ここは宗信寺からのご連絡やご報告、また、お寺とご縁ある方々にご登場いただく情報コーナーです。
コーナー
宗信寺の檀家さんや信者さんをご紹介させて頂きます。
被災地へ 〜第28回〜
『第3回サンタプロジェクト』
12月23日、天皇陛下の89回目のご生誕の日となるこの日、女川町では『第3回サンタプロジェクト』が実施されました。この支援プロジェクトは被災地の仮設住宅で暮らす高校生以下の子供達にプレゼントをお贈りし、仮設住宅の住民の方々にはケーキをお届けするという支援活動です。この支援に先駆ける事およそ1ヶ月、事前に対象地域のお子さん達から“本当に欲しいもの”を教えて頂き、申し込みが整った段階で今度は多くの支援者の皆様のお力添えのもと、申し込まれた品物の手配作業が行われました。対象者がお子さんとは言いましても0歳児から高校3年生まで年齢幅は広いのでその品物は本当に多岐に渡ります。高学年生に多く見られたのは図書券でした。きっと進学・進級に備えて必要な参考書などを求めるときに利用される事でしょう。小中学生で一番多かったのは今年もゲームソフトでした。この傾向は第1回目のサンタプロジェクトの時から続いています。東北の厳しい冬の間は子供さん達も室内で過ごす時間がやはり長くなりますので、ゲームで遊ぶ機会も増えるのでしょう。中にはクラブ活動で使用する為のスポーツ用品を申し込まれた中学生もいらっしゃいました。サッカーにソフトボール、みなさん頑張って下さいね。それから妹や弟がいるお子さん達からはそんな妹弟を思いやって一緒に遊べる品物を申し込まれたお子さんも複数いらっしゃいました。決して良いとは言い難い仮設住宅での生活環境は様々な制約を住民の方々に課せています。そんな中幼い兄弟姉妹が助け合い思いやり合いながら生活しているのです。今は何かと辛い環境の中での生活ですが少し先の将来、生活環境が大きく改善された後もこうした親子兄弟が思いやり合うという大切な気持ち・心がけは是非とも仮設住宅に置き忘れる事なくずっと大切にして欲しいものです。0歳児のお子さんからは紙おむつやミルクのお申し込みがありました。益々の健やかな成長を願っています。震災以来、女川町では人口の減少傾向が続いています。事実清水仮設住宅だけで見ましても平成23年のサンタプロジェクトの時に対象となったお子さんは85名でしたが翌年は66名、そして今年は63名と減少の一途をたどっています。しかしそんな中、震災後に誕生したお子さん達も63名中7名いらっしゃる事はまさに希望です。ところでこの時期は日本中がクリスマスムードに包まれ、その結果おもちゃ関連の商品が最も売れる時期だそうです。ということは人気のある玩具などは当然品薄傾向になる訳で、その最たる品物が実はゲームソフトです。各メーカーもこのクリスマス商戦を逃すまいとこの時期に合わせて新しいゲームソフトを発売します。その結果、人気のあるゲームソフトはあっという間に売り切れということも決して珍しくありません。そうした世の中の現状に我が支援隊も冷や汗をかかされることしばしばです。毎年申し込まれた品物はその利便性からネットショップで買い求める事が多いのですが、こちらが希望する期日までに配送が確約できない品物に関しましてはその限りではありません。で、どうするかと言いますとズバリ!人海戦術です。日頃から支援活動に参加してくれているスタッフの皆さんの力もお借りしてとにかくネットショップで入手出来なかった品物を取り扱っていそうなお店に問い合わせ品物を確保するという手段をとります。中には“限定お一人様1つ限り”の品物を同日に服装まで変えて2つ手に入れたケースもありました(笑)。まさに東奔西走、品物確保にご協力してくださった皆さん、今回も本当にありがとうございました。出発一週間前ともなりますとあらかじめ手配する事の出来た品物が続々と送られてきます。その1つ1つをその都度間違いがないか確認し、また包装がお願いできなかった品物は包装を施します。そして最終的にお子さんの名前と住所を書き入れた名札をつけ、渡し間違えのない様に仮設住宅の棟ごとに大きな袋に入れて行くのです。今回の品物用意が万端終了したのは出発日の22日の午後でした。まさに“冷や汗もの”の作業でした。
