わず顔がほころぶおばあちゃんなど皆さんのそうした表情がとても印象的でした。そして何よりも支援に参加してくれたみんなの心を勇気づけて下さいました。

被災地へ 〜その〜

被災地へ 〜その〜


支援が実施された22日は土曜日ではありましたが、当然外出されている方々もいらっしゃいました。そんな方々の中で後日メールやお便りを下さった皆さんがいらっしゃいますのでその一部をここでご紹介させて頂きたいと思います。

「22日に仕事を終えて帰宅すると玄関にケーキが置いてありました。
 箱には“Merry Christmas 笑顔いっぱいになりますように・・・”と
 書いてありました。
 生クリームが苦手でしたがスポンジもクリームも甘さ控えめで、
 イチゴが乗ってスポンジの間にフルーツが挟まってと、とても食べやすく
 1人で結局半分食べてしまいました。
 メッセージの中にあった笑顔いっぱいで美味しいケーキを食べる事が出来
 本当にありがとうございます
 \(≧∇≦)/

 これから先、社会に出て大変な事や泣きたい事があるかも知れませんが、
 ケーキを食べて幸せな気分になって笑顔を頂けたっていう私が居たって
 覚えていて下さい。
 親御さんや自分、友人を大切にして生徒さん達も、たくさんたくさん笑顔で
 健康でいて下さいね。

 本当にわざわざ来て頂いて美味しいケーキをありがとうございますm(_ _)m

 女川清水仮設住宅より
 心温かい学生・支援隊の皆様へ 」


「22日はせっかく届けて頂いたのに留守にしていて
 すみませんでした。
 
 この被災している中でクリスマスプレゼントをもらえるなんて
 震災当初は思いもしませんでした。 
 みなさんの優しさが人とのつながりを感じさせ、
 心の支えになります。本当にありがとう。
 メリークリスマス!

 16歳 高校生 男子 」


「入学の時にもらったバッグも毎日使っています。
 夏祭りもゆかたを着て楽しかったです。
 クリスマスもほしい物を届けてもらえて
 とてもうれしいです。

 私は絵をかくことが大好きなので、いただいた
 色えん筆でたくさん絵をかきます。
 みなさんもすてきなクリスマスになりますように。
 いつもありがとう。

 13歳 中学生 女子 」


お届け作業終了後、スタッフの昼食を済ませた後、午後からは集会所にて住民の皆さんと支援隊スタッフとの懇親会が行われました。まず最初に誠に僭越ではありましたが、かねてより住民自治会役員の皆さんから“住職になにか法話を聞かせて欲しい!”との御要望を頂いておりましたので、
「心」そして「感謝」をテーマにしたお話をさせて頂きました。大きな被災を免れた私達には想像もできない辛く過酷な経験を乗り越えて来た方々の前で、いくら僧侶であるからといったところで偉そうな話等するつもりはそもそもありませんでしたが、そうした方々にも今後の生活に少しでも役立てて頂ければとの思いでお釈迦様や日蓮大聖人のお知恵、お言葉を拝借してお話をさせて頂きました。住民の皆さんが一生懸命に私のつたない話を聞いて下さったこと、そして同席していたSCAの学生さんたちもまた真剣に耳を傾けて下さった事はわたしの大きな喜びとなりました。法話の後は今回の支援に参加してくれた歌手の友香さんが歌を披露してくれました。彼女は今回の支援でサンタに扮して雨でびしょぬれになりながらも終始笑顔で活躍してくれました。そしてサンタのコスチュームから支援隊のジャンパーに着替えて今度は何曲も素敵な歌を聞かせてくれたのです。幸い集会所には宗信寺支援隊が提供している通信カラオケの機材が備えてありますので今回はその機材を使用しました。ですから住民の皆さんのリクエストに答える事も出来ました。それにしても“歌の力”にはあらためて驚かされました。集会所に集まって下さった住民の皆さんの表情は友香さんが歌い始めるとたちまちにほころんでいったのです。そしていつの間にか気がつくと集会所に居合わせた全員が一体となって彼女が歌うその歌詞を皆で一緒に口ずさんでいました。まさに人と人との心の間に仕切りが無くなったことを感じたひと時でした。曲目によっては時に笑い、そして時に涙しながら楽しい時間はあっという間に過ぎて行きました。そして懇親会の最後に撮った集合写真には住民の皆さんも学生さんも支援隊のスタッフも全員が満面の笑みでおさまることができました。

被災地へ 〜その〜

被災地へ 〜その〜


ただ、こうした喜びの反面、私たちが決して見落としてはならない事もありました。それはこの様な催しに仮設住宅から出て来て参加する気力すら無くしてしまっている方々も多くいらっしゃるという現実です。22日は雨模様の天気も手伝って仮設住宅の室内は照明を付けないと手もともおぼつかない程薄暗かったのですが、ケーキをお届けした際にそんな暗い室内に1人ひっそりと生活をされている方々も複数いらっしゃいました。また昨年のサンタプロジェクトの時点では高校生以下のお子さんはこの清水仮設住宅には85名いらっしゃいました。ところが今年この時点では66名と実に19人も減少している事実に、かねてから懸念されていた人口の流出、特に若い世代の転居が後を絶たないという傾向を納得せずにはいられませんでした。無論、家族の為、子供の教育の為に親戚を頼りにしたり、新天地を求めて転居する事は前向きな行動ととらえなくてはなりません。ただ今後の女川町をはじめ同様に大津波の被害が大きくその後人口の流出が止まらない地域では復興という大きな目標に対してこうした傾向は確実にマイナス要素として働いてしまう事も事実です。“新しい、強く住みよい街づくり”の為には人口とこれから働く事の出来る若い世代、そして子供たちの存在は必要不可欠なのです。本当に何とももどかしい現実がこうした地域には大きな問題として重くのしかかっているのです。

無事に今回の支援目的を終えた支援隊は女川町を後にして、石巻市の大川小学校に向かいました。
校舎の周辺は今や瓦礫もなく悲しい程殺風景な景色が広がっています。夕暮れに校舎前の慰霊碑に到着した我々はお線香と持参したケーキを御供えし、この地で亡くなられた多くの方々の御冥福を祈りました。校舎の中ほどにはご父兄の方が設置されたのでしょうか、イルミネーションできれいに彩られた大きなツリーが飾られていました。その優しい光が無くなられた方々を少しでも慰めてくれる事を願ってやみません。

先日、すっかり親しくなった女川のある男性から“それにしても住職さん達は何でいつも来てくれるんだ?”と問われた事がありました。その時、私の口から自然に発せられたのは
“当たり前だからですよ”
という言葉でした。詳しく答えろと言われればそれなりの理由もあるのですが、私の心の中にはやはり当たり前のことという気持ちがいつもくっきりはっきりと存在しています。
宗信寺ではこれからもしばらくは被災地の支援に携わらせて頂こうと考えています。これからも皆様からの御支援や御協力は支援を継続する上で欠くことが出来ません。御賛同頂けます皆様の応援をこれからもどうぞ宜しくお願い申し上げます。

第2回サンタプロジェクト実施のご案内
昨年の12月に実施されました被災地支援活動『サンタプロジェクト』では被災地の皆さん、特にお子さんたちにとても喜んで頂くことができ、私たちも多くの笑顔を見ることができました。そこで今年も12月22日『第2回サンタプロジェクト』を実施することとなりました。詳細は下記の通りです。

○支援内容
  女川町清水地区仮設住宅在住の高校生以下の子供達(約70名)に本人希望のプレゼント(約5.000円/人)、清水地区並びに鷲神浜地区の仮設住宅全戸(約160戸)にクリスマスケーキを届けます。
  当日行われる敬老会への参加、お手伝い。
  地元のラジオ局女川FMのリスナーにクリスマスプレゼントを抽選でプレゼント予定。

つきましては趣旨に御賛同頂けた皆様からの御支援を心よりお願い申し上げます。

○義援金お振込先

 ☆ゆうちょ銀行
  記号10210 番号51350321
  宗教法人 宗信寺

 ☆三菱東京UFJ銀行
  店番133表参道支店 普通0898031
  宗教法人 宗信寺 代表役員 岡 貞潤(おか ていじゅん)

 ※お問い合わせ先
  電話: 0463-59-7235
  E-mail: myoho@soushinji.com

前回同様、被災地の皆さんに沢山の笑顔をお届けする為により多くの皆様の御協力を心よりお願い申し上げます。

被災地へ 〜その〜
師走を目前に控えた11月30日、被災地女川町に支援物資をお届けしました。今回は清水仮設住宅と鷲神浜の皆さんに醤油1リットル・塩1kg・ケチャップ1本・有機石鹸を計160セット用意してお渡ししました。東北の冬の到来は関東よりも一足早く女川に向かう早朝の高速道路のサービスエリアでは福島県内に入ったあたりから芝生などの上には霜が降りていました。東京布教所を出発する時には気温が12度ほど有りましたので“ダウンジャケットはまだ早いかな?”と思いつつも念のため用意して来たのは正解でした。日差しのない曇り空も手伝ってか底冷えのする陽気でした。
いつものように無くなられた方々の供養の為、女川港を訪れると今までとは少し違う光景を目にすることが出来ました。それは係留されている数隻の漁船の姿でした。残念ながら“多くの・・・”というまでには至っていませんが、数隻の漁船が港内に停泊していて乗組員の方々と見られる人たちが舟の周りで作業をしていました。また湾岸の復旧作業も先月より更に進んでいました。

被災地へ 〜その〜


11月より稼働し始めたカタール政府より寄贈された大型冷蔵設備のおかげもあり、少しずつではありますが漁港らしさが取り戻されている様子を見てとることが出来ました。しかしながら一方では未だに大震災の爪痕を拭う作業も懸命に続けられていました。ここ女川では陸地の大量の瓦礫と同様に港内の海底にも大津波の引き波によって沢山の瓦礫が引き込まれました。水面には顔を出さないこうした多くの瓦礫は港の復興作業は無論、この地域の大切な産業である水産業の再開に対しても大きな障害となっています。見た目には確認し辛いこうした海底に積み上げられた瓦礫は港内の船舶の運航を危険にさらしているのです。この日も漁船が水揚げ作業をしている市場のすぐそばで海底からこうした瓦礫をすくい取る特殊なバケットを装着した大型の作業船が何度も海底から瓦礫をすくい上げていました。こうした地道な作業の積み重ねが確実な復旧・復興に繋がっていくのですが、根気のいる作業でもあり、本当に頭の下がる思いです。これから益々厳しくなる冬場の寒さの中でもこうした作業は毎日続けられるそうです。

被災地へ 〜その〜


ところで今回も東京布教所から女川町までの往路で定められた計測地点で放射能数値を測定しました。結果は下記の通りです。

放射能モニタリングデータ 渋谷区〜女川町鷲神浜地区
平成24年11月30日計測

計測場所数値(μSv/h)日時天候・気温
渋谷区富ヶ谷0.1330日午前4時30分曇り・12.0度
蓮田SA0.165時05分曇り・ 9.5度
佐野SA0.165時30分曇り・ 9.0度
上河内SA0.156時10分曇り・ 7.0度
那須高原SA0.286時42分曇り・ 4.0度
鏡石PA0.487時10分曇り・ 3.0度
安積PA0.797時20分曇り・ 3.5度
安達太良SA1.047時40分曇り・ 3.5度
二本松IC1.437時48分曇り・ 3.0度
福島松川PA2.017時55分曇り・ 2.5度
国見SA0.818時50分曇り・ 2.0度
石巻港南IC0.1310時15分曇り・ 5.0度
女 川 港0.0911時10分曇り・ 5.5度
女川町清水地区0.13午後0時20分曇り・ 9.0度
女川町鷲神浜地区0.094時00分曇り・ 7.5度

今回の計測においても先月は無論のこと過去の計測結果と比べてみても数値が低い所は低く、また高い所は高いという傾向に変化はありませんでした。赤字で表記した地点は線量計の警報ブザーが鳴ってしまった地域です。放射性物質で被爆してしまった福島県内の地域では日々懸命な除染活動が続けられています。しかし残念ながら私たちが計測している範囲では昨年の5月に放射能数値を計測し始めて以来、その数値が著しく上昇する地域はあっても、除染の成果で下がってきている地域はまだ確認できていません。これは除染作業の過酷さを物語るのと同時に放射能の真の恐ろしさを示しているのもまた事実です。
12月の衆議院選挙においては実に12政党もの政党が乱立し、其々の政策を掲げてその個性と色を打ち出しました。しかしながら誠に残念なことはこのように沢山の政党が名乗りを上げながらも、マニュフェスト・政権公約に“被災地域の復興”を第一に掲げた政党が一つも存在しなかったことです。脱原発か否か、消費税増税か否か・・・。確かに大切な問題です。しかしこうした選挙公約が声高に叫ばれたおかげで選挙戦に入る直前まで大問題になりつつあった“復興予算の使い道問題”はその影をひそめてしまいました。被災地以外に大切な復興財源が使われていた問題です。その一方で実際に被災地域においては元通りにする為に必要な復興予算は認められても、大震災の影響による人口の激減などの様々な変化や現状を踏まえ、なおかつ今後を見据えた上での新たな町づくりやそれに関連したプラン・作業に対する予算をとることは極めて難しいという誠もどかしい現状が被災地から聞こえてきています。更には一見すると私達の眼には見え辛い部分での問題も進行しています。その一つは今も仮設住宅で暮らす方々のこころの問題です。今回女川町を訪問して衝撃的なお話を聞くこととなりました。それは仮設住宅や被災地で生活している方々の中に、この時期になって大震災当日やその直後のことを思い出し、恐怖する“フラッシュバック現象”が起きているというのです。普段は笑顔を取り戻した方々でもこうした現象によってその笑顔は一瞬にして消え去り、後に残るのはとてつもなく大きな恐怖心と限りなく深い絶望感なのです。
私は政治家ではなく、まして特別な権力が有るわけでもないので教えて頂いたことや気付いたことの中で自分にもできそうなことを皆さんに呼び掛けて支援活動を続けています。それは特別な意識や思いがあるからというよりはむしろ当たり前の事だから継続しているのだと思います。例えばこういうことです。ある日、道を歩いていると転んで手荷物が散乱してしまっているお祖母ちゃんがいました。駆け寄ってお怪我がないか確かめて散らばった荷物を手さげ袋に入れるのをお手伝いしました。しばらく歩いて行くと今度は横断歩道のところで駐輪自転車が障害になって青信号のボタンを押せずに困っている方がいました。邪魔になっていた自転車を移動してボタンを押しました。また少し歩いて行くと今度は迷子になって泣いている子供がいました。「大丈夫だから泣かないでね」と声をかけ、近所の交番まで連れて行ってあげました。もし皆さんの目の前にこうした状況が次々と起こってもきっと同じ様な対処をされることでしょう。これがまさに今の被災地の状況なのです。被災直後は電機や水はおろか、衣類すら有りませんでした。肌着や生理用品、歯ブラシや赤ちゃんのおむつに至るまでありとあらゆるものがありませんでした。しかし様々な支援者たちが集まり、不足しがちであったものが徐々に安定して供給されるようになりました。避難所の生活では炊き出しは欠かせぬ支援でした。パンやおにぎりの配給ばかりでは被災者の皆さんの健康状態が心配されます。そんな中、様々な炊き出しのメニューは被災者の皆さんに本当に喜ばれました。仮設住宅に入られてからは仕事を再開できた方はまだしも、雇用先がない方々がほとんどで蓄えを切り崩して日々の生活を送らねばならない皆さんには日常消耗品でも喜んで受け取って頂けるのです。震災以来、私達日本人は“絆”という言葉を以前にも増して頻繁に用いるようになりました。この言葉が意味するところは今更申し上げるまでも有りませんが、互いの信頼によって結ばれた繋がりを意味します。辞書を引いてみると“断ち難い繋がり”などと説明されています。大震災発生から1年と9カ月が過ぎ、今日大きな被災を免れた地域に住む人々の多くが大震災のこと、そしてその後の復旧・復興に対して関心が薄れて来ているのが現状です。いつも心強い支援協力をしてくださる方がいます。その方から先日こんな話を聞かされました。その方は自営業を営み店頭には今も募金箱を宗信寺支援隊の毎月の活動報告と共に置いてくださっています。ある日初めて来店したお客さんがその募金箱を見て「おたく、まだこんなことやってんの?」と言ったそうです。因みにその“あるお客さん”とは現役の参議院議員です。何とも寂しい話ではあります。ただここまでとは言わないまでも少なからず被災地への意識が薄れている事は多くの方々が認めるところではないかと思います。先ほどの例え話ではありませんが、歩きながら2人の困っている人をお手伝いしたからといって3人目の泣いている子供を見て見ぬふりをする様なことはどなたもなさらないでしょう。泣いている子供に気付きさえすれば・・・。ただし関心が薄れると大切な事を見落としてしまう事もままあり得るのです。私たちはもうしばらくの間、被災された地域に対して関心を持ち続けることが必要なのではないかと思います。先ほど申した通り、絆は互いの信頼があって初めて存在し、その御縁は成立するものなのです。震災後被災地と被災を免れた地域の信頼の手はしっかりと繋がれたはずです。握り合ったはずです。しかし、今被災地への関心が薄れていくという現象は被災地から今も差し出されている信頼の手を、握り合っていたはずのその手を不本意にも離してしまうことではないでしょうか。絆の御縁をこちらから一方的に解消してしまうことではないでしょうか!
女川町では11月29日に総合運動場のグランドにこれから建設される復興住宅(公営住宅)の起工式が行われました。12月2日にはマグロ漁船の新船が静岡県の三保の造船所から届きました。先頃行われた地元中学生対象の体験学習の中で、参加していたある中学生がこんなことを言っていたそうです。
「大津波は全てを壊したけど、僕たちの心だけは壊せなかった・・・」
私たちが被災地に心を寄せ、思い続けるに充分過ぎるほどの意義がこの中学生のお子さんの言葉の中にちりばめられていると心の底から感じました。

七面山登詣
秋も本番を迎えた11月の3〜4日の日程で、今年も恒例の七面山登詣修行が行われました。今回は過去最少人数の6名での登詣となりましたが今までにない程の秋晴れの天候に恵まれ、本当に清々しい気持ちで秋深まる七面山の参道を歩くことが出来ました。ふもとの角瀬にあるひのやさんに集合し、3日のお昼前に登詣を開始して約2時間少々で19丁目の“栃の木霊場”に到着し、こちらで温かい御茶を頂きながら皆でひのやさんでご用意頂いたおむすびを頂きました。昨年は降雨の最中の登りで、栃の木霊場もしまっていた為、御茶はおろか水さえも頂くことが出来す、寒さに凍えながら冷たく冷え切ったおむすびを御堂の軒先で雨粒を避けながら頂いたことを思い出しますと、今年はまさに天国の様でした。またこの時期は調度御神木の栃の木の実が落ちる時期でもあるのですが、調度栗ほどの大きな実にはブルーベリーの4倍以上の良質のポリフェノールが含有されているそうで、栃の実の御茶も頂きました。特徴的な渋さのあるその味は何とも言えぬ初めて口にする風味でしたが、何せ“御神木の栃の木の実”ということで私を含め、皆で有難く頂きました。またその先の三十丁目からの富士山の眺めも素晴らしく、登りで少々疲れて来た体に元気を与えるには余りある風景でした。全員無事に山頂の七面山奥之院に到着したのは日も暮れた午後5時過ぎでしたが、御堂の前に到着した皆さんの表情からは疲労感ではなく達成感が感じられるほどでした。翌朝は午前6時を少し過ぎた頃が御来光のお時間でした。静かに澄みきった空の彼方にくっきりと富士山がその姿を現し、その右の稜線から何とも美しい御来光が顔を出すと参詣者は皆、温かくも力強い日差しに包まれ少しずつ全身を染めて行きました。朝勤を終え朝食を頂いて身仕度を整え、午前8時に下山を開始しました。前日に引き続き2日目も本当に秋晴れの晴天に恵まれ、風もなく穏やかで、鮮やかな紅葉を満喫しながら参道に積もった落葉松などの落ち葉を踏みしめながら歩くのは日常ではなかなか体験する事の出来ない至福のひとときでした。下山も皆さん順調で時々尻もちをついたりすることはありましたが、怪我もなく御昼過ぎには表参道の山門まで揃って下山することが出来ました。下山後は下部温泉で汗を流し、皆で円卓を囲んで和やかに昼食を頂き空腹を満たしました。今年の七面山登詣は本当に行き帰りとも順調でしたが、決して忘れてはならない事はそれが“当たり前”ではないということです。過去を振り返ってみましても本当に大変なことが幾度となく有りました。正に御山に登る度に様々な経験を積ませて頂きました。ですから今年の様な御山は本当に珍しく、有難さもひとしおでした。私たちは日常生活の中で思い通りに事が運ぶことに対してそれを当たり前と思う事はあっても、感謝するという意識はあまり持たないで過ごしてしまっています。しかしながら例えば家族が健康であればこそ、本来取り組むべき事に従事出来るわけですし、平和であればこそ、私たちは日常の生き方を選択することが叶うのです。当たり前と思っている事も本当は心から感謝すべき事なのです。今回の七面山登詣修行は私たちにそんなことを気付かせて下さいました。

七面山登詣

七面山登詣

七面山登詣


御炊き上げ
10月28日、今年3回目の御炊き上げを行いました。宗信寺では1年の間に数回に分けて『御炊き上げ供養』を行っています。“御炊き上げ”という言葉を初めて目にする方もいらっしゃると思いますので簡単に説明しますと、役目を終えた御正月飾りや古くなった御位牌等の仏具、卒塔婆、御札、お守りなどを焼いて供養することを言います。それぞれの御品に宿った魂を霊山に送りだし、これまでの礼を尽くし感謝を伝え、万が一にも粗末な扱いとならぬ様にすることが主な目的です。皆さんの中にも以前求めた御守や御札など、その扱いに困ったことがある方は少なくないのではないでしょうか。ここで一言もう少し踏み込んだお話をしますと、基本かつ最善なのは御守や御札の場合は、頂いたお寺や神社にお返しすることです。何故なら頂いたお寺や神社の仏様や神様に1年間守護して頂いたわけですから、御礼を述べ伝えお返しをする、そして必要であればまた新しい年の分の御札や御守を頂くという訳です。ただし、一番あってはならない事は“粗末にすること”ですから、例えば遠方でなかなか伺うことができなかったり、どなたかから頂いたりして返す場所が分からない様な時は最寄りのお寺や神社に相談してみると良いでしょう。宗信寺ではそのような形で持ち込まれた御品も全てお預かりして御炊き上げ供養を施しています。一つ心配なのは霊園などで古くなった卒塔婆や野位牌等を僧侶や神主ではない一般の職員の方が“御炊き上げ”と称して実際には供養もせずに焼却処分してしまうことです。心ない所ですと実際は“処分手数料”なのにもかかわらず“御炊き上げ供養料”と称して金銭を請求される場合もあります。霊園に御墓をお持ちで御心配な方は一度管理事務所にどの様な形式で御炊き上げを実施いているのか尋ねられると良いでしょう。