こうして揃えられた品物と支援スタッフを載せた支援車両は午後22時を過ぎた頃12月22日のクリスマスでひときわにぎわいを見せる渋谷の繁華街を背にして一路宮城県に向かって東京布教所を出発しました。数日前から日本列島を寒気が覆っていた影響もあり放射能数値計測のため立ち寄った高速道路のサービスエリアは軒並み氷点下の気温でした。関東にあられが降り、東京も初雪を観測した20日には北関東から東北にかけては積雪した様で那須高原から先では路肩に雪が残っていました。いつもであれば女川町まで直行するのですが、今回は仙台市宮城野区にある専門学校に立ち寄りました。ここ仙台コミュニケーションアート専門学校(SCA)は宗信寺のあるお檀家様が全国各都市で運営する専門学校の中の一校です。この学校には将来パティシエや喫茶店経営を目指す学生さんの学ぶ学科があり、第1回サンタプロジェクト以来、毎回この学校の講師・学生有志の皆さんが仮設住宅にお届けするケーキ作りを担当してくださっています。今年は学生の皆さんは全員1年生、学校関係者併せて17名の皆さんがこの支援に参加してくださいました。23日の午前7時過ぎ、学校に到着してSCA支援チームと合流し、先ずは保冷車に160個のケーキを積み込み先発させてその後、合同チームでミーティングを済ませた後、一緒に女川町目指して出発しました。このケーキを作るのにはおよそ7日間が費やされたそうです。いくら最新の設備が整った学校とはいえ160個ものケーキを同時に作るのは容易な事ではありません。ましてすばらしい講師陣の手ほどきがあるにせよ、実際に作るのは1年生の学生さん達です。そんな中、生クリームを用いての最後のデコレーションは出発前日に作業してくださるなどして極めて鮮度の高い美味しいケーキに仕上げてくださいました。SCAの皆さん、本当にお疲れ様でした。そしてありがとうございました。
午前10時を少し過ぎた頃、支援隊一行は女川港に到着後、早速皆で大震災によって尊い命を亡くされた方々、犠牲となったペット・家畜一切の為の供養を営みました。そして港で先発していたケーキを積んだ保冷車と合流して今回の主たる支援先である清水仮設住宅に向かいました。仮設住宅では自治会長さんや役員さんをはじめとしいつもお世話になっている皆さんがお迎えして下さいました。集会所にケーキとプレゼントを一旦降ろした後、学生さん達はコックコートにクリスマスハットの出で立ち、支援隊スタッフは3名がサンタクロースのコスチュームに着替え、配布の手順を確認しながらケーキは仮設住宅全員の皆さんに、そしてプレゼントはお子さん達の手に渡されていきました。ケーキやプレゼントを受け取る時の皆さんの表情をお伝えできないのは本当に残念ですが、それは支援に携わった私たちが本当に嬉しくなる程素敵でした。キラキラしていたという表現が一番適当だと思う程本当に皆さん素敵なお顔でした。
多くの支援スタッフが配布作業を行っている間、私は20個のケーキを車に積み込み鷲神浜上五区のこの夏にようやく再建されたこの地区の集会所に向かいました。この日、この地区では大掃除が行われ敬老会の皆さんが作業終了後にこの集会所で休憩されていたからです。地元では“お茶っこ”というそうです。その席にケーキを届けさせて頂きました。また清水仮設に戻ってからは災害FM局のFM女川の放送を通じて申し込まれたプレゼントを局のスタッフの方にケーキと共にお渡ししました。こうしてケーキとプレゼントのお届けはお昼過ぎには終了する事が出来ました。