御炊き上げ


被災地へ 〜その〜
記録的に長かった今年の厳しい残暑もようやく終わり、その分駆け足のごとく日に日に秋色が深まる10月16日、8月の盆踊り・夏祭り実施以来、2カ月ぶりに被災地女川町に伺いました。今回は清水地区仮設住宅と鷲神浜地区の皆さんに醤油・みりん・砂糖をそれぞれ160個用意してお届けさせて頂きました。“160個”と一口で言いましてもそれぞれがおよそ1kgありますから、単純に計算しただけでも160kg×3=480kgになります。宅配業者の荷物運搬用のトラックならまだしも日頃支援活動に使用している車両では荷物の量的にもほぼギリギリの運搬量です。ですから運転席以外、助手席にも荷物が搭載されますので今回も私1人での出発となりました。前日の15日にあらかじめ手配しておいたお店にお届けする品物を引き取りに行き、店員さんにお手伝い頂きながら荷物を効率よく車両に積み込み、万端準備を整えてもうすぐ日付が変わろうとする午後11時30分、いつものように宗信寺東京布教所を一路女川町目指して出発しました。平日深夜の高速道路はどこも順調で予定通り16日の午前7時前には女川港に到着することが出来ました。まずはお亡くなりになられた方々への供養を営みました。それから復興作業が進められている港界隈を視察させて頂きました。私の視界に真っ先に飛び込んできたのは港の東側に新たに建設された海産物の冷凍施設でした。この施設は日本政府や行政が建設したのではなく、何と中東の国、カタールからの20億円もの義援金で建てられたものだそうです。その設備は素晴らしく冷凍保存できるその量はおよそ6000トンに及び、今後の万が一の大津波にも被害を最小限に留めるべく1階部分は高床式の様な構造になっています。残念ながら今回は施設の内部を見学させて頂くことは時間的に出来ませんでしたが、既に稼働を始めているとのことですぐそばに仮復旧された水揚げ用の港からは、それまでは震災前の10分の1にまで落ち込んでいた水揚げ量がこの施設と港の仮復旧の成果で3分の1にまで回復したそうです。本格的な全面復旧にはまだまだ気の遠くなる様な時間と労力を要しますがこうした目に見える復興、実感できる復旧は間違いなく女川に今も暮らす皆さんを勇気づけるきっかけとなることでしょう。

被災地へ 〜その〜


また以前にも何度か現状をお伝えして来た瓦礫処理場にも目に見えた変化がありました。1キロ以上に渡り延々と堆く積み上げられていた瓦礫が部分的にではありますが明らかに減少していたのです。連日の現地での作業に加え、東京都など他の都道府県の瓦礫受け入れの成果でしょう。ピークの時の瓦礫量を目の当たりにしているだけにこの進展も嬉しいかぎりです。現在瓦礫処理場になってしまっている場所も震災前は多くの住宅や水産業関係の建物が軒を並べた地域でした。すなわち女川の皆さんの大切な生活の場であったわけです。ですからこの大量の瓦礫が取り除かれない事にはこの地域の復旧・復興は叶わないのです。震災発生からしばらくした頃には地元だけでこの瓦礫を処理しようとすると、そのために必要な時間はおよそ10年とも20年とも言われていましたが、このペースが維持できればそこまでは時間を要しないのではないかと思います。ただ、こうした喜ばしいニュースとは別に厳しい現実を突き付けられた懸案もありました。その最たる一例は住宅問題です。女川町は今後の津波の危険性から住居としては使用できなくなってしまった地域の土地を原則3種に分類して買い上げることを決定しました。しかしながら問題はその買い上げ価格です。お聞きしたところによると1㎡当たり、1〜3万円とのことでした。ということは仮に100㎡の土地を所有していた方の場合その買い上げ金額は1〜300万円ということになります。これでは住宅建築の許される安全な高台の住宅地を新たに購入することは到底叶いません。また町が現在ある山を造成して住宅地を新たに提供するそうですが、問題はその区画数でなんと現時点の予定ではたったの60区画だそうです。しかもその造成工事が完了するのは何と2016年度、今から更に4年も先のことです。その他の住宅に対しての町の対処策は町営住宅約400戸分の新たな建設です。現在町民の多くが暮らす仮設住宅はその使用が許されるのはあとおよそ2年弱、こうした町の住宅問題への対処法を受け入れられない場合は自己判断で対処しなければならないということでした。これはまたずいぶんと無情な話に聞こえるのは私だけではないでしょう。また町の大半を大幅にかさ上げしなくてはならない現実もあります。写真の通り、港の岸壁からほんの4〜50m程内陸に入ったところに予定されている国道は意あの地面からダンプカーをはるかに超える5.4mの地点までのかさ上げが予定されています。

被災地へ 〜その〜


巨額の税金を投入して捻出する復興支援金の使い方について我々国民が到底想像すらしない様な使われ方が明るみに出て、今問題になっています。確かに復興支援金が既に使用された事業などを個別にみると中には必要な事業もあるわけですが、問題なのは何故大きな被害を被った地域の復興の為の財源からかすめ取る様に被災地ではない地域で使われるのかということです。復興財源を確保捻出するために向こう25年間の増税が行われることになりました。しかし、これも日本中みんなで被災地を応援しようという意識からなされるべきです。ところが政府や各省庁は都合のいい文言を巧みに使い、景気後退による税収の減少から圧縮された各予算の穴埋めをここぞとばかりに行っているということがあからさまに見てとれます。上記の様に目先の復興だけとってもまだまだ支援金が欠く事の出来ない現状が被災地にあるにもかかわらず、よりによって政府や各省庁が自分たちの都合を最優先させて予算の取り合いに高じているその姿はもはや憤りの域を完全に超えています。私自身は右寄りでもなくまた左寄りでもなく、現与党野党に関わらず特別な思い入れがあるわけではありません。ただいつの世でも繰り返される政策ではなく政局重視の国会でのやり取りにはほとほと辟易としています。少々話は逸れますが、“一時が万事”的物の見方をするならば、先に決定した段階的消費税増税も上げられた増税分は全て社会保障の充実に充てられるとの現政権の説明ではありますが、ここにも幾多の省庁がコバンザメのごとく様々な使途に用いる為に群がってくることが容易に予想されます。復興の為の財源は復興省、社会保障の為の財源なら厚生労働省で一元的管理は出来ないのでしょうか?そうすると官僚にとっては国民を欺く本当の魂胆が実行できなくなるということでしょうか?今、日本は諸外国に対しての舵取りはいつにもまして慎重さを必要とされています。長引く超円高傾向による輸出産業の低迷、基幹産業の弱体化、加えて尖閣諸島、竹島、北方領土の領土問題などそのどれをとっても失敗はゆるされるものではありません。このいわば国難を迎えているこの時期に内政ごとや政局の問題で日本の舵取りをすべき政府が迷走している様では日本の未来は極めて厳しいものになってしまうことは明白です。今は与党と野党で袖を分かつのではなく、それこそ一体となって日本人の知恵と力を結集させてこの難事を乗り越えていく努力を継続していくことが何より求められているのではないでしょうか。日蓮大聖人がご活躍された鎌倉時代も調度、現代と同じ様に天変地異や疫病で民衆は苦しみ衰え、また他国からの侵略の危機にもさらされていました。そんな時代に大聖人がなされたのはただひたすらに真理を説き広めることでした。保身に走ることなく、私利私欲を追い求めることなく、正に“不惜身命”の法華経の精神でどんな困難にもぶれることなく立ち向かわれたのです。現代の政治家に同じ様にしろとは申しませんが、せめてこうした先人に学びこの“平成の末法の時代”を日本が沈没する事のない様、心からそう願う国民と共にこの国を進めていってほしいものです。 ここで今回測定した各地の放射能数値をお知らせします。

放射能モニタリングデータ 渋谷区〜女川町清水地区
平成24年10月15日〜16日計測

計測場所数値(μSv/h)日時気温
渋谷区富ヶ谷0.0915日午後11時20分23.5度
蓮田SA0.1616日午前 0時20分20.0度
佐野SA0.090時50分17.0度
上河内SA0.131時30分12.0度
那須高原SA0.453時20分6.0度
鏡石PA0.143時45分10.5度
安積PA0.713時55分11.0度
安達太良SA1.144時10分7.5度
二本松IC1.424時15分7.0度
福島松川PA3.004時25分7.0度
国見SA0.694時50分10.0度
石巻港南IC0.116時00分7.5度
女 川 港0.096時45分10.0度
総合運動場付近0.147時15分10.0度
女川町清水地区0.128時30分11.0度

今回の調査でもおわかりの通り、線量計の警報ブザーが鳴る高い数値の地点が福島県内を中心に以前より広がっています。また福島松川PAで今回測定された3.00μSv/hという数値は今まで計測された中での最高数値でしかもそれまでの最高数値であった二本松ICの1.51μSv/h(平成24年8月4日計測)のおよそ倍の数値であり、この地域の放射性物質の蓄積が進んでいることをうかがわせる結果となりました。この秋、山梨県の富士山麓で収穫されたキノコ類から基準値を超える放射性セシウムが検出され出荷が禁止されました。福島第一原発の事故が原因と考えられています。原子炉建屋を飛び出して大気中に拡散した放射性物質のほとんどはこの先短いものでも数十年、長いものでは数万年単位で私達の生活圏に留まり続けるそうです。現在、福島では懸命な除染作業が続けられています。また取り除かれた高濃度放射能汚染物質の中間処理場の建設地問題では政府が候補地に挙げた自治体からことごとく反対の意思表示が表明されています。実に由々しき事態です。“神の火”に手を伸ばしてしまった人類への警鐘なのでしょうか?もしそうであるとしても起きてしまったこの事態を1日でも早く収束させるために今は全人類の英知を集結して対応にあたらねばならない事は言うに及びません。2011年4月の時点で地球上に存在する原子力発電所は実に439基に及びます。この内、最大保有国はアメリカで104基、2番目はフランスの58基、次いで我が日本の51基となります。今回の事故が起こる前であればこの数と順番はある意味その国の先進性と国力、技術力の象徴とされていたかも知れません。しかし今となっては、これはその国の抱える“核の脅威”の順番に感じてしまうのは私だけではないと思います。確かに現代の繁栄の一端を担ってきたのはこうした原子力エネルギーで有る事に異論はありません。しかしずっとささやかれていた原子力の危険性が現実となった今、世界が大きな危険を伴う原子力エネルギーから自然エネルギーへの転換の模索を始めています。世界の唯一の被爆国であり、震災で大きな痛手を負った国、核の恐怖を体験した日本であるからこそ、こうした世界の風潮の中でリーダーシップをとることが必要な時なのです。

御会式
10月13日、日蓮宗の開祖であられる日蓮大聖人の第731回御会式法要が宗信寺本堂にて営まれました。今年は13日が週末の土曜日であった事もあり、例年以上の檀信徒の皆さん御参詣のもと、厳粛な法要が営まれました。ところで日蓮宗の檀信徒の方でも詳しく把握されている方は意外と少ない日蓮大聖人のご生涯を遭われた法難を中心にお伝えしたいと思います。大聖人は1222年2月16日安房小湊、現在の千葉県勝浦市に御生誕されました。幼名を善日麿と称しました。そして今は日蓮宗の大本山の一寺ですが当時は天台宗の寺院であった清澄山清澄寺に1233年5月12日12歳の時に入山し、念仏や禅を学びます。鎌倉遊学等ののち、1242年には比叡山遊学の途に就きます。そして1253(建長5)年4月28日、大聖人32歳の時、清澄山旭が森にて立教開宗を宣言し、南無妙法蓮華経の御題目を唱えられここに日蓮宗が誕生しました。その後は1260年松葉谷法難・1261年伊豆法難・1264年小松原法難・1271年龍口法難、そして佐渡流罪と苦難の日々を送られますがそんな中にも大聖人は自らの法華経の行者としての自覚と使命を更に深められていきました。1274年にようやく佐渡流罪を赦免された大聖人は一旦鎌倉に戻り幕府に三度目の国諫をした後、5月17日現在の総本山である身延山に入山しました。その後のおよそ9カ年の間、「撰時抄」や「報恩抄」を述作、1281年には身延山久遠寺の10間四面大本堂を建立されました。そして翌1282(弘安5)年10月13日辰の刻(午前8時)の頃、現在の大田区池上の地において御入滅され61年の尊き御生涯を閉じられました。立教開宗以後は常に幕府などからの弾圧を受けながらもその志を曲げることなく生き抜かれた大聖人のご生涯から私たちは多くのことを学びとることが出来ますし、またそうすべきであると思います。鎌倉時代同様平成の現在もいわゆる“末法の時代”です。こんな時だからこそ不屈の信念、折れる事のない志をしっかりと保って生きることが肝心です。

御会式


メダル獲得報告式
今年はオリンピックイヤーでしたね。この夏、開催地のロンドンからは連日日本人選手の活躍の様子が昼夜を問わず伝えられました。このロンドン大会でも多くの競技で日本人選手がメダルを獲得しましたが、そんなメダルを獲得した選手の1人でありフェンシング男子団体で銀メダルを獲得した三宅諒君のメダル獲得報告式が9月29日都内のホテルで行われました。実は三宅君は私の長男の学校の先輩で息子の中学時代には同じフェンシング部員として学校内の同じフェンシング道場で練習を共にした御縁があり、オリンピック出場が決まった頃より共通のコーチのお声かけもありまして海外遠征や渡英の応援をしていました。こんなに早くオリンピックメダルを目の当たりに出来ることは本当に喜ばしいことです。ところで、三宅君が挨拶の中でこんなことを言っていました。
「メダルを獲得した選手たちはインタビューを受けると必ず“応援して下さった国民の皆さん、指導してくれた監督、コーチの皆さん、そして支えてくれた家族に心から感謝します”といった意味合いのコメントをするので、きっとインタビューを受ける時にはそのような文言を言う様にあらかじめ協会などから指導を受けているのではと思っていらっしゃる方もいるかも知れませんが、自分も実際に銀メダルを手にした時、真っ先に頭に浮かんだ言葉は“感謝”という言葉だったんです!」
スポーツマンらしく実にすがすがしい挨拶でした。

メダル獲得報告式


ところで“感謝”と言えばこの方の名前も上げなくてはいけません。そうです、今年日本人で唯一ノーベル賞受賞者となった山中伸弥教授です。既に御存じの通り、山中教授はiPS細胞の制作に成功して再生医療の分野での貢献が評価されてノーベル生理学医学賞を受賞されました。この報道直後、山中教授は記者会見の席で開口一番
「この素晴らしい賞が受賞出来たのは決して私の力ではありません。長年研究を共にしてくれた研究スタッフや支援をしてくれた方々、そして何よりもいつも研究の犠牲になりながらも常に私を支え続けてくれた家族のおかげです。全ての皆さんに心から感謝したい。」
とコメントされました。山中教授の人柄が伝わってくるような真摯かつ謙虚な言葉が綴られていました。共に今年の“時の人”と言えるお2人に共通していることが“感謝”というキーワードです。人に感謝の思いを持つことは大切な事にほかなりません。ただ私達はこのお2人の偉業から感謝の先にある更に大切な事を見落としてはいけません。その大切なこととは“恩に報いる”ということです。山中教授は気の遠くなる様な時間と手間をかけて何十万通りという組み合わせの中からiPS細胞の制作を成し遂げました。三宅君もしかりです。彼は只今大学4年生、つまりは遊びたい盛りの年頃です。しかし365日フェンシングから離れることなく毎日何時間もの厳しい練習やトレーニングを積んできたことでオリンピック選手に選ばれ見事銀メダルを獲得したのです。どちらも日頃から感謝をする方々が存在し、そうした方々への恩に報いるという強い志とその気持ちに支えられた行動がそれぞれの偉業を成し遂げるに至らしめたのです。無論、このお2人はその最たる例ですが、私達にも日頃より感謝すべき方々が存在しているはずです。ですからそうした方々からの御恩に感謝し、願わくはその御恩に報いていくことが大切なのです。なぜならそれが私達の更なる充実に繋がりひいては私達を支えて下さる方々の意に答えることになるからです。『報恩感謝』という言葉があります。是非ともいつも心に留めておきたいひとことです。

秋季彼岸会
9月22日の秋分の日をお中日として、19日から25日までの1週間、今年も秋の御彼岸を迎えました。そういえば3月の春の御彼岸の頃には“今年は寒さが厳しくいつもなら1月の下旬には咲き始める近隣の梅の花が御彼岸を迎える頃になってようやく満開の時を迎えた”とお伝えしていましたね。で、秋の御彼岸はどうだったかというと春の御彼岸同様“暑さ寒さも彼岸まで”という諺通りにはいきませんでした。今年は御彼岸だというのに連日厳しい残暑に見舞われていたのです。春秋の御彼岸やお盆の時期にはいつも以上に境内の御墓には沢山の御花が供えられて華やかになるのですが、真夏に迎えるお盆はいざ仕方ないとしても秋の御彼岸になっても真夏並みの厳しい暑さが続き、記録的な残暑となった今年の御彼岸は、せっかく供えられた御墓の御花もその暑さの為にしおれてしまうのが例年に比べとても早く感じました。“諸行無常”とはいえ綺麗な花がしおれていく姿はなんだか物悲しく見えてしまいます。ところでこうした私達の予想や認識と異なる気候を一般には「異常気象」などといった表現をしますね。人間はここ数百年地球上の生物の中で、唯一やりたい放題に生きて来た生き物ですからその結果、自然のリズムに悪影響を与えてしまったかも知れません。ですからこうした点は大いに反省して自然環境の改善と保全に努めていかなくてはならない事は言うまでもないことです。ただ私が常々気になっているのは自然に対して自分たちの極めて浅く短い経験値を持ちだして、やれ異常だの平年並みだのと語ること、つまりは人間の知識・認識に基づく尺度・物差しで一方的な判断をする人類の横柄さです。自然界もやはり“諸行無常”なのです。ですから厳密にいえば例えば全く同じ秋はないのです。この地球上の生物で人間が一番偉大で全てを支配しているのではなく、大きな自然に抱かれた中で生かされていることをしっかりと理解できた時から本当の意味での自然との共存が可能となるのかも知れません。時には変えていく事も必要ですが、同様に受け入れることも大切なのです。これは私達の日常にも通じる大切な価値観です。何でも思い通りにしようとするばかりではなく、時には今ある環境に身をゆだねてみるという選択肢を持つことで意外な展開が実現したりするものです。“押してもだめなら引いてみな”という柔軟な思考がより多くの選択肢を自らに与えることに繋がっていくのです。

インド訪問
残暑の続く8月の下旬、インドを訪問して来ました。インドといえば我々仏教徒にとりましてはまさに“聖地”と言える国です。仏教の開祖、御釈迦様は当時インド北部にあった釈迦族の小国の王子として現在のネパール南部にあるルンビニー園でお生まれになりました。生母マヤ様はお釈迦様ご出産後7日でお亡くなりになられましたが王子としてなに不自由ない恵まれた幼少時代をおくり、16歳で結婚、その後男児を授かっています。しかし人生の苦や世の無常、生老病死などの根本的な命題が心に芽生え、王位を捨て29歳で出家して城を後にします。その後は様々な修行を何年にも渡って積み重ねるのですが、苦行こそが真実への道ではないということに気付き35歳の誕生日の日(12月8日)ついに悟りに至り、こうして仏教が誕生しました。“仏陀(ブッダ)”とはサンスクリット語で“真実に目覚めた者”という意味をもちます。
私は自らが出家して以来、いつかインドに行ってみたいという気持ちを常に抱いていました。それはその地が聖地であるという事も大きな理由の一つでしたが、私にとっては聖地巡礼以上にインドに行ってみたい理由がありました。それは“どのような風土がお釈迦様を悟りの境地に至らしめたのか?”別な表現をするならば、“お釈迦様の思想、発想はいかなる環境がもたらしたのか?”というものでした。無論、御釈迦様がいらした当時と今とでは多くの点で相違があります。むしろ2500年を経てもなお変わらない点を見つける事の方が困難かも知れません。しかし、歴史的に見ても明確に共通していると断言できる点がいくつかあります。その最たる一例が当時も今もバラモン教に始まりヒンドゥー教に至る同一の宗教徒が国民の大半を占めている事、そしてカースト制度という身分階級の存在です。命の平等を説く仏教は当然のことながらこのカースト制度を真っ向否定しました。その結果、インドにおける仏教は下級カーストで苦しい生活を何世代にもわたり強いられて来た多くの人々の支持を受け、更に2世紀にはクシャーナ朝の庇護もあり他宗教からの改宗者も相まって一時は大きな宗教的勢力となり栄えましたが、5世紀以後は次第に衰退し、現在はおよそ12億人ともいわれるインドの人口の約90パーセントがヒンドゥー教徒であるといわれています。そして仏教徒は人口のわずか1パーセントにも満たないのが現状です。日本に生まれ育った私達はもし身分制度があってそれにより就職や教育が制限され、結婚も同じ身分同士でないと認められないと聞くと受け入れがたい違和感を誰しもが抱くことでしょう。実際、御釈迦様も同様の思いを持たれたからこそ悩み苦しみ、そして仏教を開くに至ったのではないでしょうか。カースト制度の歴史は3000年とも5000年とも言われています。ですから当然お釈迦様がお生まれになった当時もこうした身分階級は世の常として存在していたわけです。現在のインドにおいては1950年憲法によってカースト制度事態が撤廃されました。しかしながら数千年という長い歴史を持ち、インド国民の中に深く浸透しているこの制度が簡単に無くなるわけはなく、現実にはほとんど変わることなく昔からの生活習慣が繰り返されているというのが現実です。近年インドではIT産業の躍進が著しく優れた技術者も多く輩出されていますが、これとてもカースト制度が大きく影響しているそうです。つまりは多くの下級カーストの人々がカースト制度に定められていない新種の職業であるIT産業に進出しているというのです。日本といわず先進国では少々想像し難い現実がインドには実際に存在するのです。
2008年トロント映画祭で初めて上映された『スラムドッグ$ミリオネア』という映画があります。もう皆さんご覧になられたでしょうか?この映画には現代のインドが抱える身分制度等が原因とされる人身売買等の社会問題がテーマとして躊躇なく描かれています。同じ国の国民同士でありながら、上級カーストの人々と下級カーストの人々との間には超える事の出来ない絶対的な壁が存在し、どんなに理不尽であってもその絶対が続いて行く・・・。そして何とかその現実を打開しようとする思いと諦めの気持ち・・・。この映画は現代のインドが舞台として描かれていますが、御釈迦様がご活躍された時代も同様の、もしくは今以上のそうした有るべきでない社会の現実があったのではないでしょうか。もしそうだとするならば現在のインドを訪れる事は私にとりましてはとても大きな意味を持つことなのです。実際、今仏教を学ぶ環境という視点で申し上げるなら、日本が最も環境が整った場所であるということは明白の事実です。文献や歴史的資料等の点においても日本以上に環境が整った地域はほかにはないでしょう。実際、他の仏教国から多くの人が仏教研究の目的で日本に留学しています。それに加えてお釈迦様がいらした時代より現在に至るまでのインドを知る事も日本に居ながらにして容易に叶えることができるでしょう。ただし、資料などからだけでは把握できない事、触れられない部分もあるのではないのでしょうか。それはインドに満ちた空気であったり、国民性であったり、つまりは実際に足を運び五感を研ぎ澄まし、全身でしか感じえない、把握できない事も沢山あるのではないかと思うのです。もちろん、1度きり、それも数日インドに滞在しただけでそれらすべてを体感し把握しようとは到底思いません。出来る限り1度でも多くの機会を持ちこの地を訪れることが必要である事は言うまでも有りません。そんな理由から今回の初めてのインド訪問は敢えてお釈迦様の足跡をたどるというありきたりな仏跡観光ツアーではなく、ニューデリーからアグラ、ジャイプールを経てラジャスタン州ajabgarhの農村地域を訪ねるという近代国家として急進するインドとマハラジャ王朝制度の史跡的インド、そしてカースト制度によって代々虐げられた生活を余儀なくされている地方の貧困地域のインドを訪ね現実を目で見、肌で感じることを第一の目的として成田空港を飛び立ちました。
日本とインドとの時差はおよそ3時間30分、飛行時間はおよそ8時間でした。お昼過ぎに成田を出発した搭乗機は順調に飛行し、現地時間の午後5時35分予定通りデリー空港に着陸しました。現在急速に経済力を付けているインドを象徴するかのごとく到着した空港は大変新しく設備も整っていました。節電が叫ばれている日本の成田空港の方が暗く、蒸し暑いというのが素直な印象です。入国手続きを済ませた後はまだ明るい時間帯でしたのでホテルにチェックインする前に大統領府やインド門それに日本領事館などが立ち並ぶ今のインドの政治経済の中心的な地域を視察しました。国力を急成長させている国だけにこの地域は大変整備が行き届いており、しっかりと管理されているという印象を強く受けました。厳重に警備された超富裕層の豪華な住居もこの地域にありました。日没を少し過ぎた頃宿泊先のホテルに到着しました。過去、長らくイギリスの植民地であった事も影響してか、ホテルスタッフの英語は東南アジアの地域でよくあるなまりの強い英語ではなく、日本人にはとても聞き取りやすいものでした。初めて訪れる地でしたのでこうした些細な事柄が私にとっては安心につながっていったのは言うまでもありません。
翌日はチャーターした車で陸路アグラのタージマハールに向かいました。“インドといえばタージマハール!”といわれるほど今では代表的な観光スポットとなっていますが、ここはムガール帝国の第5代皇帝シャー・ジャハーンが最愛の妻ムムダス・マハールの死後、遺言を守るべく膨大な量の白大理石を使い、約30,000人の職人などの手により1931年から実に22年の歳月をかけて建築されたイスラム教の霊廟です。タージマハールはヒンドゥー教徒にとってはガンジス河に次ぐ“聖なる河”ヤムナー河のほとりに建てられています。皇帝シャー・ジャハーンは自らの霊廟をヤムナー河の対岸にタージマハールと全く同じ形で黒大理石を使って建設し、橋で繋ごうとしましたが、タージマハール建設だけでも国が傾くほどの莫大な費用がかかった為、その息子らに反対されアグラ城に皇帝は幽閉され実現することはありませんでした。

インド訪問


インドの気候は雨季と乾季とがあり、6月から9月までは雨季にあたるのですが、幸い好天に恵まれました。しかし、さすがに晴れると真夏のインドの日差しは強烈で、日本の厳しい残暑で暑さには慣れていたとはいうものの、数分車外に出ただけでも汗だくになるくらいの暑さです。そんな中、車から見学者専用の電動シャトルに乗り換えてタージマハールに到着しました。完全なシンメトリーに建てられたその姿は荘厳かつ豪華で霊廟というよりは国家権力の象徴的な印象を受けました。前述したとおり約30.000人もの職人らの手によって建てられたその建物は細かい所まで精巧な石細工が施されており、現在の様に工作機械もろくにない時代にほとんどが手作業で行われたということで石細工職人の指先からは絶えず血がにじみ出ていたそうです。タージマハール周辺には今も当時の石細工職人の子孫たちが石細工による工芸品を製造販売して暮らしています。ここにも職業を容易に変えられないカースト制度の現実を見ることが出来ました。

インド訪問


ところでヒンドゥー教徒にとって牛はまさに“神様”だそうです。ですから、いたるところに牛がいます。日本では考えられない事ですが街中はもちろん、観光地にも路上にも、それこそ高速道路上にも沢山の牛がいて、更に驚く事にはほとんどの牛が放し飼いです。また牛が車を避けるのではなく、牛を人や車など牛以外の存在が避けて道を通行します。ですから牛が原因の渋滞も日常茶飯事です。のどかといえばその通りですが、こんなところにも文化の違いを感じました。
翌日はジャイプールに出向きました。ジャイプールはマハラジャ、サワーイ・ジャイ・スイン2世によってアンベールから都が遷都された町で1729年に建設された王宮があります。そして現在もマハラジャ一族がその一角に居住しています。シティパレスと呼ばれるその王宮が現存する町は“ピンクシティ”と呼ばれていますが、これは1876年、英国ヴィクトリア女王の息子であったアルバート王子の訪問を歓迎する為に町中の建物をピンク色に塗りつくしたのが所以です。ここには歴代のマハラジャ達が愛用していた馬車などゆかりの品々が沢山展示されているのですが、中でも目を見張るのはディワニ・カースと呼ばれる貴賓の間に陳列してある縦横約160以上はあろうかという2つの巨大な銀製の坪です。この坪は1902年マハラジャの英国訪問に際し、滞在中の日々の沐浴の為にガンジス河の水を汲み入れて英国まで持参されたそうです。当時のマハラジャの突出した権力の象徴とも言うべき品物です。実際にこの坪を水で満たすと1つがおよそ1tにもなるそうです。そのような品物をインドから英国まで運んだわけですからその苦労が偲ばれます。

インド訪問


1950年に現憲法が発布されて以降、マハラジャはその権力を失いました。よって今現在は権力をほしいままにしていた頃の栄華は見る影も有りません。それも影響してか本来であれば“インド一美しい町”とされ“ピンクシティ”と称されるこの地域も今は昔、既に繁栄を誇った時代は通り過ぎ今はゆっくりと朽ちていくのを待っているかのような印象を受けました。
シティパレスとほど近い所にジャンタル・マンタルという世界遺産にもなっている施設があります。これは天文学者でもあったマハラジャ、サワーイ・ジャイ・スイン2世が暦の制作や時刻、そして天体観測を行う為の強大な観測儀が16種類並べられています。コンピューターが発達した情報社会の現代からみるとどれもあまりに大きなアナログ式の観測儀ではありますが、それがむしろ何かSF映画のワンシーンを見ているようでその存在感には圧倒されます。更に今も尚、これらを使って観測や計測が行われていると言うのですから驚きです。

インド訪問


こうして今のインド共和国が設立される前のインドの歴史的建造物と当時の様子を見学して気付くのはマハラジャ、皇帝などの特権階級はとてつもなく強大な権力を掌握していたということです。無論、日本にも明治維新にいたるまでは永きに渡り同様の時代がありました。士農工商等の階級制度も存在していました。しかし日本のそれは時代の流れと共にいつしか薄れそして消えて行きました。ところがインドでは未だにそうした古来からのしきたりが継続されています。それは最近政治の話の中でよく耳にする“既得権益”への執着なのでしょうか。それとも宗教の影響でしょうか。
明治維新以前の日本はすでに現在同様いや現在以上に“仏教国”と言えるほど国民の大半は仏教に帰依していました。“カースト制度を真っ向否定して民の平等を掲げた仏教”の教えが日本には根付いていたからこそ、日本は悪しきしきたりからの脱却を果たし近代国家確立へのかじ取りが出来たのかもしれません。
Ajabgarhの宿泊先周辺はまさに田園地帯が広がっていました。大地には大きな起伏はなくインドのもつ広大な国土を感じさせるといった風景が延々と車窓から眺めることができます。また、この地域は西にはタール砂漠、北東にはヒマラヤ山脈を望む場所に位置しているのですが、思っていたよりははるかに緑豊かな地域でした。この時期畑ではトウモロコシが成長し間もなく迎える収穫の時期を控えて天に向かって青々とした葉や茎をのばしていました。また牛やヤギの放牧も行われており、朝や夕には放牧先と住まいとを行き来する家畜たちと農民の姿がいたるところに見かけられます。農作業中でも女性は非常にカラフルな民族衣装のパッラーと呼ばれる長い布で頭部や顔を覆いサリーという6mほどの布を身体に巻いたいでたちで淡々と作業をこなしています。そこに子供達もいるのですが見学していると親の手伝いをしているというよりはむしろ、子どもといえども年相応の仕事を既に与えられているように見えました。

インド訪問


また一言で農村地帯といっても様々でした。比較的民家が集中している地域では制服を着て学校に通う子供達の姿を見ることが出来ましたが、少し人里離れた地域に暮らす子供達は本来であれば学校に行っているであろう時間帯にも放牧や家事に従事している姿がありました。足元を見ると裸足の子供も少なくなく、履物を履いていたとしてもビーチサンダルがほとんどです。大半の家にはドアや鍵はおろか電気も無く、水道も当然ありません。ですから大きな壺などを頭に載せて水汲み場の井戸からポンプで水を汲み、自宅まで歩いて運ぶ農民たちの姿があちらこちらで見られました。

インド訪問


インドの初等教育と聞いてまず思い浮かぶのが二桁の掛け算を日本の九九の様に暗記しているということです。実際こうした教育が行われている事は事実ですが、それは都市部や上級カーストの人たちの間では常識でも農村部や都市部のストリートチルドレンと呼ばれる家を持たない多くの子供達には当てはまらない事の様です。そしてインドでは水、氷、生野菜、フルーツなどは絶対口にするな!ということはツーリストの間では定説になっています。実際、大都市の中心部でもない限り衛生面にはかなりの問題がある事は間違いありません。日本の様にごみ収集等は一応行われてはいるものの問題はそのマナーで、いたるところに分別されていないゴミが山積みにされ、あふれています。更にはいたるところにいる牛の糞尿もそのままに放置されている為、自体は深刻です。
滞在した村には小さなヒンドゥー教の寺院がありました。朝と夕方に仏教的に言うところのお勤めが行われています。今回は夕方のお勤めを見学させて頂くことが出来ました。ヒンドゥー教の宗教儀式を見るのはこれが初めての機会でした。施設内はわずかな電灯で明るさが保たれています。王宮の様な荘厳さはなく、むしろ質素な印象を受けました。建物の中にはシヴァ神・像神・猿神など多くの神々の像が安置されています。そして定刻を迎えると信者と思しき2人が銅鑼に似た(音質はかなり高音)物と大きなハンドベル計4つを一定の早いリズムで打ち鳴らし始めました。文字で表現すると“カンカン!キンキン!カンカン!キンキン!”といった音色がかなりの音量で延々と40分くらい打ち鳴らされました。よくダンスミュージック等を大音量で聞き続けると陶酔(トランス)状態になることがあるといわれますが、信者の方々にとってあの環境はまさしくそれに等しいものがあるのではと感じました。儀式が始まって40分を過ぎた辺りでようやく建物の奥から扇状の火種を手にしたヒンドゥー教の僧侶が出てきました。何が始まるかと思いきや、建物の中に安置された神々の像の前にあるロウソクに火を灯し始めました。沢山の像に対し、ゆっくりとそれは行われていきます。そして全てのロウソクが灯された後、僧侶はまた建物の奥に戻り夕方のお勤めは終了しました。帰り際に参拝していた信者たちにはザラメに似た砂糖が一つまみずつ供物として配られました。私もその供物を受け取り、寺院を後にしました。

インド訪問


紀元前1200年頃アーリア人の進出と共にインドに広がったのがバラモン教です。司祭=バラモンが絶対的な権力を有したことからこう呼ばれています。その後、このいわゆる“階級制度”をもったバラモン教が土着の進行などを吸収して4世紀頃に成立したのがヒンドゥー教です。ヒンドゥー教には特定の開祖や聖典などは存在しません。シヴァ神・ヴィシュヌ神・ブラフマー神など多彩な神々をその信仰の対象としています。キリスト教やイスラム教に共通した“一神教”ではなく“多信教”であるところは仏教と共通しています。そしてその宗教に対する価値観をインド国民のおよそ90パーセントを占めるといわれるヒンドゥー教徒が共有している事こそインドに数多くの宗教が存在する所以、インドが宗教に寛大な理由かも知れません。
今回のインド訪問では事前に認識していたことをはるかに超える“リアル・インド”を体感し、学ぶ事が出来ました。そして一番のテーマである“お釈迦様を悟りの境地に至らしめたもの”の糸口がほんの少しではありますが見えてきた気がします。前述の通り、インドでは国民の生活に今も尚カースト制度が強く影響しています。その弊害として教育環境の格差、就労環境の劣悪さなど今までインドが混沌とせざるを得なかった原因が少なからず潜んでいます。とはいえ、では今回私が訪問したインドの農村部の子供達に日本の子供たちが欲しがるようなゲーム機をプレゼントしたら喜ぶだろうとか、各家に薄型大画面の最新型のテレビを提供したらいいだろうという気持ちには少しもなりませんでした。無論、未舗装のどろ道を裸足で歩く子供達に運動靴を贈りたいと思いましたし、学校が遠くなかなか通学できない子供達に東京都だけでも年間数万台が処分されているという放置自転車を何とか差し上げる術はないどろうかということは真っ先に考えました。しかし日本をはじめとする先進国の生活、更にはインドの中心部の一部の人々が手にした近代的な生活様式を唐突に提供することは望まれざる事なのではないかと感じたのです。その理由はほかでもない農村部に暮らす子供達の表情とその様子に有りました。以前当かわら版のコーナーで2010年の春に戦没者慰霊の為に訪問したバリ島での様子を掲載いたしました(2010年11月30日更新)。その文章の中でバリニーズの子供達は皆、屈託のない笑顔でキラキラと瞳を輝かせ、大きい子供が小さい子供の面倒を見ながら屋外で大勢で遊んでいる様子を紹介させて頂きました。今回訪問したインドの地方農村部の子供達もバリニーズの子供達と同じ笑顔、同じ輝く瞳をもっていたのです。

インド訪問


日本ではすっかり見かけなくなってしまった光景がインドのこうした地域ではごくごく自然な事なのです。珍しい日本人の訪問者を見つけると躊躇うことなく寄ってきてカメラを向けるとはにかんだ笑顔で答えてくれるのです。また子供以外の農村部に暮らす人々が生活の中に信仰が極めて自然で当たり前な存在として溶け込んでいる事もバリニーズの方々と共通しています。バリ島訪問の時に再認識させられたのは“知足=足りたるを知る”ということでした。そして今回インド農村部の皆さんの生活に触れ、同じことを再度思いました。欲求をどん欲なまでに追求し、自然をも掌握しようとする文明社会、かたや自然にその多くを委ね、与えられる環境の中から幸せを見出し、信仰と常に接しながら生きる生活・・・。無論、どちらが正しくどちらが間違いかとは一概に結論付けることはできませんし、またそうした問題でもありません。しかしながら、後者の方々の様な生活に対する価値観に触れることで不思議な安堵、安らぎを感じる近代文化に囲まれた生活をしている人は意外と多いのではないでしょうか。そしてお釈迦様が説く仏教の価値観もまた、物質的に恵まれた現代社会で生活する多くの人々にとって心の潤いとして今こそ必要な認識ではないかと思います。今後も機会ある限り私達仏教徒の聖地インドを訪問し、御釈迦様が過ごした大地の空気を吸い、風に触れその御心を感じたいと思います。

施餓鬼法要
厳しい残暑が連日続く中、恒例の施餓鬼法要が8月19日午後2時から宗信寺本堂にて執り行われました。午後になっても30度を超える酷暑ではありましたが、例年以上に多くの檀信徒の皆様が御参詣になり、盛大な法要となりました。この日、各家の御先祖様はもとより有縁無縁の諸霊、そして東日本大震災でお亡くなりになられた全ての方々、全ての家畜達に対し大勢の参拝者の方々の祈りが捧げられました。そして同時に今自身が他の為に手を合わせる事の出来る環境にある事に心から感謝しました。“当たり前”は決して“当然”ではないということを私達はあの大震災で気付かされました。しかし、月日が経つと被災当時の思いも薄れがちになってしまうのは人間の本当に反省すべき点です。せめてこうした法要や御先祖の供養、総じて手を合わせる機会ごとに今の生活に心から感謝するという思いを心新たにすることを是非とも習慣づけたいものです。

施餓鬼法要


お盆
7月に続き8月もお盆の月です。現在宗信寺の御檀家の総数はおよそ100軒程ですが御檀家以外にも日頃、仏事や相談などを通じてお付き合いのある信者様もいらっしゃいますのでこのお盆の時期は7月と8月両月とも約100軒ずつ、述べ200軒程のお宅を訪問してお盆の御供養をお勤めします。ところでお盆のお経廻りのことを昔から“棚経”と呼んでいます。これは宗派に関わらずほとんどの仏教寺院に共通しています。“棚にお経?”ぴんとこない方もいるかも知れませんね。その由来はお盆の時の御仏前の飾り様式に有ります。お盆の時期にはお仏壇から御位牌をお出しして特別な段を設け、まこもというござを敷いてその上に御位牌や仏具を置き、キュウリやナスときびがらを持ちいて御先祖様の乗り物を作り、季節の品々を御供えします。これを一般には“お盆棚”と称します。お盆のお経はこのお盆棚に向かってお勤めさせて頂くので“棚経”と呼ばれるようになったのです。ところで先ほどキュウリとナスときびがらで御先祖様の乗り物を作るといいましたが具体的にはキュウリで馬をナスで牛を作ります。この違いを申し上げますとお盆は年に一度家族のもとに御先祖様がお帰りになられる時期ですので、霊山浄土から家族のもとにお帰りになる時には足の速い馬にお乗り頂いて少しでも早くお会いして、お戻りの時には牛にお乗り頂いて名残を惜しみつつゆっくりとお戻り頂くのです。この様な風習から私達は昔から日本人は御先祖様を尊び大切にしてきたことを窺うことができます。こうした価値観は総じて目上の方を敬うという日本の伝統文化にも通じているのです。ところが戦後、日本では核家族化が進みお仏壇のない家が急増し、結果日常生活の中で御先祖様と触れ合う機会が激減してしまいました。そして今、若者が高齢者を狙う振り込め詐欺等の目上の方々が被害を被る犯罪が激増しています。こうした現象は一見互いに関わりを持たない様に思われがちですが、実は深く影響し合っているのです。多くの日本人が小さい頃からお年寄りと生活を共にし、目上を敬うことが当たり前の習慣になっていたとしたならば、きっと今の様なお年寄りが暮らし辛い社会にはなっていなかった事でしょう。老後を安心して過ごせる社会を実現するためにも日頃から御先祖様に感謝し、お年寄りを大切にすることを皆で心掛けていきたいものですね。

ふじみ園合同法要
8月9日、毎年の恒例行事となりました救護施設平塚ふじみ園でのお盆の合同法要が営まれました。この法要ではふじみ園物故者・新盆会を迎えた諸霊位・入園者各家の御先祖・職員スタッフ全員の皆様の各家御先祖など全ての亡き方々を入園者、職員の方々と共に御供養を営みます。会場のホールには毎年沢山の皆さんがお集まりになり、厳粛に法要が営まれます。そして法要の後の法話には皆さん真剣に聞き入って下さる姿がとても印象的です。今年は御先祖様と私達の間にある“絆”をテーマにしたお話をさせて頂きました。どなたにとっても御先祖様は必ず存在します。ですから私達は今、自分がこうしてこの世に存在出来ていることへの感謝の気持ちを御先祖様に対して抱く事はごくごく自然な事なのです。そして御先祖様と私達との間に存在する絆を大切にする事も同様です。更には私達が生活の中で育んでいくべき生ある者同士の絆も同じように大切にしていかなくてはいけません。様々な障害や生活苦を背負いながらも前向きに日々の生活を送るふじみ園の入居者の皆さんが一生懸命に私の話をお聞きくださるその様子は生きることへの真剣さ、純粋な気持ちが伝わって来る様でした。

被災地へ 〜その〜
『夏祭り・盆踊り』の実施
6月に行われた支援活動の報告の折、告知させて頂いておりました8月4日の清水仮設住宅にて行われる『夏祭り・盆踊り』実施の為、7月のお盆と並行しながら私達支援隊が担当することへの準備は進められました。今回の支援活動で宗信寺支援隊が受け持つのは綿菓子・ポップコーン・かき氷・ヨーヨー釣り等の屋台の提供と支援当日午前中の時間を利用しての小中学生への学習指導、そして盆踊りで被災地の皆さんに着て頂く浴衣を集めることでした。まず、屋台に用いる専用の器具、具体的には綿菓子製造機、そしてポップコーンマシーンにつきましては日頃より御支援に参加協力を頂いております(株)イシックス様よりお借りすることが出来ました。またこれらの機器は使用する際に大きな電力を必要とするのですが、仮設住宅の電源設備の現状に配慮いたしまして発電機も持参が必要との判断から、こちらも(株)イシックス様に御用意頂きました。併せて猪股社長様よりラムネ約100本の御支援を頂き飲み物を冷やすのに適当な大きなビニール製のケースと合わせて御用意して頂くこととなりました。屋台に使用するテントやテーブルは自前の物で対応が出来たのですが、当日の支援活動は夜間に行われる盆踊りもありますので照明設備が必要となり、こちらも屋台全体を出来るだけ消費電力を抑えた中で必要な明るさを確保するためにLED電球を用いて直列に繋いだ照明器具を即席に作成しました。さらにかき氷機に関しては電動の物ですとやはり大量の電力を消費するということから、手動かき氷機を用意して当日に供えました。清水仮設住宅には現在およそ400人の方々が生活していらっしゃいますので、全ての食材も“400人”という人数を目安にして用意しました。メモに書き出した必要な物品を揃える為、その都度買い出しに東奔西走しました。また、小中学生対象の夏休みの宿題や自由勉強などの学習指導は厳しい難関を乗り越えた経験を持つ帰国子女を含む慶応義塾高校の1年生3人が担当してくれる事になりました。こうしてできることから一つずつ毎回支援の準備は進められていきます。ただし、今回はいつも以上に私達支援隊だけではどうにも準備しきれない物がありました。それは沢山の浴衣を手配することでした。仮設住宅にお住まいの皆さんはその全員が住居をあの大津波で失った方々です。ですから当然浴衣なども流失してしまっています。「1着でも多くの浴衣をお届けして盆踊りを楽しんで欲しい・・・」その思いは私だけではなく支援隊のスタッフも同様でした。しかし、7月のお盆を終えた月の中旬時点では50着ほどしか手配出来ていませんでした。正直なところ、この時期は浴衣に関して女川の方々の期待に答えられないのではという不安がありました。しかし、正に奇跡ともいうべき事がこの後次々と起こったのです!宗信寺東京布教所のある渋谷区富ヶ谷の町会の皆様の御配慮で7月下旬から始まりました朝のラジオ体操の会場で8月の支援活動のお話をさせて頂きましたところ、翌日から続々と多くの御近所の皆様が浴衣を届けて下さるようになったのです。また、たまたまお知り合いになった女優後藤久美子さんのスタイリストをなさっている池ヶ谷さんの御縁で呉服店の御主人様をはじめ、お仕事関係の方々から200着以上の新品の浴衣を御提供頂くことが出来ました。また7月のお盆の棚経でお伺いした折、支援の御案内をさせて頂きました檀信徒の皆様からも宅配便等で沢山の浴衣をお送り頂きました。そして支援スタッフの御家族、御親族の皆様からも次々と真新しい浴衣が届きました。中には大阪からおそろいの浴衣100着をご提供下さった日本舞踊の師範の方もいらっしゃいました。こうして人が人を呼び支援の輪がどんどんと広がりまして最終的には小さなお子さん用から成人男女用の浴衣まで約650着を帯や下駄などの小物と合わせて女川の皆さんにお届けすることが出来ました。実際にお会いした事のない方々も今回の支援には沢山お力添えを頂くこととなりました。本来であれば直接お目にかかり当日の女川の皆さんの御様子をお伝えしながら御礼を申し上げるべきところではありますが、まずもって御支援下さいました全ての皆様に心より御礼申し上げます。ところで浴衣はどうしても事前に衣装合わせとでも申しましょうか、実際に浴衣を着る皆さんに試着して頂く時間が必要でした。また、大きなダンボール箱で40個を軽く超える大量の荷物の量となりましたので当日私達が支援車両に積んで行く事は不可能でした。そこで前もって浴衣だけは宅配便で現地に発送することにしました。発送に際しましては子供用・男性用・女性用さらには帯などの小物類等数を確認しながら荷造りをしていきました。支援スタッフのお手伝いを頂きながらその作業は行われ3日ほどで終了し7月30日、何とか女川に向けて発送することが出来ました。

被災地へ 〜その〜

被災地へ 〜その〜


8月3日、いよいよ支援出発の日を迎えました。朝から支援車両の用意や持参する支援物資の確認等の作業が行われました。夕方には(株)イシックス様より御提供の機材物資一式が東京布教所に届けられました。入念な荷物の最終確認が行われ、午後10時を過ぎた頃より今回支援に参加してくださるスタッフの皆さんが集まり始めました。そして全員が集合し支度が整ったところで間もなく日付が変わろうとする午後11時50分、2台の支援車両は総勢10名の支援スタッフを乗せて手元の温度計で33℃という熱帯夜の渋谷を出発しました。
今回も線量計で放射能数値を計測しながら真夏の闇の中、一路女川を目指しました。今回の放射能測定値は下記の通りです。

放射能モニタリングデータ 渋谷区〜女川町清水地区
平成24年8月3日〜4日計測

計測場所数値(μSv/h)日時気温
渋谷区富ヶ谷0.133日午後11時50分33.0度
蓮田SA0.144日午前 0時30分27.0度
佐野SA0.121時10分26.5度
上河内SA0.151時45分25.0度
那須高原SA0.362時20分23.5度
鏡石PA0.602時50分23.5度
安積PA1.063時10分23.5度
安達太良SA0.923時25分25.0度
二本松IC1.513時38分25.0度
福島松川PA0.913時45分24.5度
国見SA0.714時10分24.5度
仙台市宮城野区0.125時15分24.0度
女 川 港0.108時10分25.0度
清水地区仮設住宅0.1210時30分26.0度

毎回持参している線量計は放射能の計測値が0.50μSv/hを超えると警報ブザーが鳴る仕組みになっています。そして上の表の赤字の地点は今回警報ブザーのなった計測地点です。安積SA・安達太良SA・二本松ICはいつもながら高い数値ですが、今回は鏡石PA・福島松川PA・国見SAなど今まで警報ブザーが鳴った事のない地点でも高い数値が計測されました。放射能数値を初めて計測したのは2011年の5月25日です。ちなみにこの時の渋谷区富ヶ谷の数値は0.15μSv/h、女川町の数値は0.09μSv/hでした。この数値から両計測地点において1年以上時間が経過した現在もその放射能数値には大きな変化がないことが分かります。実際、毎月のデータを振り返ってもこの2地点は毎回ほぼ同様のものです。ということは線量計に誤作動や計測ミスなど何がしかの原因があって高い数値を記録する地点が増えたと考えるのには無理があります。この計測結果を素直に見るならば時間をかけながらじわじわと放射能の影響が広がりつつあると判断するのが正論でしょう。福島第一原発の放射能漏れによって汚染された地域では現在懸命な除染作業が行われており、安全な地域に避難していた住民の方々も一時避難区域だった地域に除染が終了した場所から徐々に戻り始めています。自宅や学校、そして通学路等の生活域の除染作業が一応終了した地域のお子さんたちは念のため線量計を1人1人首から下げて持ち歩いています。ただこの線量計はその場の瞬間的放射能値を測定するものではなく、今までどれだけ被ばくしたかを知る積算数値を記録するものと聞いています。これではどこが安全でどこが危険なのかをお子さんたちが即座に判断し適切な行動をとるのは困難です。一時でも高濃度汚染された地域に戻る以上、絶対に安全という確信を得ることが必要不可欠、それが最低限の条件ではないでしょうか。大震災で福島第一原発の事故が発生して以来、今日にいたるまで原子力発電の是非を問う論議は様々な場所、そして様々な形で行われています。そんな中、関西電力の大飯原発がこの夏の関西地区の電力供給不足を理由に然したる安全対策も施されないまま政府と電力会社とによって再稼働に踏み切られました。残暑が続いてはおりますが夏の暑さのピークを過ぎたこの時期、関西電力が電気を供給したこの夏の電力最大消費量は大飯原発を始動させない環境での電力最大供給量を大きく下回りました。つまり暑さの厳しかったこの夏であっても電力不足をその理由に大飯原発を再稼働する必要はなかったということです。ところが再稼働にこぎつけるまでは政府や関西電力はあの手この手を使って様々な情報、根拠を示して再稼働の必要性を示したにもかかわらず、実際こうした結果が出た事は政府や電力会社からはアナウンスされる事は未だありません。また原子力発電継続の理由として雇用の確保ということがよく挙げられます。しかしながらこの点についても同じく事故を起こしたチェルノブイリを見ても明らかな様に完全廃炉に至るまでは最低でも40年の長きに渡って多くの作業員がその工程に携わる必要があるのです。本来、どんな時にも我々国民の信頼に背くことなど万が一にもあってはいけない政府に国民が信頼を寄せていないのが現在の我が祖国日本の現実です。国会議員の多くは保身の為と誤解されても仕方ない様な国民そっちのけの振る舞いをしています。もしかすると近いうちに解散総選挙に至るかも知れません。その時にはせめて私達は国民として小さな小さな力ではありますが明確な意思表示をしたいものです。
日付が変わり4日の午前5時30分頃、仙台市内に入った支援隊は早めの朝食をとり、今回の支援内容の最終確認等を済ませ、海沿いの一般道を塩釜、松島、東松島、石巻と目的地女川町を目指して進んで行きました。そして午前8時過ぎ、女川港に到着した支援隊は全員で大震災で亡くなられた方々の供養を営みました。今回初めて参加してくれた高校生スタッフの岩崎君は御数珠を持参して供養に望んでくれました。亡き方への思いが伝わるその姿がとても印象的でした。供養を滞りなく済ませた後、支援隊は清水仮設住宅に到着しました。仮設住宅の集会場前の広場には住民の皆さんによって既に盆踊り用のやぐらがこしらえてありました。飾られた提灯をくぐるようにしながら支援車両を駐車し、持参してきた機材や物資を降ろす作業から取り掛かりました。それが終わるとスタッフの大半は夜の盆踊りに備えてヨーヨー作りに取り掛かり、高校生スタッフ3名は仮設住宅のお子さんたちと一緒に勉強を始めました。


被災地へ 〜その〜


今回清水仮設住宅の住民の数400人を超える650着の浴衣を多くの皆様よりお寄せ頂いたわけですが、清水仮設以外にもお隣の新田地区や鷲神浜地区などをはじめ多くの女川町民の方々の手に浴衣をお届けすることが出来ました。また当日持参したお子さん用の浴衣10着はFM女川にて放送の中でプレゼントして頂くことが出来ました。このFM女川局を訪ねた折、今までの支援活動、そのきっかけ、これからの方針等について語って欲しいとの依頼を受け、宗信寺支援隊と今まで当支援隊に御協力下さった全ての皆様を代表しラジオ番組の収録に参加しました。リクエスト曲はいつも御支援を頂いている三宅裕司さんも参加しているチーム・アミューズによる復興応援ソング『Let’s Try Again!』をお願いしました。そして“女川に寄せる思い”という質問に関しましては、女川の皆さんの人柄が大好きな事、そして大きな被害を受けた女川が“被災地”という呼ばれ方をされなくなるまでは何がしかの関わりを継続していきたいという気持ちをお伝えさせて頂き番組の収録は無事終了しました。午前中の作業が一段落したところで、梁取先生のお宅でお昼ご飯を御馳走になりました。仮設住宅という決して十分とは言い難い環境の中、いつも梁取先生は私達支援隊の食事を遠藤先生や佐藤さんなどこれまた私達を人一倍気遣って下さる方々と共に心配して下さいます。毎回女川の豊かな海の幸を用いて日常では食べられないほどおいしい食事を手作りでこしらえて下さいます。大きな御負担をおかけしてしまうので常日頃より本当に恐縮しているのですが、いつも笑顔で私達をお迎えくださるそのお姿には支援隊一同いつも感心させられるのと同時に自身の日常を反省することしきりです。おなかいっぱいお昼ご飯を頂いたところで、今度は夕方5時から行われる盆踊りに備え、屋台の準備に取り掛かりました。機材の手配は万全でしたが何せ綿菓子やポップコーンなどを作るのは昨年来2度目であり、今回が初めてのスタッフも当然おりましたので、機材の設営が終わった後は“試作”から取り掛かることとなりました。経験のある方は御存じかと思いますが、綿菓子作りはふんわりと大きく綿アメを棒に絡めていくのは至難の業です。棒を持つ手に綿アメがくっついてしまったり、いびつになってしまったりとみんなしばらくは悪戦苦闘してしまいました。またポップコーンも味付けに苦労しました。ポップコーンをおいしく作る為に専用のオイルと調味料を使用するのですが、ポップコーンのもとになるコーンの量に対してどのタイミングでどれだけの分量が適当なのかを見出す為に何度も試作と試食が繰り返されました。そうこうしている間に支援隊の屋台の周りには沢山のちびっ子たちが集まって来ました。お子さんたちの表情は皆、ワクワクしているとでも申しましょうか、笑顔がいっぱいです。ただし盆踊りが始まる5時までにはまだ少し時間がありましたので高校生スタッフと大学生スタッフ計5人に子供達と遊んでもらう事にしました。女川のお子さんたちは皆本当に人なつっこくすぐに打ち解けた様子で仮設住宅の敷地内のあちらこちらから遊び声や歓声が聞こえてきます。更に今回個人でわざわざ大田区から駆け付けて下さった宗信寺御檀家の若月さん御夫妻も加わり、サッカーや鬼ごっこ、はたまたカードゲームをしたりと大勢のお子さんたちと元気に遊ぶ事が出来ました。


被災地へ 〜その〜


そしていよいよ開催時刻の5時を迎え住民の大人の方々もやぐらを囲むように広場に集まり始めました。当日の女川は関東同様の猛暑でしたので屋台が始まると真っ先にかき氷の前には長蛇の列が出来ました。またヨーヨー釣りも大人気で支援スタッフもフル稼働です。そして陽も沈み辺りが暗くなった頃、民謡が流れ始めやぐらの上からは力強い和太鼓の音色が響き始めました。最初は数人だった踊り手も少しずつ増え、多くの支援者の皆様から贈られた色とりどりの華やかな浴衣に袖を通した人も加わり時を追うに連れ盆踊りは盛り上がりを増して行きました。踊りの休憩時間には子供達を集めてけん玉や縄跳びを使ったゲーム大会が行われました。ゲームの賞品には宗信寺の檀家様の久保寺さん御夫妻より御提供頂いた沢山の駄菓子が当てられました。また今回は“夏祭り”ということで日頃宗信寺の御本尊に皆様から御供え頂いた日本酒やビールを持参していたのですが、ラムネと一緒に氷水で冷たく冷やした事もあり、こちらは自治会の役員さんをはじめ男性陣に大好評で、皆ほろ酔い気分になられたと見えてとてもいい笑顔を見せて下さいました。そして今回浴衣以外にも沢山支援者の皆様から御提供頂いた食品や日常生活品などは全て小分けにされ、盆踊りに参加された方々全員対象の福引の賞品として多くの方々の手に届けられました。こうして2年ぶりに開催することができた盆踊りの夜は沢山の笑顔と大変なにぎわいの中、更けていきました。


被災地へ 〜その〜

被災地へ 〜その〜

被災地へ 〜その〜

被災地へ 〜その〜


そんな中、時間をおいて2組の御家族が私を訪ねて来られました。最初にお声をかけてくれたのはこの春高校生になった男子学生とお母さんでした。そうです!今年の2月に行われた『新1年生応援プロジェクト』の後、お便りをくれた本人が会いに来てくれたのです。そして改めて御礼の言葉をかけてくれました。とてもイケメンンな彼の様子からは高校生活を苦労の中にも充実して過ごしている様子を窺うことができ、とても安心しました。もうひと組の御家族は盆踊りも後半にさしかかった頃、広場の隅の方にいらっしゃいました。3人のお子さんとお母さん、それから介護用電動車椅子にはお祖母ちゃんの姿がありました。お母さんのお話によるとこの春、2人のお子さんが小学校と中学校にそれぞれ入学したそうですが母親が要介護の状況の中、子供達の入学に際して充分な準備をしてあげられない事を心配していたそうです。ところがその心配を『新1年生応援プロジェクト』が解消してくれたというのです!今年の2月このプロジェクトはとにかく入学時に必要な品物を遠慮なく申し込んで頂き、その品物全てをご希望のお子さんたち全員にお贈りするという趣旨で行われました。お母さんいわく“本当に助かった”ということで要介護のお祖母ちゃんも一緒にわざわざ御礼を伝えに来て下さったのです。中学に入学した御嬢さんは今回お贈りした浴衣を着て来て下さいました。
ボランティアの精神を仏教の言葉で例えるならばそれはまさしく『布施行』にほかなりません。というよりはボランティア精神はこの『布施行』の精神から始まっているといっても過言ではありません。この仏教でいう『布施行』とは施すこと、つまり決して見返りを期待することなく自らが他の為に出来ることを勤めるという行為です。口で言うのは簡単ですが実際には大変難しい行為です。だから『行』の一つにも成り得るのです。私を含め支援隊のスタッフは皆、被災地の方々に対し、御礼の言葉も含めそうした事を期待することは一切ありません。しかしながらそこは人情とでもいいましょうか、このように御礼の気持ちをお伝え頂ける事は何よりの喜びであり、これからの励みになる事もまた事実です。現代は進化したコミュニケーションツールがあふれ、また多くの人がそうした道具に“伝える”という行為を委ねています。例えばメールは大量の文章を一瞬にして同時に世界中の相手に送る事も出来、とても便利な時代になりました。しかしながらコミュニケーションツールの根本は言葉であり、手紙であり、もっと言うと人の表情もとても大切なコミュニケーションツールなのです。文明が進歩する事だけではなかなか補えない“大切なもの”が言葉や手紙、表情には含まれているのです。ですから私達は必要に応じてこれらを上手に使い分ける必要があるわけです。ただしメールでは簡単に送ることが出来ても、言葉や手紙ではなかなか伝え辛いこともありますね。例えば“ありがとう”という感謝の気持ちです。でもよくよく考えてみますと、感謝の気持ちあればこそ、機会をつくり相手の方と直接顔を合わせて言葉を持って笑顔でその気持ちを伝えられたなら、こちらの気持ちが相手の方にしっかりと伝わる事は疑いありません。勇気がいる事かも知れません。手間のかかる事かも知れません。でも気持ちを伝えたいのなら最も気持ちの伝わる手段で相手に届けることが双方にとって幸せな事なのです。今回の支援の折、私の所に“ありがとう”の気持ちを伝えに来て下さった2組のご家族の皆さんによってこうした大切な事をあらためて認識させて頂くことが出来ました。この様に毎回被災地で教えられること、気付かせて頂くこと、学ばせて頂くことを大切にして、更には様々な機会をもってより多くの方々にお伝えしていく事も私達の大きな欲割の一つです。
こうして今回の支援活動は多くの支援者の方々のお力添えのおかげをもちまして沢山の笑顔と歓声の中、念願の盆踊り・夏祭りを実施することが出来ました。支援隊は午後9時盆踊り終了後、1時間ほどで全ての撤収作業を終え午後10時を少し回った頃、多くの方々のお見送りを頂きながら清水仮設を後にしました。その後、途中石巻市内の入浴施設で1日の汗を流した後、遅い夕食を摂り一路、東京を目指しました。支援車両が無事渋谷の東京布教所に到着した頃には日付も変わり夏の朝の陽射しも厳しい5日(日)の午前6時になっていました。かなりの強行スケジュールでの支援活動ではありましたが、スタッフは皆文句ひとつ言わず頑張って下さいました。支援に参加してくれた皆さん、本当にお疲れ様でした。

被災地へ 〜その〜
6月27日未明、私は宮城県女川町に支援物資をお届けする為に渋谷の東京布教所を出発しました。この日は大変天候に恵まれ、事故や交通渋滞もなく支援車両は順調に女川に向かって進んで行くことが出来ました。今年は6月21日が夏至だったこともあり、1年で一番日の長い時期ということで晴天も相まっていつにもまして夜明けが早く感じられました。夏至の日の東京の日の出時刻は4時25分でしたが実際には午前4時近くにはかなり明るくなってきます。真っ暗な高速道路を照明やライトを頼りに走るのと比べますと運転することへの負担も軽減されている様に感じます。
そんな中、毎回行っている放射能の数値を計測していくと新たな事実も見えてきました。毎回、福島県内の東北自動車道は、どの計測地点も線量計の示す数値は高くなります。過去、常に最も高い数値を記録するのは二本松インターチェンジ付近でした。ところが今回は前回まで警報ブザーのなるほど高い数値ではなかった安積パーキングエリアで今回の最高数値、そして今まで計測してきた全ての数値と比べてみても極めて高い放射能数値1.31μSv/hが計測されたのです。この事実は何を物っているのでしょうか・・・。6月30日、東京電力からある発表がなされました。6月23〜29日福島第一原発1号機の原子炉建屋地下の放射線量が毎時10.300Svという過去最高の数値が計測されたというのです。この数値は人がおよそ40分間被ばくするだけで死にいたるという危険な数値7.000Sv/hをはるかに超えた危機的な数値です。政府は昨年暮れに福島第一原発全てが安全冷却停止状態にいたったという声明を出しました。しかし、実際にはこうして作業員が近付く事すらできない状態が続いているのです。昨年3月、水素爆発によって原子炉建屋が吹き飛ばされた時程ではないにせよ、今はまだ福島第一原発の崩壊した原子炉は極めて危険な状態のまま野ざらしに放置されているのです。むき出しになってしまった4号機の燃料プールから燃料棒を取り出す作業も実際に行われるのは今年の夏ではなく来年の夏以降ということです。ということは原子炉全体がドームの様な施設で覆い包まれでもしない限り、福島第一原発からは絶えず空気中や海洋に放射性物質が放出されているということになります。今回安積パーキングエリアで高い放射能数値が計測されたのはこうした現実が影響しているのではないでしょうか。だとすると今、福島県内で懸命に行われている除染作業も元から断たない限り、努力が報われないという空しい結果になってしまうことはないのでしょうか。とにかく完全に廃炉作業が行われるまでは常に放射能の脅威がすぐそこにあるということを私達は高い意識をもって見守らなくてはいけません。
大きな被害を被った東北沿岸部の瓦礫処理の問題で、その放射性物質の有無という議論が瓦礫処理の効率を上げる障害となっている事は御存じのことと思います。そこで今回は最も瓦礫の量が多いといわれている宮城県石巻市の石巻港近くの瓦礫処理場に赴き、実際に現地で放射能数値を測定してみました。その結果は0.15μSv/hでした。この値は東京や神奈川県内で日常的に計測される数値と同等のものです。ということは少なくとも石巻の瓦礫はその処理段階において放射能の心配をする必要はないということになります。万が一、被ばくしているとしても、その被ばく量は関東エリアと同等、つまりは人の健康に影響するほどのものではないということです。東北地方だけでも実に2.000万トンという途方もない量の震災瓦礫が存在しています。そしてその膨大な瓦礫が集積されている場所も震災前は決して空き地だったわけではなく、れっきとした町の一部だったのです。ですから本当の意味での復興は瓦礫が無くなってからという地域も少なくありません。毎回申し上げていることですが仮に被災地だけでこのまま処理作業を行っていくとすると20年近くかかるであろうといわれている気の遠くなるような量の瓦礫が存在している以上、日本全体でその処理にあたることが被災地の復興の大きな後押しになる事は言うまでもありません。国民全員が理解を示し、国を挙げてこの作業に取り組むことを切に望みます。
時計の針が午前11時を少し過ぎた頃、ようやく女川港に到着しました。5月に来た時には港に建設中だった大型自動製氷の施設が完成していました。また、水揚げされた海産物の為の市場の施設も出来あがっています。更には遠くカタールから約20億円もの義援金によって今、水産品加工の為の施設が急ピッチで建設されていました。大震災前の元通りの形とはいかなくとも、こうして新たな港作りが進むことは大変結構なことだと思います。女川は漁師町です。その町の顔とも言うべき港が新しい表情を持ち始めました。こうした目に見える前進、復興への一歩一歩が被災地の方々を勇気づけるかけがえのないものとなることでしょう。

被災地へ 〜その〜

被災地へ 〜その〜


昨年のこの時期は高台の安全な地域に仮設住宅が建設されている最中で、津波や地震で住まいを失われた方のほとんどが各地域に設けられた避難所での生活を余儀なくされていました。私達の支援隊も毎回避難所で炊き出し等の支援活動を行っていました。あの頃からもう1年が過ぎたのかと思うとなにかとても感慨深いものがあります。また当時は津波によって破壊された水産加工場から町中に海産物が散乱してしまったことが原因で大量のハエが発生しました。場所によっては大量のハエがとまって壁全体が黒く見えるということも珍しくなかった程です。昨年程ではないにせよ、今年も例年に比べるとハエや蚊の量が多いということで、今回は清水市区仮設住宅、鷲神浜地区の皆さんに窓や玄関からの虫の侵入を布防ぐ虫よけ、ハエ取りリボン、清涼飲料水、肌への刺激のないオーガニック石鹸などを160セットお届けさせて頂きました。また、石鹸は第一保育所の子供たちにもお届けしました。仮設住宅等での生活に多少なりともお役に立てますなら幸いです。今回もこの支援物資調達等に対しまして多くの皆様から温かいご支援を賜り実現させることが出来ました。応援下さいました全ての皆様に心より御礼申し上げます。

被災地へ 〜その〜


物資をお届けすること以外にも今回はある目的をもって女川町を訪問しました。それは大震災前からここ女川で暮らし、そして震災後の今も女川で力強く日々を過ごされている方々の声を聞かせて頂くということです。そこで今回は女川の皆さんの今のお声をVTRに納めさせて頂きました。残念ながらこの宗信寺のホームページではその生のお声を動画でご覧頂くことは出来ませんが、昨年から継続的に女川や被災地の情報を放送して頂いているインターネットテレビ局、WorldNet.TVの番組、アジアンTVの7月14日夜(午後9時放送予定)生放送の回にてインタビューに答えて下さった方全員のお声を石巻や女川の瓦礫の現状と合わせてお伝えさせて頂く予定です。また、生放送以降でもオンデマンド放送でこの先約3ヵ月間はいつでも視聴することが出来ますので1人でも多くの方々に是非ご覧頂ければと思います。パソコンで「アジアンTV」と検索するとご覧頂くことが出来ます。今回は結果9人の方々から今の女川の様子、そして今、心にある思いなどをお話し頂くことが出来ました。女川町社協の方、保育所の先生、仮設住宅の住民の方、女川町職員の方、御花屋さん等々、その立場は様々ですが、全員の方々が大震災前から女川町で暮らし、震災を乗り越えて、そして今も女川の復興を願い目指して日々を過ごされている皆さんです。そうした皆さんがお話し下さった言葉には静かな中にも生きるという事の力強さ、そして多くの被災地の皆さんが抱えている共通の思い、この先に対しての不安など様々な心の色を見てとることが出来ました。そして幾つかの早急に対処すべき問題点も浮かび上がって来ました。以下、そうした中から幾つかお伝えしたいと思います。
幾多の困難、不自由を強いられた毎日の生活の中で、子供達の存在、そしてその笑顔は多くの方々の力、支えになっている事、被災を免れた地域の人々は被災地のことを忘れでいで欲しいという思い、是非被災地に足を運んで今の現状を見て欲しいという事、仮設住宅を出てからの転居先が一向に決まれないことへの不安、以前同居していた家族が離れ離れに暮らしているという現実、元々あった地域住民同士の繋がりの断絶、止まらない人口の流出、進まぬ雇用先の確保、働きたくとも働き先がないということへの苛立ち・・・。
被災地の方々はこうした様々な思いを胸に抱きながら今も懸命に日々を過ごしていらっしゃるのです。決して他人ごととして片付けてしまってはいけない事です。何故ならこの様な思いを軽減もしくは解決する事のお手伝いが私達にも出来るからです。出来ることがあるのなら、やらない理由があるでしょうか?宗信寺はこれからも被災地の支援を続けて行きます。今後も共感頂けます方々の心温まる応援、ご支援の程、どうぞ宜しくお願い申し上げます。

被災地へ 〜その〜被災地へ 〜その〜

被災地へ 〜その〜被災地へ 〜その〜


今回女川を訪問した折、清水地区の仮設住宅の役員さんから8月の地区の予定についてのお話をお聞かせ頂きました。昨年の今頃はほとんどの方が避難所暮らしで夏祭り、盆踊りどころではありませんでした。しかし、今年は仮設住宅でその時期を迎えられます。そこで昨年は出来なかった夏祭りや盆踊りを今年こそ行いたいとのことでした。そこで宗信寺支援隊はそのお手伝いをさせて頂くことといたしました。具体的には夏祭りには欠かせない屋台の提供、また参加賞や、景品などでお渡しできる様な品物の調達、更には子供から大人までの浴衣を集める事、そして同時に仮設住宅に暮らす小中学生への夏休み学習指導などを8月の支援活動として実施することといたしました。詳細は下記の通りです。

☆日 程
  平成24年8月4日(土)

☆場 所
  宮城県女川町清水地区仮設住宅

☆内 容
  夏祭り・盆踊りのお手伝い・屋台の管理運営など
  小中学生対象の学習指導(夏休みの宿題のお手伝い)

☆募 集
  浴衣一式・・・子供用から大人用、男女問わず
             ※綺麗に洗濯してあれば中古・古着でもかまいません。
  乾麺・缶詰め・米・調味料・ジュース類・お酒類・保存の出来る食品
             (未開封品)
  タオル・手ぬぐい・Tシャツ・帽子・団扇・夏掛け・洗剤等
             (未使用品)

◎直接お預かり(物資・義援金)

 宗信寺
 ※土日のみ受け付け
  住所 神奈川県平塚市南金目2336
  電話 0463-59-7235

◎宅配便にてお預かり(物資・義援金)

 宗信寺東京布教所
 ※8月の支援活動への物資受付終了は7月28日を予定しています。
  住所 〒151-0063 渋谷区富ヶ谷1-21-6
  電話 03-5790-2785

◎義援金による御支援の受け付け
 ※支援活動完全終了まで継続して随時受け付けています。

 ゆうちょ銀行
  記号10210 番号51350321
  宗教法人 宗信寺

 三菱東京UFJ銀行
  店番133表参道支店 普通0898031
  宗教法人 宗信寺 代表役員 岡 貞潤(おか ていじゅん)

以上、1人でも多くの皆様の御支援、御協力を心よりお願い申し上げます。
合掌

被災地へ 〜その〜
『扇風機プロジェクト』の実施

4月の被災地支援活動の折、仮設住宅にお住まいの皆さんをはじめとして、多くの被災地の方々がこの夏の暑さ対策において扇風機を必要としている現実を把握した我々宗信寺支援隊は、その御要望にお応えすべく被災地から戻るとすぐに次回の支援の準備に取り掛かりました。そして5月の支援活動を『扇風機プロジェクト』と銘打ちまして、ひろく支援者の方々にお声かけをさせて頂きました。その結果、被災地から申し込みのあった計152台の扇風機を希望者の方々全員にお届けすることが実現致しました。今回も本当に多くの皆様からの御支援、御協力を頂けたからこそ、この支援プロジェクトが実現できましたことは紛れもない事実です。全ての支援者の皆様に心より厚く御礼申し上げます。
今回の支援活動は先ず実際に被災地においてどれだけの皆さんが扇風機を必要としていらっしゃるかという実態を把握するところから始まりました。ただそうは申しましても現時点で女川町内の仮設住宅だけで大小30ヶ所もあることから、残念ながら全ての仮設住宅の皆さんにお声をかけることはできませんでした。しかし、毎月お伺いしている清水地区仮設住宅、そして鷲神浜上五区の皆さん、第一・第四保育所、女川復興支援センターの皆さんにはお声をかけさせて頂き、152台の申し込みを頂いた次第です。次に着手したのが扇風機の確保でした。実は昨年の5月にもタレントの三宅裕司さん御夫妻の御好意で当時は避難所として使用されていた第一保育所に15台の扇風機をお届けさせて頂きました。その時期、世間では今年以上に節電が叫ばれていました。その結果、例年よりはるかに扇風機が売れたようで、店頭からはどんどん品物が無くなっていったのです。まして今回はこの支援の実施を決定した段階で100台以上の申し込みがあることはある程度予想出来ていましたので、申込み頂いたにもかかわらず品物が手配できないという事態は是が非でも避けなければなりませんでした。そこでメーカーの方にも事情を御理解頂き、先ずは130台を購入し、追加分をあらためて購入するという方法でリモコン付きの2012年型のおそろいの扇風機152台を1台送料含め約5.000円で準備することが出来ました。また、いつもなら支援物資を車両に積み込んで被災地に向かうのですが、今回もその量がとても我々の支援車両に搭載できる量ではありませんでしたので、トラックをチャーターして支援実施の当日、女川町で合流するという手段をとりました。同様の方法は昨年の10月に実施致しました『こたつプロジェクト』の時にも用いたのですが、やはり出発前に品物を自身の目で確認できない分、万が一のことが心配されました。その結果、品物の数や輸送ルート、待ち合わせの場所や時間など、業者さんや運送屋さんとの綿密な事前打ち合わせは支援実施前夜、出発直前まで行われました。
我々支援隊本体は5月25日の夜、いつものように渋谷区にある宗信寺東京布教所に集合し、扇風機以外の支援物資を車両に積み込む等の準備を整えて午後11時、女川に向けて出発しました。今回は5名の皆さんが支援隊に参加して下さり、私を含めて計6名での出発となりました。毎月同じ様な時間帯に走行していると日が伸びたり縮んだりするのを実感します。今回は天候に恵まれたせいもあったのですが、宮城県内に車両がさしかかった午前4時過ぎにはすっかり夜が明けていました。この時間帯だと冬場は当然真っ暗でしたから東北道沿線の風景はほとんど見ることが出来ませんでした。しかしこの時期は夜明けが早いので冬場に見る事の出来なかった東北の様々な風景を見ることが出来ます。無論、見える範囲はほとんど車窓からに限られてしまいますが、それでも緑豊かなこの地方ののどかな雰囲気が伝わって来ます。昨年のこの時期に確認できたこの地域が受けた地震による建物等への被害もだいぶ修復が進んでいるようで、震災の傷跡は目を凝らしてもほとんど見つけることが出来ません。この地域に暮らす多くの皆さんのたゆまぬ復興への努力がまさに成果を上げているということを実感します。しかしだからこそ悔やまれてならない事があります。それは言うまでもなく福島第一原発の事故です。現在誰でも通行できる福島県内の東北自動車道ですが、毎回報告させて頂いている通り線量計の警報ブザーが鳴る程放射性物質の値が高い地域、もっと具体的に言うと年間被ばく量が10mmSvを優に超える地域が実在しているのです。そしてその東北道から見える沿線地域には大震災発生から今まで毎日生活をしている住民の方々が沢山いらっしゃるという現実があります。美しい緑、のどかな風景・・・。こうした目に見える風景が目には見えない放射能を浴びてしまっている地域があるということは、世界で唯一の被爆国である日本の国民として、更には今後同じ様な事故を起こしかねない原子力発電所等の施設を50ヶ所以上抱えている国に住む国民として私達は大震災の復旧、復興とは別にこの放射能の問題ともより真剣により具体的にそしてより行動的に向き合っていく必要があるのではないでしょうか。被ばくした自治体では徐々に避難住民を元の居住地域に戻す動きが活発になって来ました。避難生活を余儀なくされていたこうした地域の方々にとっては慣れ親しんだ故郷に戻れるわけですから、大変喜ばしい事だと思います。ただしそれは完全に大震災前、原発事故による放射能漏れ以前の日常生活に全く問題のない水準にまで放射能値が下がってからの話であって、今この時期に実行に移すべきことではないと私は思わずにはいられません。“もう安全ではあるが念のため”という理由で首から線量計をぶら下げて子供達は学校に通っています。この“念のため”とはどういうことでしょうか・・・。それは“本当はまだ安全ではないから”もしくは“本当は心配だから”というのと同じ意味に私には聞こえてなりません。世界中で安全と言われながら線量計を首からぶら下げて学校に通う子供たちが存在するのはおそらく日本だけでしょう。放射能の心配のない瓦礫でさえ放射能による危険性の風評被害を受けて受け入れを反対されるこの国で、放射能の心配がある、数値の高い地域に暮らす人たちが同様の風評被害にさらされないという保証がどこにあるというのでしょうか。こうした心ない被害を受けない為には“火のない所に事実をおかない”事が何よりも肝心です。“火のない所に煙はたたない”のですから、放射能数値の高い環境で暮らしたという事実を持たない、つまりは本当の安全が確認できるまでは心配のない地域で生活をする、危険な地域で暮らさないということが大切なのではないでしょうか。辛い選択かも知れません。苦労が伴う事かも知れません。ただ、本当にこの地域の方々を心配するのなら、ことにこれからの未来とこの地域の復興、再生を担っていくお子さんたちを思いやるならば、今は日本全体が力を結集して汚染された地域の人々の安全を第一に考え、実現させなくてはなりません。
6月16日、ついに野田政権は福井県大飯原発の再稼働を決定しました。現時点では事実上、日本に存在する全ての原子力発電所が停止していますが、大震災発生後これが初めての再稼働ということになります。確かに夏場の電力不足、大不況の最中での節電による産業界へのマイナス影響など、再稼働が現実的には必要悪的に避けられないという事実は理解できます。しかし、問題はその再稼働に至る理由です。会見で野田総理はこう明言しました。“東日本大震災と同程度の地震が発生しても、大飯原発の安全が確保できたから“と。この言葉を聞いて果たしてどれだけの国民が“良かった”と安心できたでしょうか。また言葉通りに信用できたでしょうか。防潮堤の工事も完了までには数年かかり、有事の時に最も大切な免震管理棟すら備えていない大飯原発。陸路での道路が海沿いの一経路しかなく非常用の電源も高台に設置された電源車に頼る大飯原発。極端な言い方をすれば大震災後、大規模な安全対策を未だ施されていない大飯原発が上記の様な理由で再稼働されてしまうのです。せめて“本当は不安もあるし、安全対策は未だ不十分ですが必要な安全対策を急ピッチで進めつつ夏場の電力不足の事態を避けるべく、また産業界へのマイナス影響を避けるべく、やむなく大飯原発を一時的に再稼働いたします”と素直に語って欲しかったと思うのは私だけではないと思います。私は一国民、そしてただの1人の僧侶に過ぎません。ですからこの国の国策や政策には何の影響力、発言力も持ちません。ただ、祖国日本を大切に思う心、愛する気持ちは立場が違っても差が生じるものではありません。本音で語り合い、本質的な判断と行動をとっていくことがこれからの日本の再生には絶対に必要なのです。少々、話は逸れますが、東京電力の電気代の値上げ申請に対して政府や多くの国会議員が“値上げの前にもっとやることがあるだろう”と声を大にして唱えています。ところがその政府与党は消費税の値上げを今国会内で可決させようと躍起になっています。そしてまたその政府与党には多くの与野党議員や国民から“値上げの前にもっとやることがあるだろう”と反対の意見が向けられています。原発再稼働問題もまたしかりです。“動かす前にまずやるべき事があるだろう”と国民の多くが感じているのです。人に言うことが出来るのに何で自分では出来ないのでしょうか、国民の声、こんな率直な声にどうして気がつかないのでしょうか・・・。こうした歯がゆい現状こそが今の日本を象徴するものであることは誠に残念な現実です。このような喜ばれざる現実からの脱却が本当の日本復興には欠く事の出来ないものなのだと思います。

被災地へ 〜その〜


早朝の仙台市内で朝食を済ませた支援隊は女川港に向かい、まだ車の往来が比較的少なく静かな港にて大震災でお亡くなりになられた方々の供養を全員で営みました。何度足を運んで何度供養を重ねてもこの時ばかりはあの悲劇がつい数日前の事のように感じられます。鎮魂を祈り、心を込めて皆で供養を営みました。供養を済ませた後、扇風機を運んで来てくれたトラックと待ち合わせ場所で合流し、車を連ねて先ずは清水地区仮設住宅に向かいました。

被災地へ 〜その〜


先ずはこちらの集会所に一旦全ての扇風機をトラックから降ろして希望者のお宅の部屋番号を箱に記入する作業に取り掛かりました。その作業が済むといよいよ各戸への配布作業です。扇風機自体は比較的軽いのですが、清水地区だけでも124世帯からの申し込みがあったので、届け間違いのない様気を付けながら一軒一軒手渡しで届けて行きました。そのおかげで久しぶりに沢山の住民の皆さんとお会いすることが出来ました。本格的な暑い季節の来る前のこの時期に扇風機がお届け出来た事は本当に良かったと思いました。それは住民の皆さんの受け取られる時の表情から感じることが出来ました。皆さん笑顔で対応してくださり、中には涙目で私の手を握り締めながら“ありがとう”とお礼の言葉をかけて下さる御高齢のおじいちゃん、おばあちゃんもいらっしゃいました。本当はこうした現地の皆さんのお声を私達よりもむしろいつも応援して下さる多くの支援者の皆様に直接お聞き頂きたいのですが、今はそれが叶わない事がとても残念でなりません。

被災地へ 〜その〜

被災地へ 〜その〜



清水仮設住宅での配布作業に目処がついたところで、私は支援車両に他地域にお届けする分の扇風機を積み込み目的地に向かいました。復興支援センター、第一保育所、そして鷲神浜上五区と申し込まれた数の扇風機を順番にお届けして行きました。復興支援センターや保育所の職員の皆さんもみな被災されており、住まいのみならず、様々な大切なものを失われた方も大勢いらっしゃいます。ですから、そうした方々にも出来るだけ我々の支援が届くように心がけていくことが大切だと思っています。

被災地へ 〜その〜


ところで、女川町やお隣の石巻市をはじめ今回の大震災による大津波の被害が甚大であった沿岸部では、瓦礫処理の問題が復興に水を差すかたちとなってしまっています。この現状に対し日本中の処理施設を持つ自治体が受け入れを検討するも、住民の反対を受けているのが実情です。反対の主たる根拠は放射能の心配です。確かに福島県内のひどく被ばくしてしまっている瓦礫についてはやむなく放射能値の高い福島県内に留めて処理をして行くことが懸命だと思います。ところが宮城県から北の地域では基本的に放射能の心配はないのです。昨年来、毎月女川に伺う度に各計測地点で放射能数値を測定してきましたが、宮城県内で線量計が危険な数値を示した事は一度もありません。今回、女川町内の瓦礫処理上に足を運び、端から端まで放射能数値を測定しましたがその値は東京や神奈川などと全く変わらないものでした。もしこの膨大な瓦礫を女川町や石巻市だけで処理をするとなるとその時間は20年ともそれ以上とも言われています。かたや、サイパン島のあるマリアナ政府からはサイパン島の北約320kmの位置にある火山島であり無人島のバガン島に石巻市の瓦礫およそ1000万トンを受け入れる意思のあることが表明されました。これは日本の民間企業の働きかけによるもので、噴火によって全島避難命令が下り、無人島となったバガン島に眠る膨大な地下資源を採掘して被災地の復興に使い、空いた穴を瓦礫で埋めるというプランです。世界的不況の影響を大きく受けて観光収入が激減してしまったマリアナ政府にとってはまさに起死回生の一手なのでしょう。また、復興に欠かせない資源も調達出来るということならばあながち悪い話ではないのかも知れません。しかし、諸外国に頼る前に先ず日本国内で全力を挙げて瓦礫処理問題に取り組むことが先決ではないかと思います。
今回、女川町に伺って嬉しいニュースもありました。それは『希望の鐘』商店街の営業が始められたことです。以前町内にあった店舗や交番、郵便局、銀行などが女川高校のグランドに再開され約50店舗が軒を連ねています。その中には清水地区仮設住宅にお住まいの方の生花店や、妙照寺の御檀家の方の八百屋さんもあります。震災前から人気のあった懐かしい味を提供してくれる食べ物屋さんも営業しています。“店舗の広さは以前の半分にも満たないけど、仮設でする事もなくただぼーっとしているのに比べればずっといいよ!”とあるお店の方が話してくれました。やること、取り組むことがあるというのは本当に大切なんだということをあらためて実感しました。みんなイキイキして見えました。そして何よりも人の生きるということへの底力を見せて頂いた気がしました。商店街を訪れた我々支援隊のスタッフ全員が疲れも忘れて元気を頂いたのは言うまでもありません。取り組むことが見つかれば明日が具体的になります。するとその先の予定もたち目標を持つことが出来るのです。そしてそこに“やる気”が生じます。前向きな活力が湧いてくるのです。大きな被害を被り、明日が見えなくなってしまった毎日からの脱却が被災地の方々にとっては急務なのです。雇用を増やし、人と人との接点を増していくことが大切です。女川の今は、まさに少しずつではありますがそうした動きが始まっています。

被災地へ 〜その〜

被災地へ 〜その〜



女川町を後にした支援隊は石巻市立大川小学校跡地に向かいました。今回参加してくれたスタッフの皆さんの希望もあり、皆で供養の為に向かいました。日差しが少し西に傾き始めた頃、校舎の前に設けてある祭壇にて亡くなられた多くの児童、教職員、地元の方々の御冥福をお祈りしました。
スタッフの目からは自然と涙が流れていました。校庭に隣接した山の斜面には“津波到達地点”が記されています(下の写真中央の白いプレート)。その位置は2階建ての校舎を軽く飲み込む程の高い位置です。大津波が北上川を溯り、この地域を襲ったその時の様子は我々には想像すらできません。ただ、今の私達に出来ることは未だに発見されていないお子さんを含め、ここで亡くなられた方々のために静かに手を合わせることだけです。

被災地へ 〜その〜

被災地へ 〜その〜



最近、ニュース等の報道における被災地の話題が以前にもまして減少してきています。テレビや新聞をにぎわしているのはもっぱら与野党の政局の話題や、原発再稼働、オウム真理教関連のものが大半です。被災地がもう心配のないレベルにまで順調に復興してきているのであればそれで良しとすべきなのでしょうが、現実的には解決したくてもままならない問題が山積されています。宗信寺支援隊はそうしたなかなか届き辛い被災地の様子をこれからも支援活動を通じて多くの方々にお伝えしていきます。これからも皆様の御協力を心からお願い申し上げます。

☆お知らせ☆

この夏、女川町で被災地の皆さんと共に行う復興支援イベントをただいま企画中です。このイベント開催に際し、皆様からの物資等の御提供をお願い申し上げます。今回対象となりますのは以下の品物です。
缶詰・調味料・お酒類・乾麺・保存のきく食品(未開封品)
タオル・手ぬぐい・Tシャツ・夏掛けなど・洗剤・殺虫剤・虫とりリボン・虫よけ等(未使用品)

◎直接お預かり

 宗信寺
 ※土日のみ受け付け
  住所 神奈川県平塚市南金目2336
  電話 0463-59-7235


◎宅配便にてお預かり

 宗信寺東京布教所
 ※7月20日を受付け終了の目安とさせて頂きます
  住所 〒151-0063 渋谷区富ヶ谷1-21-6
  電話 03-5790-2785


◎義援金による御支援の受け付け

 ゆうちょ銀行
 記号10210 番号51350321
 宗教法人 宗信寺

 三菱東京UFJ銀行
 店番133表参道支店 普通0898031
 宗教法人 宗信寺 代表役員 岡 貞潤(おか ていじゅん)



また毎月行われている宗信寺支援隊の活動の様子はインターネットテレビの番組内で放映されています。基本的に3カ月前の放送まで見ることが出来ます。またオンデマンド放送なのでいつでもご覧いただけます。お時間のある方はどうぞ下記を検索してご覧下さい。

WorldNet.TV アジアンTV
http://worldnet.tv/talk/asiantv/



『扇風機プロジェクト』ご支援のお願い
5月は被災地女川町に扇風機をお届けする『扇風機プロジェクト』を実施します。被災地では多くの方々が収入の激減などの事情で電気代なども大きな負担となっています。小電力で今後、仮設住宅から転居される時も持ち運びの出来る扇風機を暑さが本番を迎える前のこの時期にお届けする予定です。扇風機本体と運送料併せて約5.000円で1台ご用意できます。5月9日時点では約150台の被災地からの御申し込みを頂いておりますが、肝心の義援金がまだまだ不足しています。1人でも多くの方々のご支援の参加をここに心よりお願い申し上げます。なお、今回のご支援方法は義援金によるご参加をお願い致しております。お振込先、お問い合わせ先等は下記の通りです。

銀行振込

 ゆうちょ銀行
 記号10210 番号51350321
 宗教法人 宗信寺

 三菱東京UFJ銀行
 店番133表参道支店 普通0898031
 宗教法人 宗信寺 代表役員 岡 貞潤

現金書留

 〒259-1201
 平塚市南金目2336
 宗信寺 宛
 電話:0463-59-7235

 〒151-0063
 渋谷区富ヶ谷1-21-6
 宗信寺東京布教所 宛
 電話:03-5790-2785


立教開宗
4月28日は『立教開宗・りっきょうかしゅう』の日です。つまり開祖日蓮大聖人が日蓮宗を開かれた日です。建長5(1253)年4月28日安房国清澄寺において日蓮大聖人は初めてお題目『南無妙法蓮華経』を唱えられました。この時が今の日蓮宗の始まりとされています。
ところで日蓮聖大聖人は最初、天台宗の僧侶として出家し、修行を重ね32歳の時に日蓮宗を開くわけですが、そこにはいかなる理由があったのでしょうか?私はその最大の理由は“祖国の為”ではなかったかと感じています。愛する日本の為、故郷の為、民衆の為・・・。そうした思いが日蓮大聖人を突き動かしたのではなかったかと考えているのです。その最大の理由は当時の時代背景にあります。鎌倉時代の当時は飢饉、疫病は絶えることなく、大火、暴風、大地震などはしきりでまさに世も末、末法の世でした。こうした数々の災難興起の由来と対処法を法華経に見出して世直しを実現すべく立ち上がったのが日蓮大聖人だったのです。
私は時折、“日蓮大聖人が今の日本をもしご覧になったら何を思われ、どんな行動をされるだろう?”ということを考えます。無論私にはその万に1つも実行できない事はいうに及びませんが日蓮大聖人のお考えの中に自らを置き、その行動を見極めて勤めていきたいと思っています。

被災地へ 〜その〜
4月19日の未明160世帯分の調味料や日常品を積み込んで女川町に向かって出発しました。今回の女川行きも1月同様、私1人で行って来ました。車両のルーフキャリアと室内を助手席まで使えば何とか支援物資が1台で納めることができたからというのが一番の理由ですが、高速料金やガソリン代を節約するという事もその大きな理由でした。実は東日本大震災発生直後の昨年3月から本年の3月までは所定の手続き、申請をする事によって往復の高速料金は免除されていました。しかしこの4月からは支援活動が目的であっても、またボランティア団体であっても、支援物資を届けるためであっても、瓦礫運搬が目的以外はすべて一般車両と同じ料金が課せられる事になったのです。ですから貴重な義援金を少しでも多く被災地の方々の為に使用できるように車両を何とか1台にして出発した次第です。
今回の目的は女川港での供養、清水地区仮設住宅の皆さんと鷲神浜上五区で半倒壊した御自宅等で暮らしている皆さんに支援物資をお届けする事、女川町復興支援センターにて女川町内の仮設住宅の現状を教えて頂くこと、それから復旧・復興作業のその後の進展具合を視察すること、また放射線量の測定等でした。そして以前よりずっと伺いたかった石巻市立大川小学校での供養もその大きな目的でした。
いつものように女川町に到着してすぐ女川港にてお亡くなりになられた方々の慰霊供養を営みました。何度足を運び何度供養を重ねてもその都度、目の前に広がる穏やかの海のかなたから恐ろしい大津波が押し寄せて全てを飲み込んだという現実はなかなか理解できるものではありません。しかし起きてしまった以上、今はただただ亡き方々への祈りを捧げるばかりです。
供養を済ませた後、今度は復興支援センターにお邪魔しました。同センターは先月まで町民多目的運動場の敷地内にコンテナハウスで設けられていましたが、今月からは町の中心地から少し離れた高台の旧子育て支援センターの建物に移動されていました。今回、こちらではスタッフの方から女川町内の仮設住宅の現状等の貴重なお話をお聞かせ頂くことができました。

被災地へ 〜その〜


4月18日時点で、町内には30か所の仮設住宅地があり、総建設戸数は1.285軒、総入居世帯数は1.205世帯、総入居者数は3.158人ということでした。この数は女川町全体の現時点での人口の約半数の方々が仮設住宅での生活を余儀なくされているという信じがたい現実を示すものであり、愕然とする思いでした。また217世帯、509人を要する大型仮設住宅地もあれば2世帯、4人で暮らす仮設住宅地もあり、道路事情や病院・学校・商店等までの距離的問題などその立地条件等も合わせて日常生活の御苦労がしのばれます。
そんな中、少しだけ嬉しいニュースもありました。今年の1月に女川町で実施させていただいた仮設住宅での生活に関するアンケート調査で早急に解決すべき問題点として沢山の方々から要望が寄せられていた“追い炊き機能がない給湯器”については本年中をめどに全て追い炊き機能付き給湯器に交換されることになりました。またもうひとつ“収納スペースがない”という問題点も今後改善していくという方針が決まったそうです。ただでさえ幾多の苦労を強いられる仮設住宅での日常生活ですから、これからもできるところは少しずつでも改善されていくことを切に願います。
今、震災前は町の中心部であった地域は大きく地盤が沈下してしまったため、地域全体をかさ上げする為に大地震や大津波にも負けずに残った鉄筋コンクリートの建物も全て取り壊す作業が続いています。私が伺った時はすでに旧女川駅は撤去されていました。そして旧マリンパルの建物がまさに大型重機によって粉砕されている真っ最中でした。復興の為とは申せ、残った建物が人の手によって壊されていく姿は何か複雑な思いがこみ上げてくるのを感じずにはいられませんでした。
女川港には震災前は大型の水産加工設備が整っていたそうです。現時点ではそうした設備がことごとく破壊されてしまっているので、海産物の水揚げが出来ず、結果的に地元での雇用を復活できない大きな原因の一つになっています。そんな中6.000t級の冷凍設備を新たに作る具体的な計画もできつつあるそうです。やはり女川町は太平洋側の東北地方有数の港町ですから、港に活気が取り戻せるか否かは今後の町の真の復興には欠く事の出来ない必須条件なのです。
ところで被災地以外に日常暮らす私達は時折ニュースで被災地の瓦礫処理問題について見聞きしています。東京都は昨年の11月の段階で女川町の瓦礫処理の引き受けを真っ先に表明し、既にその作業は行われています。横浜市や島田市等も受け入れを表明していますが、全国的にみると各自治体は押し並べて瓦礫の受け入れには消極的といった印象です。瓦礫を表現する時、よく用いられるのは“○○万トン”とか“○○年分”といった表現です。ただこうした単位では正直なところ素人の我々には果たしてその量がどれくらいのものなのか皆目見当がつかないというのが正直なところではないでしょうか。そこで今回は女川町内の瓦礫が集められた地域に赴き、大型重機の二倍程はあろうかという高さまでうずたかく積み上げられた瓦礫がどれくらいの長さに及んでいるのかを実際にその沿道を車で走行して距離を測ってみました。すると結果は約1kmにも及んだのです。無論、昨年から懸命な処理活動が継続して行われていますので今現在のその量はピーク時と比較すれば明らかに減っているわけですが、言い様によっては1年以上経っているのに未だに気の遠くなるような量の瓦礫がそのままになっているということです。更に忘れてはいけないのは今瓦礫が積み上げられている地域も震災前は家や商店が立ち並ぶ生活の場であったということです。ですからこの瓦礫処理が全て済まない限りはこの地域の復旧・復興は叶わないという事にもなるのです。
日本には“困った時はお互い様”という大変素晴らしい文化があります。無論、瓦礫を焼却処理した時に出る灰の放射性物質の問題に対する懸念も分からなくはないのですが、全ての瓦礫が危険なわけではない筈です。御承知の方もいらっしゃることと存じますが、1950年代以降、世界中で核実験が頻繁に行われ、その結果地球上のあらゆる地域で放射性物質が自然界で計測される量をはるかに超えていた時代がありました。あのチェルノブイリの原子炉爆発事故の後も日本国内の放射能計測数値は非常に高くなりました。だからといって危険を承知で瓦礫処理をみんなですべきというのではありません。瓦礫の中でも放射能の心配のない地域の瓦礫は全国で助け合って処理をすべきではないかと思うのです。
復興支援センターを後にして今度は清水地区仮設住宅に伺いました。こちらでは集会場で自治会長の高橋さん、梁取先生などおなじみの皆さんがお待ち下さっていました。そして皆さんにお手伝いを頂きながら醤油・砂糖・みりん・ティッシュペーパーなど持参した物資を車から集会場に運び入れました。
この日の午後にはこの集会場で手芸教室が開かれました。参加された皆さんは思い思いにコースターやランチョンマット、ティッシュケースなどを作られていました。どれもなかなかの力作でした。2月にお届けしたミシンやアイロンなどがここでは使われていました。支援して下さった皆様の心が形となり、こうして活躍している様子を拝見出来、なんだかとても嬉しい気持ちになりました。
そして何よりも手芸教室に参加されている皆さんがとても良い笑顔をされていたのが私にとっては何よりの御褒美でした。

被災地へ 〜その〜


昼食を御馳走になった後、梁取先生の前に第一保育所の所長をお勤めされていた遠藤先生の住む鷲神浜上五区に伺いました。この一帯は3軒の仮設住宅と1階まで津波に襲われながらも何とか家屋全体の流失を免れた住居が点在する地域です。遠藤先生の仮設住宅に到着すると既に区長さんや近隣の皆さんがお待ちになられていました。挨拶もそこそこに先ずは清水地区同様、持参した支援物資を地域の皆さんにお受け取り頂きました。その後、遠藤先生宅にお邪魔してお茶を御馳走になりました。その時、同席して下さった地区の皆さんから大震災当日のお話をお聞かせ頂きました。その言葉の端々からは想像を絶する緊張感と絶望感、そして強い生命力など人の心の様々な一面を垣間見ることとなりました。

被災地へ 〜その〜


ここで今回行った放射能の計測結果をご報告させて頂きます。詳細は下記の通りです。
計測場所数値(μSv/h)時間(午前)風向き気温
渋谷区富ヶ谷0.183時10分東南東14.5度
蓮田SA0.163時50分南 東12.0度
佐野SA0.164時18分南南西12.0度
上河内SA0.105時00分北 東10.0度
那須高原SA0.345時40分北 東8.5度
鏡石PA0.356時08分南 東9.5度
安達太良SA0.416時30分10.5度
二本松IC1.746時40分11.0度
福島松川IC1.076時47分10.0度
国見SA0.807時15分北北東10.5度
宮城野区0.148時25分13.0度
女川港0.1216時17分南 東12.0度
女川町清水地区0.1716時30分南南東12.0度

赤字で計測数値が示してある地点は線量計の警告ブザーが鳴った地域です。その中でも二本松ICはこの1年間で最も高い数値が計測されました。毎回高い数値が記録される地点ではありますが今回は過去に例がない程の数値となりました。この結果は計測環境の違いによる所も少なからずあるのは事実です。今までは車中・アスファルト上・雪上等から計測しました。しかし今回は路肩の土の上で計測を行いこの結果が得られたわけです。この数値から1年間の被ばく量を計算してみると 1.74×24×365÷1.000=15.2424 となり15mmSv/年を超える極めて高い放射線量を被曝することになります。計測状況から考えてみてもむしろ今までが実数値より少ない数値であったと捉えるべきであり、またその他の計測地点の数値自体は過去の計測結果と大きく変わらないということからしても線量計の不調などという理由も考え辛いといえます。現在、放射能の影響を大きく受けた地域では懸命な除染活動が行われています。そんな中、26年前に原子炉の爆発事故を起こしたチェルノブイリでは爆心地から半径30km全域と300kmも離れているにも関わらず高汚染地域に指定された場所への永久立ち入り禁止が定められています。この政策の結果、およそ500もの町や村が消え、約40万人もの人々が故郷を失ったそうです。この事実は確かに悲惨極まりない事は言うまでもありませんが、今、私達日本人が注目すべきは事故発生から20年経過した時点でウクライナ政府は何故こうした政策を決定したのかということです。この事故の直後から汚染された地域に住む人々は放射能が原因とみられる疾患に苦しめられてきました。特に子供の甲状腺がんに至っては自然発病数の実に5.000倍の発症率になったという信じがたいケースも報告されています。“元を断つ”、すなわち除染によって以前と変わらぬ数値にまで放射性物質を除去できるのなら結構なのですが、首から線量計を下げて学校に通う子供達の姿は私には不自然に見えてなりません。世界中どこに行っても絶対安全ということはなかなか謳えない時代かも知れません。しかし、“ここなら線量計を首から下げなくても学校に通って屋外で思いっきり遊べる”地域は日本にも沢山あるのではないでしょうか。過去の事例に学ぶことはあっても、過去の二の轍を踏むことは断じてあってはなりません。
女川町での予定していた全ての支援活動を終えた後、車は更に北に向けて走り出しました。それは今回の東日本大震災で大きな被害を受けた被災地の中で最も大きな人的被害のあった石巻市立大川小学校に行く為でした。女川町から車で北上すること約40分、北上川からほどない距離にその校舎は佇んでいました。周辺はすっかり瓦礫が取り除かれ整地されており、広大な更地に校舎だけがぽつんと取り残されている状況です。御承知の通り、大川小学校には隣接する北上川を溯って来た大津波が襲いかかりました。そして全校児童108人の内、何と74人もの子供達がその尊い命を奪われてしまいました。また同時に引率していた先生方10人も帰らぬ人となりました。急なこう配の裏山に避難するか、緩やかな道を移動できる校舎より約7m海抜の高い地点に避難するか?この判断が結果的には大きく明暗を分けることとなってしまいました。この大川小学校のある位置は沿岸部から約3km内陸に位置することから“津波は来ない”とされていた地域です。事実、震災直後には近所の方々も学校に続々と避難して来たそうです。今となっては取り返しがつきませんが、臨機応変の判断がもしされていたならと悔やまれてなりません。

被災地へ 〜その〜


学校の玄関近くには亡くなられたお子さんたちの御父兄の手による慰霊の為の祭壇が設けられていました。時節柄校舎には大きな鯉のぼりも供えられ、風に悠々となびいていました。私には昨年の震災直後から早くこの地に伺いたいという思いがありました。その思いがようやく果たされたという気持ちの中、沈みゆく夕日を浴びながら亡くなられた方々の御供養をお勤めさせて頂きました。

被災地へ 〜その〜


毎回被災地に伺う度に色々な事を学ばせて頂いております。今回は女川の地域に昔から伝わる伝統的な価値観を教えて頂きました。それは『結・ゆい』という言葉で表現された人と人との関わり方です。例えば知り合いの方からお魚を頂いたとします。すると今度はこちらから相手の方に収穫した沢山のお野菜をお届けする、また人の手が必要な時に力を貸してくれた方に今度はその方が人の手が必要な時には家族みんなでお手伝いをする、頂いた御恩に対して充分にお返しをする、そんな人と人との関わり合いを『結』というそうです。人の御恩を決して忘れることなく、いつか機会あれば恩返しをするということを重んじたとても大切な価値観であると感じました。多くの人が人に対する恩をしっかりと認識できたなら今の社会はもっと住みやすくなる筈です。恩を恩と思わない人が増えてしまうと世の中は荒んでいってしまいます。親が子を殺め、子が親を殺める・・・。自分の私利私欲にかられて人の迷惑や家族の心配も考えずに犯行に手を染める・・・。人の恩を忘れてしまうと由々しき事象もますます増えていくことになるのです。また恩返しをきちんとする為には先ず自身がしっかりすることが先決です。しっかりとした自身が維持できてこそ、恩返しや人の為に役立てるのではないでしょうか。この女川地方に昔から伝わる『結』という言葉はそうした深い所までを私達に教えてくれているのではないかと思います。『結』・・・。是非これから心掛けていきたい教えですね。

釈尊降誕会
4月8日はお釈迦様のお誕生日です。この日は宗派を問わず全国の多くの寺院で『花まつり』が催されます。花まつりは正式には「灌佛会・かんぶつえ」といい、御釈迦様の誕生をお祝いする日です。一般的には花御堂にお釈迦様がお生まれになった時のお姿の仏像を安置し、甘茶をその像にお掛けします。因みにこの甘茶はお釈迦様の生誕を喜び九匹の龍が現れて天から甘露の雨を降らせたことに由来します。甘茶はアジサイ科ヤマアジサイの変種「小甘茶」から作ります。そして以外にも例えば醤油や歯磨き粉の風味付けにこの甘茶が用いられる事もあるのです。さらには糖尿病の方の為の甘味料としも使用されています。
ところで前述の御釈迦様の仏像は特別なお姿をしています。まず立像であること、そして右手で天を左手で地をさしているのです。一般的な仏像とは明らかに違ったお姿です。実はこのお姿はお釈迦様がお生まれになった直後のお姿なのです。お釈迦様はお生まれになられてすぐに四方に7歩歩いて天地を指で指示し『天上天下唯我独尊』と言葉を発せられたと言い伝えられています。この言葉をそのまま訳すと「我こそがただ一人この宇宙で最も尊い存在である!」ということになります。
お釈迦様であればこそ、そうしたお言葉もうなずける所ではありますが、聞きようによっては少々自信過剰な印象を持たれる方もいるかも知れません。でもこの言葉の本当の意味はその様なものではないのです。では本当はどのような意味なのでしょうか?「この世ではみんなそれぞれにかけがえのない尊い存在であり、それぞれの命もまた尊い存在であり、よって人は皆それぞれが果たすべき尊い使命を持っている」ということがこの言葉の真意であり、御釈迦様の心なのです。自分の存在はこの世でただ一人です。自身全ての代役は存在しません。唯一無二の自己の存在を理解してしっかりと生きることの大切さをお釈迦様はこのお言葉で私達に示して下さっているのです。

『扇風機プロジェクト』実施の御案内
宗信寺支援隊は今まで多くの方々の応援と御協力を元に様々な被災地支援活動を行って参りました。そして本年5月新たに『扇風機プロジェクト』を実施することといたしました。今年の1月に行われました仮設住宅におけるアンケート調査で被災地の皆さんが高額の光熱費負担に苦しんでいる実態が明らかになりました。現在仮設住宅には冷房設備としてエアコンが各戸に備えられていますが、これから迎える夏場の時期、更なる光熱費の増額負担が懸念されるところです。そこで宗信寺としましてはこの現実的問題に対処すべくエアコンに比べて電気消費量の少ない扇風機をご希望の仮設住宅に支給することといたしました。実際の支援対象地域、及び調達する扇風機の個数等は4月の支援で女川町に伺った折に現地の方々の御希望をお聞かせ頂き最終的に決定していく予定ですが、昨秋実施されました『こたつプロジェクト』を参考にしてみましても100個単位の支給となる見込みです。今回もより多くの皆様の御協力を心よりお願い申し上げます。なお義援金は現金書留、御振り込み若しくは直接お預かり等の手段で受け付けております。皆様のお力添えの程どうぞ宜しくお願い致します。それぞれの詳細は下記の通りです。

☆現金書留・直接お預かり

 〒259-1201
 平塚市南金目2336
 宗信寺 宛
 電話:0463-59-7235

 〒151-0063
 渋谷区富ヶ谷1-21-6
 宗信寺東京布教所 宛
 電話:03-5790-2785

☆お振り込み

 ゆうちょ銀行
 記号10210 番号51350321
 宗教法人 宗信寺

 三菱東京UFJ銀行
 店番133表参道支店 普通0898031
 宗教法人 宗信寺 代表役員 岡 貞潤


インターネットテレビ番組出演
3月28日かねてより出演依頼を受けていましたインターネット番組の生放送に出演してきました。番組のタイトルは『日本の絆』というもので、大震災に関わる方々がゲストとして招かれ、其々の取り組みや今後について座談会形式で語り合うという内容の番組でした。私以外のゲストは音楽を通じて被災地支援を続けているシンガーソングライターの堀江淳さん、そしていわき市議会議員で東日本大震災復興特別委員長の木田たかしさんでした。立場の違う3人がそれぞれの大震災と向き合った1年という時間を振り返ると同時に今後を語ったその内容はとても充実したものとなり、当初予定されていた60分の放送時間は90分まで延長されて放送されました。番組の中では2月に行われた『新1年生応援プロジェクト』の様子もVTRで紹介されました。また番組放送中は多くの視聴者の方々からTwitterやFacebookで沢山のメッセージが寄せられました。通常生放送番組中にこうした形で視聴者からの意見やメッセージを募ると番組と直接関係ない内容のものや冷やかし的な内容のものも多く寄せられてしまうそうですが、今回に限ってはそうした内容の投稿はほとんどなく、どれもとても誠実な書き込みだったそうで、その点は番組スタッフの皆さんが驚いていました。これは多くの方々が東日本大震災と日本の今後について真剣に関心を持っている一つの表れであるといえるのではないでしょうか。今暫くはいかなる形であっても1人でも多くの人が被災地を気遣い関心を持ち気にかけていくことが被災地の望むことでもあり、また私達が心掛けるべき事でもあるのです。因みに今回の番組はしばらくの間、オンデマンド放送によってお手持ちのパソコンでご覧になることができます。お時間のある方は是非ご覧ください。配信サイトは下記の通りです。

インターネット放送局
WorldNet.TV
http://worldnet.tv

番組タイトル『日本の絆』

春季彼岸会
3月17日から23日までの1週間、今年も春の御彼岸を迎えました。昔から“暑さ寒さも彼岸まで”と申しますが、今年は本当に寒さの厳しい冬でした。関東でも例年より積雪の回数は多かったのではないかと思います。宗信寺界隈の梅の花はいつもの年ですとだいたい1月の下旬頃から咲き始め、節分の頃には見ごろとなるのですが、今年はその開花が大幅に遅れこの春の彼岸を迎えようやく満開となりましたのも今年の冬の寒さを物語っているといえるでしょう。今年は例年よりも幾分肌寒いお彼岸となりましたが、それでも本当に多くの方々が御先祖様の御墓参りにお越しになられました。具えられたお花で墓地がいつも以上に明るくなるのもお彼岸ならではの光景です。その眺めはなんだか御先祖様が喜んでいらっしゃるように見えるのは私だけではないと思います。ところで昨年の春の御彼岸は大震災発生直後で大きな余震の続くそんな中で迎えました。お彼岸中の22日に被災地に向かう為、御彼岸の入りの日から本堂には皆様から寄せられた沢山の支援物資が集められていました。また水や携帯食料はそのほとんどが売り切れ、ガソリンも満足に給油できず、計画停電等も頻繁に行われていました。当時を振り返ると底知れぬ不安と緊張感を多くの方々が抱いていたのではないかと思います。幸い今年の御彼岸はいつも通りの穏やかな雰囲気の中で迎えることができました。“当たりまえ”ということが実はとても幸せでありがたい事なんだとあらためて実感させられる、そんなお彼岸でもありました。

3月11日を迎えて
あの忌まわしい東日本大震災が発生し、およそ2万人の方々の尊い命と無数の家畜の命、数え切れないほどの様々な大切なものを奪い取られてから1年という月日が経過した3月11日、日本中、いや世界中で様々な鎮魂の儀式が営まれました。宗信寺でもこの1年間宗信寺支援隊の活動を継続して応援協力して下さった皆様と共に『東日本大震災物故者慰霊・復興祈願法要』が本堂において営まれました。当日は大震災発生時刻の午後2時46分、参加者全員による黙祷に始まり、水行、慰霊・復興祈願法要と続けて営まれました。実は少し前までは“一周忌法要は被災地で”と考えていました。しかしながら年が明け、徐々に被災地の方々の御心情を知るにつれ、慰霊の為とはいえ被災地の皆さんにとって特別な日である3月11日に大きな被害のなかった我々が、ましてこの1年の間、被災地で苦労困難を経験していない我々がのこのこしゃしゃり出ていくことは被災者の方々に対して失礼になるのではないかという思いがだんだん確信に変わって行きました。本当に亡き方を弔う気持ちがあれば場所は問われるものではない、そして同じ立場でこの1年間被災地に向き合った多くの支援者の皆さんと共に法要を営みたいという思いもあり、宗信寺で法要を営むこととした次第です。当日は遠近各地より50名ほどの方々の御参詣を頂き、共に法要を営むことができました。ご多忙の中、御参詣下さいました皆様に心より厚くお礼申し上げます。

3月11日を迎えて

3月11日を迎えて


また、当日の夜には昨年の8月の支援活動の折、宗信寺支援隊に同行し女川で2度のライブを行ってくれたアーティストの友香さんと中島満雄さんも出演する被災地復興チャリティーライブが予定されていたのですが、そのリハーサル会場と宗信寺をインターネットで中継し、本堂にスクリーンを設営してライブ会場から歌を届けて頂きました。場所や形は違ってもいろんなところでいろんな人たちが被災地を思うという共通の意識を持って過ごす、そんな不思議な一体感のあるひと時を味わうことができました。

3月11日を迎えて


この日、宗信寺での法要に先駆けて午後1時から神奈川県第三部宗務所主催の東日本大震災物故者慰霊法要が金子宗務所長御住職の南足柄市の弘行寺で行われました。当日は管内寺院から沢山の檀信徒の方々がお集まりになり、おごそかに法要が営まれました。また近くのスペースを使ってチャリティーバザーも開催され、多くの皆様で賑わったそうです。私はこの法要に先駆けてお集まりになられた皆様に対し法話をさせて頂きました。およそ40分ほどの限られた時間ではありましたが、この1年間で私が被災地で見てきた事、感じてきたありのままをお伝えさせて頂きました。

3月11日を迎えて


また宗信寺での法要が万端終了した後は、前述の被災地復興チャリティーライブ出演の為、会場のある杉並区高円寺のライブハウスに支援隊スタッフと共に向かいました。このライブには約25組のアーティストの方々が出演されていましたが、この方々からも2月に行われた「新一年生応援プロジェクト」への御協力を頂いたのをはじめ、当日も募金箱やチケット収益の一部を今後の宗信寺支援隊の活動応援の為に義援金としてお寄せ頂くことになりました。このチャリティーライブに携われました全ての皆様、そして当日ライブ会場にて募金に協力してくださいました全ての皆様にこの場をお借りして心よりお礼申し上げます。被災地を思う皆様のその心をしっかりと現地に届けさせて頂きます。

3月11日を迎えて


全国行脚
今年も2月29日から3月16日までの平日を使って北は北海道、南は福岡までの各都市部にある専門学校の御祈祷に行って参りました。昨年はこの全国行脚の最中に東日本大震災が発生しました。それからもう一年が経ったと思うと何とも言えぬ思いです。今年新たに札幌校が開校するということで今年は最北の北海道から全国行脚が始まりました。各校舎の安全と各校の繁栄、学生さんや教職員の皆さんの心願成就を祈願する為に一校ごとに御祈祷するわけですが、例年にも増して各校の皆さんの真摯な姿勢がとても印象に残りました。今年は御祈祷の後、教職員の皆さんに九星学を用いた個々皆さんの今年の過ごし方、注意点などをお話しさせて頂いたのですが、必要事項をしっかりとノートに書き留める方がとても多かったこともその傾向を裏付けていると感じました。 学校は言うまでもなく学生さんたちにとって大切な学び舎です。その質は良くも悪くも教職員の方々に委ねられています。ですから、教職員の皆さんの雰囲気が良くなることは誠、歓迎すべきことなのです。こうした全国の学び舎から素晴らしい志をもった若者が1人でも多く社会に巣立っていくことを願っています。因みに昨年の12月に行われた支援活動『サンタプロジェクト』は仙台校の学生さんと教職員の有志の方々との共同支援の形で実施されました。地元の若者が被災地の方々の為にクリスマスケーキを作るなど活躍されたということで地元メディアにも取り上げられましたが、仮設住宅の皆さんの笑顔や喜びの声は参加してくれた学生さんたちにとって一生の宝物になったことでしょう。近い将来、素敵な御菓子職人に成長していくことは疑いありません。

被災地へ 〜その〜『新1年生応援プロジェクト』
前回お知らせいたしました通り、2月の支援活動は『新1年生応援プロジェクト』を実施させて頂きました。女川町内で今春小学校に入学されます全てのお子さんと清水地区仮設住宅に在住の中学、高校それぞれに進学されるお子さん全てを対象に1月の支援の折、入学に際して必要な品物で御希望の物品をお伝え頂けます様、あらかじめ申込み用紙をご父兄の皆様にお渡ししてきました。そしてお申し込みのあった新小学1年生計36名、新中学1年生計9名、新高校1年生計5名のお子さんたちにお申込み頂いた全ての品物をお届けさせて頂きました。その内容はランドセルやピアニカ、スクール水着、プールバッグ、運動靴、革靴、色鉛筆、鉛筆、消しゴム、筆箱、巾着袋、ノート各種、靴下、ハンカチ、ワイシャツ、ブラウス、鞄、スポーツバッグ、カーディガン、国語辞典、英語辞書等様々でしたが、今回も本当に多くの方々の御支援、御協力のお陰様をもちましてお申込み頂いた全ての物品を滞ることなくお子さんたちにお渡しすることが出来ました。お力添えを頂きました皆様に心から感謝御礼申し上げます。12月に行った『サンタプロジェクト』の時もそうでしたが、今回の様に御依頼のあった品物を揃えるという場合、例えば靴1足とってみても性別やサイズ、色などに気をつけなくてはなりません。そんな中、特に直接物品をご提供いただきました方々はその都度綿密な連絡を取り合いながら、受け取られるお子さんを思いやったお気遣いの言葉、ご助言等を下さり本当に御支援なさる側の多くの皆様の心温まる優しさを知ることとなりました。

被災地へ

被災地へ


また清水地区仮設住宅の皆さんにはコンピューターミシン2台とアイロン+アイロン台5セットと申し込みのあった中学に進学されるお子さん9名と高校に進学されるお子さん5名分の入学必需品の品物が届けられました。

被災地へ


今回の『新1年生応援プロジェクト』実施からしばらくした3月のある日、この支援プロジェクトで品物を受け取られたお子さんの内、小学1年生なられる多くのお子さんと保護者の方から、支援を頂きました皆様に御礼のお手紙が届きました。ここではその全員の文面をご紹介させて頂きます。
注:「お子さん・保護者様」の順でお手紙をご家庭ごとに順不同にて掲載させて頂きます。

そうしんじさんへ
このまえ、ぴあにかくれてありがとうございます。いっしょうたいせつにします (女児)

色々な支援をありがとうございます。皆様の思いで、不安な思いも沢山ある中、頑張る勇気が湧いてきました。感謝の気持ちで一杯です。新たな一歩を親子共に頑張ります。本当にありがとうございました。

そうしんじさんへ
ありがとうございます いちねんせいになってもがんばります (男児)

このたびは、学用品、くつなどたくさん支援していただき、ありがとうございました。応援してくださるみなさまの為にも、復興目指して頑張ろうと思います。

そうしんじさんへ
ありがとうございました。 (男児)

みなさまからのご支援、本当にありがとうございました。色々な所、色々な方々からの優しさに日々感謝の気持ちでいっぱいになりながら、大事に使わせたいと思います。

そうしんじさんへ
いっぱいしえんしてくれて、ありがとうございます (女児)

たくさんの支援をいただき、感謝の気持ちでいっぱいです。感謝の気持ちを忘れず、小学校生活を送ってほしいと思います。ありがとうございました。

そうしんじさんへ
ありがとうございました。かんしゃのきもちをたいせつにします (男児)

沢山ありがとうございました。大事に使わせて頂きます。

そうしんじさんへ
いっぱいありがとうございます。だいじにします。 (女児)

たくさんの物ありがとうございました。本当に助かりました。いつか恩返しができるように頑張っていこうと思います。ありがとうございました。

いっぱいもらってありがとうございました (男児)

心のこもったたくさんの品物をありがとうございました。品物だけでなく人様のあたたかい心も伝わってきました。大切に使わせていただきたいと思います。

そうしんじさんへ
いろんなぶっしをありがとうございました。 (男児)

たくさんのご支援ありがとうございます。

そうしんじさんへ
いっぱいプレゼントありがとうございます。だいじにつかいます。 (男児)

宗信寺 様
何度も心温まる支援をいただき、大変感謝しております。子供も喜んでおりますので、大切に大切に使わせたいと思います。本当にありがとうございました。

先日は入学に必要な物をいろいろとありがとうございました。特にプリンセスの筆箱と黒いシューズは子供が大声で「やったぁー」と叫びながら大喜びしていました。何より親としてもとても助けられて感謝でいっぱいです。みなさんからのやさしさを身近な人達を通して返していけたらと思います。

どうもありがとうございます。だいじにつかいます。 (男児)

沢山の学用品を頂きましてありがとうございました。昨年は、本当に大変な年でしたが、今年の春には無事元気に小学校へ入学することが出来、大変うれしく思います。子供にはいつも「感謝」の気持ちを忘れずに毎日元気に学校へ通い、この“女川町”で立派に成長していってくれる事を願います。本当に数多くの品々、ありがとうございました。

ありがとうございました (男児)

先日はたくさんのご支援の品をありがとうございます。息子も頂いた品を前に1年生になる実感がわいてくるのか「いっぱい勉強する」と喜んでいます。息子には頂いた品を感謝して大切に使う様に教えていきたいと思います。本当にありがとうございました。

くつ ありがとうございます (女児)

このたびはあたたかい支援物資ありがとうございました。娘は感謝の気持ちを絵で表現したようです。
(お子さんによるピンクの運動靴の絵が手紙に描かれていました)
くつが気に入ったようで、ぜひくつをはいている姿を見ていただきたいくらいです。そのほかにもハンカチ、色えんぴつ、ふでいれ、その他、大切に使わせていただきます。

ぷれぜんとありがとうございます たいせつにします (女児)

はじめまして。
こんなにたくさんのご支援本当にありがとうございます。支援して頂いた「瞬足(注:小学生に人気の運動靴)」を見つけた娘が「かわいい」とすぐに箱から取り出し家の中ではきました。狭いリビングをはしったりもしました。添えられた手紙を読んであげたら「瞬足はいて、元気に女川第一小学校行くよ」と笑顔で言っています。小袋も1つ1つ手にとり「これは何入れていい?」「うわぐつ入れかわいいね。くつ入るかなぁ?」などすでに学校へ持って行くのを考えていました。この手紙で娘の様子、そして皆様の温かい気持ちに本当に感謝している母子であるのが伝わってくれたらうれしいです。本当にありがとうございました。4月10日、支援していただいた用品とともに入学式を迎えたいと思います。

ぷれぜんとありがとう いっぱいおともだちつくって いっぱいべんきょうがんばるよ (女児)

沢山のプレゼント有りがとうございました。この一年、沢山の方々にご支援頂き感謝しております。町は無くなってしまいましたが、人のあたたかい心を沢山頂きました。子供には、大切に使わせたいと思います。有りがとうございました。

くつやふでばこすいとう、ながぐつそれからのーとえんぴつみずぎうわばきいれたくさんありがとうございました (女児)

たくさんのご支援ありがとうございました。大事に使わせていただきます。

ご支援いただきありがとうございます。子供は大変よろこんでおりました。感謝の気持ちをもたせ、大切に使わせていただきます。想定外の震災でまだまだ大変な事も色々ありますが頑張ってまいります。

プレゼントありがとう。1ねんせいがんばります。みなさんもげんきでいてください。 (女児)

沢山のご支援ありがとうございました。子供もとても喜んでいます。大切に使いたいと思います。

子供たちにとって沢山のあたたかい支援は、季節はずれのクリスマスプレゼントのようで、いつも皆笑顔でワア―っとよろこんでありがたく頂いています。もうすぐ一年が経とうとしていますが、他からみればもう一年。それでも私たち被災者の多くはやっと一年と考える者もいると思います。復興する為に努力をおしまない被災者もいれば、被災者という弱者という気持ちでおくびょうになっている人。そういう様々な中で私たち被災者がいることをこの一年ずっと思いつづけて支援を届けていただけることは、私は1人じゃない!という心の支えになっています。子供たちも何かしら心にキズをもっていると思うなか、贈り物が届くという事は本当に楽しみで笑顔が自然とあふれるすてきなことだと、いつも感謝しております。息子も4月で1年生になります。おかげさまで新入学用品に必要な物もそろいはじめ、4月からはみな様の支援に感謝しながら入学式をむかえる楽しみもできました。なかなか支援して頂いた方へお礼をのべることが少なくうまくお伝えできませんが、いつも感謝しております。本当に子供たちへ希望を与えて頂きありがとうございます。

えんぴつやのーといっぱいありがとうございました べんきょうがんばります (男児)

ご支援ありがとうございました。保育所での生活を送れた事、震災で多くを失いましたが、震災がなければ出会う事のなかった人々とのご縁、経験、想いを忘れず、子供達もおもいやりのある人に成長していけたらいいと思っています。本当にありがとうございました。

2/27 に、入学用品を保育所の方からいただきました。スニーカーすごく喜んでいました。一年生になったらはくみたいで、大事にしまって片付けていました。修了式と入学式にはく靴をずうずうしくおねがいしました。ステキなローファーで、本当にありがたいです。ありがとうございました。うちも流失で何もなくなってしまい、みなさんからいただいた物が今の宝物になっています。梁取先生と同じ仮設住宅に住んでいてお話は聞いています。本当にみなさんの気持ちが嬉しく感謝の気持ちでいっぱいです。震災後、人と人との協力、つながり、こんなにステキな事なんだと実感しています。本当にステキなプレゼントありがとうございました。

しょうがっこうにひつようなものをくれてありがとう こんどまたきてね ちゃんとべんきょうします
しょうらいのゆめはけいさつかんです うんどうもたいくやさっかーもします がんばります (男児)

先日は、沢山の品物を頂きありがとうございました。手作りの袋や巾着、本当は私が作らなければいけない物なのですがなかなか手に着かずにいた所でしたので本当に有難く思っております。新しいスニーカーも“小学校に履いて行く”ととても喜んでおりました。皆様方の優しいお心により私共も少しずつ前へ進めている様な気がします。本当にありがとうございました。皆様もお身体にお気を付けて下さい・・・

宗信寺支援隊のみなさまへ
女川第四保育所、すみれ組男児の母でございます。この度は心温まるご支援、誠にありがとうございました。子供たちの入学のお祝いに必要な物を用意してくださると書かれたプリントを家族でみました。“ありがたい” “うれしいね”と感謝しきれない思いで読みました。何が必要ですか?と直接連絡頂きうれしくて涙が止まりませんでした。被災してもうすぐ一年、本当にたくさんの方々に支援して頂きました。そしてたすけてもらいました。そして勇気と元気と希望と力をいただきました。息子ももうすぐ小学1年生、怖く毎日が不安でそれでもたくさんの人に出会い、たすけ、はげまされ、笑顔をとりもどしてくれたこと、とても感謝しています。宗信寺支援隊のみなさま、子供達に笑顔と希望を運んできて下さいまして誠にありがとうございました。心よりお礼申し上げます。スニーカーや水着、色々頂きました。大切に大切に使わせて頂きたいと思います。

ふでばこやくつありがとう。 (女児)

たくさんのご支援ありがとうございました。子供たちはとても大喜びです。ウチに帰ってさっそく全部あけて「カワイイ!!」「カワイイ!!」と大ハシャギです。こうして全国の皆様から、たくさんの支援や炊き出しなど、とても感謝しています。何でも手に入る時代に生まれた私たちはこの震災で普通に手に入る物が買えないという時、みなさんのご支援や親切など本当に感謝しています。復興にはまだx2時間がかかるけど、前を向いて歩いて行きたいと思います。本当にありがとうございました。

宗信寺 岡さま
いつも大変お世話になっております。女川町復興支援センターのスタッフです。このような形で岡さんにお手紙を書くことになるとは思いませんでした。この度は子供達にたくさんの御支援をいただきありがとうございます。決して良い環境とは言いかねる状況の中、子供達はすくすくとたくましく育っています。発災時、息子が通う保育所はちょうどお昼寝の時間でした。私自身も町立病院の1Fで津波にのまれ、一番気がかりだったのは息子でした。こんなに高い所まで押し寄せた津波、、、保育所は海から1kmも離れていませんでしたから、もう我が子は流されてしまっただろうと親としては失格ですが、潔く子供の死を覚悟していました。翌日、総合体育館でわずか数分の再開でしたが、スヤスヤと眠る我が子をみて生かされた喜びと感謝の想いでいっぱいでした。子供達を速やかに避難させて下さった先生方には、本当に感謝です。そんな中で子供達はたくさんの方々に支援をいただきながら生活してきました。震災があり、失ったものははかり知れませんが、震災後に私たちをつないで下さったものも同じくらいはかり知れません。春、子供達は小学校に入学します。この震災を忘れてほしくないという思いはあります。だからこその人とのつながりがあるということ、人に感謝して生きるということ、、、親として親の背中をみせながら育てていきたいものです。女川に本当の春が来る日まで、どうか見守って下さい。間もなく岡さんに会ってから一年を迎えます。この一年に心から感謝いたします。

おてらのみなさんへ
おてらのみなさん、あたらしいふでばこはとてもうれしかったです!そしてあかのながぐつは、とてもかわいかったです☆そして、みずぎをくれてありがとう☆この☆かんしゃを!わすれません! (女児)

皆様この度は、たくさんの入学用品を頂き本当にありがとうございます。大切に使わせていただきます。

このたびはたくさんの品物をご支援いただき、本当にありがとうございました。もうすぐ、震災から一年が過ぎようとしています。そんな時に支援していただき、心使いうれしいです。一年間、いろんなことがありました。停電になったり、断水になったり、食べ物が手に入らなかったり、親の私達でも想像もつかない事がたくさんありました。子供にも、不便な思いを多々させたと思います。でも、みなさん、いろいろな方々のおかげでやっと普通の生活が送れています。私達の家は、かろうじて残りました。でも、こうやって分けへだてなく、ご支援していただいた事、恐縮しております。このたびの震災は、親の私達も、子供も、いろんな人の助けがあって普通の生活が出来ていることをしっかりと心にきざまなければならないと思っています。もし、どこかで、災害があり困っている人がいるならば、私達も助けてあげられるような人になりたいと思うし、育てたいと思います。本当に感謝の一言です。ありがとうございました。大切に使わせていただきたいと思います。

いちねんせいがんばるよ (男児)

この度は、御支援ありがとうございました。とてもよろこんで、小学校に入学するのをたのしみにしています。大事に使わせて頂きます。ありがとうございます。

にゅうがくおいわいたくさんありがとうございます。いちねんせいになったらべんきょうがんばります。だいじにつかいます (男児)

ありがとうございました。 (女児)

このたびはとても素敵なプレゼントありがとうございます。女川町の子供達へのお心づかい大変感謝しております。皆様のやさしい気持ちを忘れずにこれからも頑張っていきたいと思っています。本当にありがとうございました。

かわいいくつくれしかったです (女児)

実用性のある物をいただきたすかりました。大事につかわせていただきます。ありがとうございました。

物資をくれた方々へ
この度は沢山の物資どうもありがとうございます。あの震災からもうすぐ一年が経ちます。今は少しずつ元の生活に戻りつつありますが、今の生活を送ることが出来たのは皆様の温かい支援があったからです。震災では多くのものを失い悲しみ、親として一番辛かったのは子供たちが大切にしていたものが全部流されてしまった。と泣いたことです。えんぴつ一本、消しゴム一つにしても前はあまり大切に使うことが出来ていなかったように思います。でも今は物に対して大切に使うことが大事なんだと心から感じています。頂いた新しいくつ、えんぴつ、ふで箱。それを見て“早く学校へ行きたい!!”と笑う子を見て、私はすごくうれしいです。皆様、本当にありがとうございました。

プレゼントありがとうございました。たいせつにつかいます。おべんきょうがたのしみです。プレゼントいっぱいあってうれしかったです。きゅうしょくたべて、かけっこがんばります。 (男児)

この度は、たくさんお祝いの品を頂きまして、大変ありがとうございました。私共の家庭は、震災の被害から免れ、ライフラインが復旧した後は、何ら普通の生活が送れていましたので本当はこの様な品物を受け取る立場ではないのですが、お寺さんのご厚意とのことで、本当に感謝でいっぱいです。

初めまして 女児の母です。この度は私の娘の入学準備品をありがとうございました。本人も非常に喜んでおります。保育所から帰ってきたとたん「あーランドセルだあー」と言って毎日、背負っております。最初にランドセルのお話があった時には夢のようでした。本当に感謝をしております。また、ホームページを見ました。活躍ぶりはものすごいものですね。私が逆の立場にありましたらとても真似できることではありませんね。本当にすばらしいと思いました。本当に尊敬をいたします。もう一度入学準備品をありがとうございました。

いっぱいおくってくれてありがとうございました。だいじにつかいます。 (男児)

いろいろ支援を頂き、心より感謝します。たくさんの方々に、応援をして頂き、前向きに前進あるのみで進んでいきます。有難うございました。

みずぎとくつうれしかったです。 (男児)
ありがとうございます。4がつから1ねんせいなのでだいじにつかいます。

この度は沢山の物資、ありがとうございました。自宅は1階2mまで水が入りましたが流失はせず、リフォームをして暮らしており、物資がくることはほとんどないため、息子はいただいた靴を嬉しそうに何度も履いて走りまわっていました。新しい靴で小学校の校庭をいっぱい走り、遊んでくると思います。本当にありがとうございました。大事に使わせていただきます。




なお届いた御手紙にはご紹介させて頂いた文面のほかに今回贈られた色鉛筆を使って早速描かれたお子さんたちによる絵も沢山描かれていました。このお子さんたちは4月10日小学校に入学されるそうです。多少の困難には負けずに逞しく成長していくことを心から願っています。そしてその成長の様子を傍らで見守っていけたらと思います。

お手紙御紹介の締めくくりに保育所の先生から頂いたお手紙の一部をご紹介させて頂きます。

「寒さもようやく衰え始めましたが、皆様ますますご健勝のほどお慶び申し上げます。
過日はわざわざお出でいただきありがとうございました。子ども達、1人ひとりに心のこもったプレゼントを頂戴し本当に感謝しております。保護者も、希望したもの全てを頂き大変恐縮しておりました。・・・・・・3月11日で1年が過ぎて、なんとなく区切りをつけなくては、、、と思うものの やはりなくなったものは取り戻せず、帰ってもこないので心落ち着くまでは、まだまだ時間がかかりそうです。ゆっくりと歩んで行こうと思っています。どうかこれからも宜しくお願い致します。」



お子さんたちからのお手紙、そしてその様子を伝えて下さった保護者の皆さんや保育所の先生のお手紙の文面からはお子さんたちの喜びはしゃぐ姿が目に浮かぶようですね。しかし、同時に未だに被災地での生活が大変である事、そして何より大震災によって被災地の方々が受けた心の傷はまだまだ癒えていないことをあらためて知らされた思いです。大震災発生からおよそ一年、今までは被災地の皆さんが抱える不安や、辛さ、心情をお聞かせいただく機会はほとんどありませんでした。無論、我々からお伺いすことなどできない事でもありますので、今までは出来ないながらもお察しするばかりで、被災地の皆さんからお聞かせ頂かない限り、私達が皆さんの心の中の思いを知る術はなかったのです。今回の被災地訪問では複数の被災地の方々から少しずつではありますが、御心情をお聞かせ頂くことができました。その事実は確かに確実な前進にほかなりません。しかしながら頂いたお話のどれもが大きな被災を免れた我々が想像できる上限をはるかに超えるほど厳しく辛く深刻な現実でした。この事実は私達がこれからも被災地に対して変わらぬ想いと支援を継続していく必要があるということを示しているのだと私は感じています。
実は1月に女川を訪問した折、清水地区仮設住宅にお住まいの皆さんの御協力を頂き、震災以来今日に至るまでの様子をお聞かせ頂くべくアンケート形式で意識調査を実施させて頂きました。2月、そのアンケート用紙が回収されたのですが、その結果、幾つかの問題点が見えてきました。先ず仮設住宅とそこにおける生活の問題点としては下記の様な意見が多く寄せられました。

   お風呂の追い炊きができない。
   光熱費が高い。
   収納が足りない。
   駐車場が一家に一台では不十分。
   自家用車がないと通学や病院、買い物等の移動がとても不便。
   隣近所の生活音の諸問題

また意識の上でとても注目すべき点も明らかになって来ました。それは被災地の皆さんの多くが『自立』の必要性を強く認識しているということです。アンケートによるとほとんどの方々が民間ボランティアの支援活動を歓迎されているのと同時にいつまでもこのままではいけない、支援に頼ってばかりはいられないという自立意識をしっかりともっていらっしゃるのです。ですが、自立を目指す上で最も大切なこと、すなわち就労ということが充分に叶わないことが自立実現への大きな足かせになっています。この現実は決して女川に限った事ではない筈です。被災地沿岸部の津波被害の甚大であった地域は基幹産業である水産業が壊滅的な被害を受けました。その結果、それまで地元の水産業に従事していた多くの方々は仕事を失うと同時に“自立”の術も失ってしまったのです。気持ちはあるのに実行、実現する術がない・・・何とももどかしい状況が被災以来今日まで続いているのです。
そしてもう一つ私達に大きくかかわる大切な点も見えてきました。それは“民間ボランティアへの意見・望むこと”という質問欄に多く寄せられていたことです。集約して申し上げますと“忘れないで欲しい!”ということを本当に多くの方々が望んでいるという事実が明らかになりました。「何が欲しいとか、これをしてくれとかいうのではない、ただ東北のことを忘れないで欲しい」、「手ぶらでいいからできるだけ気にかけて顔を見せて欲しい、立ち寄って欲しい」・・・。こうしたご意見が本当に沢山寄せられたのです。「自立」と「忘れない」ということ。どちらも解決には長い時間を要する内容です。それと同時に被災地の方々だけでは残念ながら解決できない事かも知れません。だからこそ、今、そしてもうしばらくは支援の存在が必要なのではないでしょうか。
東日本大震災を機に私達は以前にもまして“絆”という言葉をよく用いるようになりました。この言葉の意味は私が今更敢えて申し上げるまでもありませんが、辞書で調べると“断ちがたいつながり”などとあります。つまりは互いの信頼で結ばれた繋がりを意味します。しかしその信頼とは果たしていかほどのものなのでしょうか?どれほど深く、どれほど強い繋がりなのでしょう?この言葉の持つ真意を知る為にはその字そのものをあらためて見てみると明確です。“絆”という字は糸辺に半、つまり半分の糸と書くわけです。“半分の糸”とだけ聞かされますとなんだか今にも切れてしまいそうで不安な印象さえ抱いてしまいます。しかしその半分の糸と書く“絆”という言葉が意味するのはその見た目の印象とは正反対の決して切れることのない、決して揺るぐことのない繋がりを意味します。これはどういうことかと申しますと、絆で結ばれた間柄というのは、自らも相手に対して信頼の誠を託し、その相手からも自らに寄せられる信頼に対して全身全霊をもってお答えする、つまりお互いが強く、深く信じ合っているからこそ互いに信頼という半分の糸を託し託されて一本の“絆”という決して切れることのない、決して揺るぐことのない糸に束ね育んで行くという思いがこの字には込められているのではないでしょうか。大震災が発生して以来、多くの信頼という半分の糸が被災地から日本中、そして世界中に託されました。そして世界中の多くの国々、人々、そして私達もその糸を受け取ると同時に被災地に向けて自らの持つ半分の糸を託してきました。しかし、被災地に向けて託された糸は昨年のゴールデンウィーク辺りをピークに減り始め、避難所から仮設住宅に生活の拠点が移ってからはその傾向が一層顕著になりました。そして大震災から間もなく一年という節目を迎えるに辺り、被災地支援を終了する各団体も多く存在するという現実があります。しかし、この現実はあくまで我々側、すなわち現時点で支援を行っている側の都合や認識であって、決して被災地の望む形ではないのです。私は常日頃より“ボランティアとは松葉杖のような存在”と言ってきました。確かに一時的にはなくてはならない必要不可欠な存在だけれど、いつかは必要なくなる、つまりは松葉杖を持っていた人がいつかは松葉杖がなくても自身の足でしっかりと歩けるようになる、そうした存在がボランティア活動、被災地支援活動であるべきだと考えています。こうした考えに基づきますと、今この段階でその活動を終えるということは私には回復はしてきたけれどまだしばらくは松葉杖無しでは移動が困難で不安も大きいという人から無理やり頼りの杖を取り上げてしまう様に思えてならないのです。被災地から私達に託された信頼という半分の糸を無理に振り払うことになりはしないでしょうか。“絆”は簡単には切れないからこそ、絆なのです。互いの思いがあるからこそ絆なのです。震災からおよそ一年、この一年を振り返りつつ、この先を見つめて被災地と我々の関わり合うことの大切さ、携わっていくことの意味をもう一度あらためて認識を深めるべき時を迎えました。


『東日本大震災犠牲者慰霊・復興祈願法要』のお知らせ
2012年も立春を過ぎ、いよいよ来月には東日本大震災が発生してから1年という時間が過ぎようとしています。3月11日、この日宗信寺では檀信徒の皆様、そしてこの1年間共に被災地支援に尊い御支援、御協力をして下さった皆様と共に犠牲者の方々の供養と復興を祈願する法要を営みます。亡くなられた方々に対し、1人でも多くの方々の祈りを捧げ、真の復興成就を目指して力強い祈願をすべく皆様のご参加をここに御案内申し上げます。詳細は下記の通りです。

☆日 時・・平成24年3月11日(日)午後2時46分より

 ※地震発生の時刻に合わせ、参加者全員の黙祷で始めます。
 祈願水行・犠牲者慰霊・復興祈願法要・特別法話

☆場 所・・宗信寺 神奈川県平塚市南金目2336番地

☆備 考・・ご参加ご希望の方は直接宗信寺までお電話若しくはメールにてご連絡をお願い申し上げます。
また犠牲者の方々に卒塔婆をお建てになられる方は併せてその旨をお伝え下さい。

お問合わせ

 電 話 0463-59-7235
 メール myoho@soushinji.com


立春
2月4日、今年も早いもので立春を迎えました。『立春』はその字のごとく暦の上では春の到来を意味するわけですが、今年の日本列島は強烈な寒気に覆われて首都圏でも例年以上に厳しい冷え込みが続いています。特に日本海側の地域では「18年豪雪」に匹敵するほどの大雪にみまわれており、多くの雪害が発生して既に沢山の方々が亡くなられています。ここに心より御冥福をお祈りいたすと共に、豪雪地域の方々には衷心よりお見舞い申し上げます。さて、この立春は春の到来と共に、新たなる年の始まりでもあります。旧暦で申しますと平成24年は壬辰六白金星という年になります。先師が残してくれたこの十干・干支・九星学を用いて今年の世相を鑑定して見たいと思います。まず、十干では本年は壬(みずのえ)に当たります。その象位は「水」です。水には万物を潤し育てるという意味合いと全てを平らにするという意味合いがあります。また水は常に高い所から低い所に向かって流れます。水そのものが何の力も加えずに溯ることは決してありません。ですから何事も道理に従って本質を正しく把握して臨むことが大切な1年となります。そしてしっかりと見極めるところよりスタートするという事も重要です。また、象徴的な言葉としては海・戦場・砂漠・積極的・勇敢・性急・破壊・鉄砲・爆弾・軍人・黒いものなどが挙げられます。次に干支の辰についてみてみましょう。辰の象位は「大地」です。大地は種から出た芽を成長させるのに欠かせない存在です。そしてこの辰の年を象徴する言葉としては伸・震・振・娠・春の土用・土・振るう・妊娠・地震・動き回る等が挙げられます。辰の年は歴史的に大規模な事業が行われていることも注目すべき点です。例えば1964年には東京オリンピックが開催され、新幹線が運行を開始しました。また1988年には青函トンネルと瀬戸大橋が開通しました。そして本年2012年はいよいよスカイツリーが営業を始める年です。そして九星学では六白金星ですが星は世相を暗示します。国家権力、指導者に関わる事象が世界的に多く見られる年となるでしょう。六白金星が暗示する言葉としては主人・父親・神・命・頭・遺産・大金・財・頑固・戦い・正義感・動くもの・貴意が高いなどが挙げられます。また壬辰という組み合わせの60年周期で見てみると今年は季節で言うなら春から夏、蓄えられた力が表面にあふれ出し、物事が活発化するという傾向が強く表れてきます。この60年周期では壬辰は調度折り返し直前付近に位置し、これは物事の転換期を意味します。壬と辰それぞれが暗示するキーワードを念頭に歴史を振り返ってみると120年前の1892年には東京北部でM6.2クラスの地震が発生し神田で大火災が発生しました。240年前の1772年には目黒行人坂大火で死者は実に14.700人に及びました。さらに360年前の1652年には豊臣秀吉が朝鮮出兵を行いました。ここで壬辰六白金星という三つの視点をもって今年の世相を読んでみたいと思います。先ず経済面では海洋資源、地下資源が話題になるでしょう。また農業、水産関連事業が注目の活躍をする年にもなることが予想されます。こうした動きに反応して政府レベルのインフラ整備等が進むと被災地の復興の速度は確実に加速していきます。財政・金融問題はより大きくなり、株式金融業界にも波乱の暗示が見てとれます。次に自然については水が天を支配するという暗示から例年と日照環境が異なり、大雨や洪水、干ばつや水不足・農作物への被害・大火災などが予想されます。そして社会においては例えば芸能界などで常識を突き抜けた様な刺激的かつ過激な存在はやがて幕を引き、かわって知的センスや付加価値が要求されるようになります。本年は今までしっかりとした出発や地道な努力を重ねてきた人には精神的な充実を得られる年となるでしょう。かたやうわべだけの人は表面的には華やかに見えても中身が伴わないというチグハグな状況に陥り、前者との差がより顕著になるでしょう。いずれにせよ、今年は静か動で言うなら、季節に例えるならからです。物事の見極めが必要な時はしっかりと熟慮した上で行動して目前の課題に取り組んでいくという姿勢が肝心です。難題は増加し、社会の仕組みが変化する年の始めとなるのが今年の象徴的特徴です。

被災地へ 〜その・平成24年第一回目〜
1月23日未明、年明け第1回目の支援活動の為宮城県女川町に向けて宗信寺東京布教所を出発しました。この日は幸い厳しい冷え込みもなく支援車両は順調に目的地に向かって走行していましたが、那須高原辺りから高速道路周辺は無論のこと、サービスエリアやパーキングエリア内にも雪が積もっており、その量は宮城県に近づくほど増えていきました。高速道路上はさすがに除雪されていましたがそれでも外気温は氷点下という事もあり、ところどころアイスバーン状態になっていました。首都圏とは違う東北のこの時期ならではの厳しい生活環境の一面を実感しました。

被災地へ 〜その〜


今回の女川訪問には大切な目的がありました。一つは清水地区の仮設住宅の皆さんに醤油・砂糖・食塩等の食料品をお届けすること、また女川町内の小学校と保育所にスポーツ遊具をお届けすることでした。そしてこと大切な目的というのは次回の支援活動の為の準備でした。現在、女川町内には約40名の今春小学1年生になるお子さんたちが暮らしています。そこで2月の支援活動は新たに小学校に御入学されるお子さんたちを応援させて頂くという趣旨を第一・第四保育所の所長先生に御提案、御相談しましたところ御快諾頂けましたので、お子さんたちの保護者の方々に入学に際し、必要な物品の申込書をお届けさせて頂きました。また清水地区仮設住宅に在住の今春中学、高校に進学される全てのお子さんたちにも同様の支援をさせて頂くことになりました。
事前の情報によりますと女川町と隣接する石巻市では市が新小学1年生全員にランドセルを支給するとのことでした。女川町においては年末年始の頃より各方面から贈られたランドセルが数十点あるので先ずはそれを町内の新小学1年生に支給するとのことでした。ただ最終的に全員にゆきわたるか否かは分からないそうです。実際問題として入学に当たってはランドセル以外にも様々な品物が必要となって来ます。私自身、愚息が入学する時のことを振り返ってみても学用品に始まり、スクール水着や雑巾に至るまで様々な品物を用意したことを覚えています。こうした品々を揃える為には当然ながら費用負担が生じます。ですからこうした部分で多少なりとも保護者の皆さんの御負担を軽減するお手伝いが出来ればと考えたのです。女川町に限らず大震災以後大きな被害を被った被災地の方々の多くが沢山の大切なものと同時に仕事もそして職場も失ってしまいました。時間の経過と復旧の進展に伴い一部の方々は職場復帰が叶ったという事も聞き及んでいます。しかしながら未だ職場復帰どころか新たな仕事にも就けず大きな不安を抱えながら1日1日を過ごしている方々も被災地には沢山いらっしゃることを私たちは決して忘れてはなりません。そしてその様な家族の状況に関係なく子どもたちは成長していくのです。実は私の愚息もこの春から高校に進学します。ですから入学を控えた子供の親という点でも他人ごとではありません。子供の成長や教育に対していかなる理由があろうともその妨げになるものが存在してはならないと常日頃より考えています。しかし実際はそう思い通りにはいかないのも現実です。事実、大きな被害を受けた東北地方には家庭の経済面などの理由から今春、高校や大学また専門学校への進学を断念して就職口を探しているお子さんが増えているという現象が聞こえてきています。無論進学することが全てではありませんし、それこそが正しいという訳でもないでしょう。ただこの時期の1年2年の過ごし方や環境がその後の御本人の人生に対しての影響という点でこと重要な時期だけに、何らかの理由で御家族や御本人の希望や意向と異なった選択・判断をせざるを得ないという事は実に辛いことです。こうした点につきましては社会全体が支えとなる意思を持ち、その気持ちを様々な形で実行していくことが大切なのは言うまでもありません。私を含め、何の滞りもなく入学、進学出来る環境にある人達はそのことが当たり前のことではなく、大変ありがたく心から感謝すべきことであるということを深く理解することも大切です。そして願わくは厳しい環境におかれているお子さん、そして恵まれた環境にある子さんがそのことを理解してその中で懸命に努力を重ねていくことも大変重要なことです。これからの日本を担っていくのはこうした双方の若者たちなのですから・・・。
第一・第四保育所それぞれに通われている年長さんの保護者の皆さんには両保育所所長先生からの御助言を頂きながら、運動靴・鉛筆・色鉛筆・筆箱・スクール水着・その他必要な品物 という形で御案内させて頂きました。また清水地区仮設住宅の新中学生・高校生の保護者の皆さんにも同様に、革靴若しくは運動靴・国語辞書・英語辞書 という形で御案内をさせて頂きました。それぞれの申込用紙は2月上旬中には宗信寺に郵送される予定です。そしてお申し込みのあった物品を揃えて2月下旬には女川にお届けに伺う予定です。
東日本大震災が発生してから間もなく1年という時間が過ぎようとしています。3月11日には現地を含め日本中色々な場所で慰霊法要等も営まれることでしょう。この大地震と大津波によって大切な命を亡くされた多くの犠牲者の方々にとりましては一周忌を迎えることになります。実はまだ一周忌を目の前にした今の段階で4月の入学・進学の話、そして取り組みをして良いものだろうかという点は正直なところ多少なりとも抵抗感がありました。“亡き方を弔う事をきちんと済ませることが先ずは先決ではないのか?”と・・・。しかしながら現実的に考えますと犠牲者の方々を偲ぶ気持ちを絶やすことなく、今日を生き、また明日をよりよく生きようと目指す被災地の皆さんの為の取り組みも今は継続が必要な時です。“必要なことが必要な時に滞らない様にする”、こうした理念を前提に熟慮した結果、被災地の皆さんの御要望もあり3月の一周忌の時期に先駆けてここに「新1年生応援プロジェクト」を実施させて頂くことと致しました。御賛同頂けます皆様にはどうぞ御支援、御協力の程心よりお願い申し上げます。詳細は下記の通りです。

☆支援時期平成24年2月下旬
☆支援対象女川町内在住の新小学1年生全員と清水地区仮設住宅在住の新中学生・高校生全員
☆支援方法 義援金による支援
(下記口座に御振り込み・または現金書留にてご送金)

ゆうちょ銀行
記号10210 番号51350321 宗教法人 宗信寺

三菱東京UFJ銀行
店番133 表参道支店 普通0898031

宗教法人 宗信寺
代表役員 岡 貞潤(おか ていじゅん)
〒259-1201 神奈川県平塚市南金目2336 宗信寺 宛

物品による支援
2月上旬には各御子様の保護者様から御希望の品物の申込書が届く予定です。

の方法での 御支援を御希望の方はそれらの中の品物を御用意頂きます。
詳細はお問い合わせください。

電 話  0463-59-7235 宗信寺
メール  myoho@soushinji.com


前述の通り、今回の女川訪問では様々な物品を各方面にお届けさせて頂きました。小学校には女川町社協を通じてNPO法人日本ティーボール協会より御提供頂いたティーボール一式を5セット、また第一・第四保育所には計15個のサッカーボールをお届けしました。また、清水地区仮設住宅の皆さんには醤油1リットル・食塩1キログラム・砂糖1キログラムを1セットとして150セット、日本酒10升、そして宗信寺檀信徒の方から御提供頂きましたカイロ1000袋をお届けすることが出来ました。御協力下さいました多くの皆様に厚く御礼申し上げます。

被災地へ 〜その〜


実は今回の女川町には私1人で行ってきました。確固たる理由があったわけではありませんが昨年の3月、初めて被災地に向かったその時から常に多くの方々の御支援と、同行してくださる多くのスタッフの協力がありました。特に支援直前の準備は人出が不可欠で本当に沢山の人の力を頂戴してきました。年末の何かと多忙な時期には「サンタ・プロジェクト」も行われ、年の初めのこの時期に参加スタッフの方々には少しでも休んで頂きたいという思いがあったのです。幸い今回お届けした荷物は車両1台にギリギリ積み込むことが出来る量でもありましたので、今回はいつも同行してくれていたスタッフにも内緒で出かけた次第です。(実はその後、数名のスタッフから“みずくさいです”とお小言を頂きました・・・)
今回はもう一つ実施したいことがありました。それは道中での放射能数値の測定です。今までこのホームページで何回か測定した数値を公表してきました。しかしながらその計測方法につきましては特に福島県内などは高速道路を走行中の車内から測定した為、正確性には今一つ確信が持てないのも事実でした。そこで今回はあらかじめ定めた測定地点で車を止めて、実際に地面近くで測定しました。その結果が下の表です。

放射能モニタリングデータ 渋谷区〜女川町清水地区
平成24年1月24日計測

計測場所数値(μSv/h)日時(1月23日)風向き気温
渋谷区富ヶ谷0.12am 4:09北 西4.5度
蓮田SA0.19am 4:49北北東0.5度
佐野SA0.15am 5:15北北西0.5度
上河内SA0.14am 5:47北 西−0.5度
那須高原SA0.28am 6:25−3.0度
鏡石PA0.32am 7:00−3.0度
安積PA0.56am 7:13北 西2.0度
安達太良SA0.90am 7:30北北東−1.0度
二本松IC付近0.97am 7:46東南東−1.0度
福島松川PA0.82am 7:55東南東0.5度
国見SA0.35am 8:25南 西2.5度
仙台南IC付近0.12am 9:23南 西5.0度
石巻河南IC付近0.12am10:18西北西5.0度
女 川 港0.09am11:05北 西6.0度
清水地区仮設住宅0.08am11:50北 西6.0度
被災地へ 〜その〜


結論から申し上げますと、やはり今までで1番高い数値を記録しました。赤字で記された数値はいずれも線量計の警報ブザーが鳴った地域です。予想通り『二本松IC付近』が最高数値でした。これを年間被ばく量に換算しますとおよそ8.5mSvとなり、極めて高い数値となります。昨年の秋、この二本松周辺で収穫されたお米の放射能数値が高かったため出荷停止となりましたが、この地域が放射能数値の極めて高い、いわゆる“ホットスポット”の様な地域であることの懸念は私たちの様な民間レベルでも既に昨年の5月の時点で把握しており、当ホームページ上でも公表してきました。しかし、この地域には国や行政からの避難指示は出ていませんでした。心配なのはこうした地域で結果的に震災後も生活し続けている住民の皆さんの健康への放射能の影響です。精神的にも大きな負担を強いられている最中、健康にも害が及んでいるとすると政府の初期対応の甘さが露呈する結果となることは明らかです。緊急時の際には最少被害を期待することはあっても、最少被害を前提に対策を講じるのではなく、最大被害を想定して人々の安全を第一に確保することが肝心なのではないでしょうか。
今、全ての被災地で地元の方々の懸命な復旧・復興作業が日々続けられています。津波による塩害を受けた農地を元に戻す地道な作業、様々な放射能除染作業、地域コミュニティー復活の努力、人口流出を食い止めるための工夫など、ありとあらゆる手段が様々な困難を乗り越え展開されています。こうした民間レベルの涙ぐましい活動を本来であれば牽引、サポートすべき国や政府が万が一にも水を差すようなことがあっては断じてなりません。そんな中つい先頃、東京23区が女川町の瓦礫を受け入れることを正式に発表しました。本当に喜ばしいことです。現在、女川町の瓦礫処理は毎日懸命な分別などの作業が行われてはいるものの、極端な言い方をすると平地の半分は瓦礫が取り除かれ、もう半分にその瓦礫が延々と山積みにされた状況です。人や自治体に限らず日本中が出来ることを率先して取り組んでいく、そして被災地が必要としていることに対してどうしたら答えられるかを考え実行していくことが本当の意味で日本が立ち直る為には絶対的に必要なのです。

被災地へ 〜その〜

被災地へ 〜その〜


かつて世界を席巻したメイド・イン・ジャパン。特に電気製品と自動車産業は圧巻される程の強さがありました。しかし以前はライバルにすらなり得なかった韓国などの企業やメーカーに今やマーケットシェアを奪われ、世界的景気後退、長引く円高の悪影響もあり、つい先日発表された主要な日本企業の2011年度赤字額は軒並み数千億円単位で我が目を疑う内容でした。日本には今、元気が足りないのではないかと感じます。つまり、希望や目標が持てない、もしくは持ち辛い空気が充満しているのではないでしょうか。何か重苦しい雰囲気が立ち込めてしまっています。明るいニュースは極めて少ないのが現状です。こうした状況に至った原因はどこにあるのでしょう。それは例えば油断だったかも知れません。努力することを面倒に感じたからかも知れません。協調性を重んじなくなったからかも知れません。自分さえよければという狭い心を持つ人が増えたからかも知れません。でも、私はこれで日本も日本人も、もうダメになってしまったとは思っていませんし、また思いたくもありません。水が高い所から低い方へ流れるように辛いことから楽な方へ安易に流れてしまうのではなく、時には辛いと分かっていても必要とあらば積極的に取り組み乗り越えていく、こうしたバイタリティが今の我々日本人には総じて必要なのではないでしょうか。少なくとも私のようについ数年、数十年前と今との間に多少なりとも違和感を感じている人は少なくない筈です。そしてそうした違和感をもっている人々がその違和感を無くす努力を始めたならば、きっとまた日本は安心して住むことのできる素晴らしい環境を取り戻すことが出来るはずです。諺にも“苦あれば楽あり”とあります。またこんな諺もありますね“苦労は買ってでもしろ”と。無駄な苦労は論外ですが必要な苦労や避けてはいけないものは、うつむく前に先ずはしっかりと受け止めて乗り越えていく勇気と気迫を皆が取り戻すことが、祖国日本の真の再生のカギを握っているのです。

被災地へ 〜その〜


今回の女川訪問の目的を全て終えて帰路に着いた頃には調度万石湾のみなもに傾きかけた日差しがキラキラと美しく輝く頃となっていました。本当に穏やかな海でした。震災以来石巻線の線路は使われることなくひっそりとたたずんでいました。近い将来、今は錆びついてしまっているレールの上を地元の方々を乗せた電車がのどかに走る光景が見られることを心から願っています。

被災地へ 〜その〜


合同慰霊・復興祈願法要
1月11日は11回目の東日本大震災の月命日でした。
この日、宗信寺では神奈川第三部宗務所主催による『大震災犠牲者慰霊・復興祈願法要』が営まれました。管内寺院の御住職をはじめ、各寺院の檀信徒の皆様にも多数御参詣を賜り、厳粛に法要は営まれました。また法要前には“被災地支援活動を通じての経験を皆様に伝えてほしい”との要請を受け、「私たちにできること」と題しての公演を1時間ほどさせて頂きました。この宗務所主催の法要は3月11日の一周忌まで管内寺院を会場に続けられます。
合同慰霊・復興祈願法要

新春初祈祷会
1月8日の日曜日、宗信寺の今年最初の年中行事である新春初祈祷会が営まれました。早朝より御参詣になられたおよそ150人の檀信徒の方々の見守る中、午前9時の『水行』に始まりその後は本堂にて御祈祷が執り行われました。昨年の東日本大震災を受け、今年は参詣になられた皆さんも例年以上に精神を集中して真剣に御祈祷をお受けになられていました。また、個々の御祈願の中には「日本復興」といった内様のものもあり、今年が本当の意味で復興元年になることを願う皆さんの思いが伝わって参りました。御祈祷の後は前日から総代役員の皆さんによって準備された名物の“豚汁”が参拝者全員に振る舞われました。本堂での緊張した表情が解け、豚汁に舌鼓を打つ皆さんの御顔は満面の笑みに満たされていました。
新春初祈祷会

新春初祈祷会


今、日本、そして我が国を取り巻く世界は非常に危機的な要素を複数抱えています。国内においては政治不信や放射能問題、先の見えない被災地の現状、少子高齢化による国の弱体化、異常なほどの円高・ドル安・ユーロ安による企業の業績不振等々、挙げ出したらきりがありません。誠に嘆かわしい現実が益々露わになるばかりです・・・。まして今、日本の財政状況には鬼気迫るものがあります。例えて言うなら、年収400万円の家庭に実はおよそ1億円の借金があり、それにも関らず毎年500万円の借金を続けて年収900万円の生活をする。それこそが今の日本の現実です。
一般家庭では絶対にあり得ないことを何と国が行ってしまっているのです。仏教に『知足』という言葉があります。“足りたるを知る”という意味です。つまり必要にして充分なところをきちんとわきまえるという事です。ところが先進国に住む人たちはここ何十年も限りない欲望にかられて決して満たされることのない欲求をどこまでも追い続けるようなことをして来ました。我々日本人も例外ではありません。“洋服が欲しいから買う”。これだけなら別段いけないことではありません。でも皆さん、家のクローゼットや箪笥の中には年に何度も袖を通さないような衣類が沢山あるのではありませんか。しかもそうしたものをローン、分割で購入していたりしませんか。マーケットで安売りをしていたからといって、ついつい買いすぎて消費期限を過ぎてしまうようなことはありませんか。もしそうしたことに心当たりのある方は、是非今年から『知足』という事を心掛けるようにしてはいかがでしょう。国を動かすのも先ずは我々国民からという事も一理あります。今年があらゆる面で“身の丈に合った・地に足のついた生活”の始まりになることを願っています。
荒行堂初詣
1月7日、今年も恒例の日蓮宗大本山の1つ千葉県市川市法華経寺にある日蓮宗加行所大荒行堂での初詣が行われ、関東近辺は無論のこと、関西方面からも御参加を頂き、宗信寺の檀信徒の方々約50名が集合して今年の修行僧の方々からありがたい御祈祷を受けました。
私は昭和63年・平成2年・平成8年と過去3回この大荒行に入行させて頂きました。しかしながら3回目の行を終えた平成9年からすでに15年もの月日が流れました。今年宗信寺の一行が御祈祷を受けた折、祈祷導師を勤めて頂いたのは私が3度目の時の初行だった行僧さんです。大荒行自体は毎年11月1日から翌年の2月10日までの100日間行われます。その前後を合わせますとおよそ4カ月以上の間、住職はお寺を留守にすることになります。私個人としましては僧侶である以上、また今の世相を考えましても行に挑戦したいという気持ちを強く持っています。しかしながら4カ月もの間、お寺を留守にするという事になりますと檀信徒の皆様の御理解と御協力も頂かないとなりません。また、気力はともかく体力的な面で申すなら私も今年で47歳になります。私が初行の時、行の中で大切な教えを授けて下さり、行が終了した直後御遷化された故佐野上人は第四行御入行当時は48歳であったとお聞きしています。もし再度荒行堂に御縁を頂くことが出来るならここ数年という事になるでしょう。
正月元旦
平成24年、宗信寺の壬辰の年の始まりは例年通り元旦零時の水行から始まりました。今年も御近所や都内からの檀信徒の皆さんの参拝を頂き、共に新年を迎えることができました。水行の為に水を張るホースが凍ってしまうほどの寒さの年明けとなりましたが、今年は特に被災地東北を思い、日本が真の復興へ向けて歩み始める年の幕開けとなる様、水行にもひと際力が入りました。水行、初祈祷が終わった後は檀家の久保寺さんが持参して下さった年越しそばをみんなで頂き、冷えた体を温めることが出来ました。こうした人の思いやりをたくさん実感できる、そんな年になることを願ってやみません。
合同慰霊・復興祈願法要