昼食は清水仮設の集会所を使用させて頂き営業を再開している地元の飲食店からお弁当を届けてもらい皆で頂きました。その折には清水仮設の皆さんが用意してくれた牡蠣のすまし汁や自家製のお漬け物等を振る舞って頂きました。お世辞抜きにどれも本当に美味しく、お漬け物などは同行していたSCAの講師の先生が地元の方からレシピを教えて頂きお土産に持って帰られる程でした。食後には仮設住宅の皆さんにお集まり頂き宗信寺支援隊として今回も参加してくれた歌手の友香さんに寄るクリスマスコンサートが約50分の間行われました。集会所には宗信寺支援隊が提供している通信カラオケ機材があるので今回はその機材を使用しました。いつもながら感じる事なのですが歌は本当にすばらしい力を秘めています。最初は少し表情が固そうに見えたおじいちゃんおばあちゃん達も友香さんの済んだきれいな歌声が響き始めると自然とその表情はほころび始め、気がつけば初めて聞くであろう洋楽の歌も画面の歌詞を見ながら一緒に口ずさんでいるではありませんか!こうして住民の皆さんとSCAの皆さん、そして宗信寺支援隊スタッフとの楽しいひとときはあっという間に過ぎていきました。
午後3時を過ぎた頃、SCAの皆さんを見送った後、沢山の住民の皆さんにお見送り頂きながら女川町を出発した私たちは帰路につく事無くある場所に向かいました。実はSCAの皆さんには1つだけ多くケーキ作りをお願いしてあったのですがその最後の1つのケーキを届けに大川小学校に向かったのです。周囲のかさ上げ工事が本格化して一層殺風景に見える地域の一角に大川小学校の校舎はいつもと変わらぬ表情でたたずんでいました。校舎の前に到着すると校舎の中にはイルミネーションで彩られた大きなクリスマスツリーが飾られていました。到着したのがもう夕暮れの時間帯だった事もあり、ツリーははっきりくっきりとその輪郭を表しその存在を主張していました。きっと保護者の方か学校関連の方々が設置されたのでしょう。私たちは最後のひとつとなったケーキを慰霊段にお供えし、皆でしばしの供養を営みました。こうして今回の『第3回サンタプロジェクト』は無事に目的を終了させる事が出来ました。
帰路についてしばらくしたところで高速道路に入る前に石巻市内のとある道の駅に立ち寄りました。その施設内のある売店で軽めの飲食をしているとそのお店の店主の方が「今も支援に来てくれてるの?」と声をかけてきました。きっと宗信寺支援隊のスタッフジャンパーを見て気づかれたのでしょう。疲労こそあれ今回も滞り無く無事に支援活動を終える事が出来た私たちはある種の達成感にしたりながら皆、口々に「はい・・」と返事をするとそこから店主の方の話が始まりました。
お聞きするところ、あの大震災で亡くなられた方々の中に複数のご親族が含まれていたこと、そして大川小学校の当時の教頭先生も1年生だったお子さんも共にそれぞれ親戚であった事を話してくださいました。そしてその後に我々の目も覚める様な厳しい現実が語られました。大震災当日の平成23年3月11日、この日は大川小学校の校長先生は不在だったそうです。よって大震災発生後の学校の責任者は教頭先生が担う事となりました。大川小学校はそれまでは地震などの自然災害発生時には地域の避難所としての役割も与えられていました。ですからあの大地震の直後から小学校には児童だけでなく近隣の住民の方々も沢山避難されていたはずです。そもそも避難所に指定されているという事は仮に大津波が発生しても学校にまでは押し寄せる事は無いという判断がされていたという事になります。事実その校舎は誠に堅牢な作りで大地震が発生した直後にはほとんど被害は無かったそうです。更にその後に発生した大津波に呑み込まれようともいまなおその原型をとどめている事からもそのことは明らかです。この大川小学校においてはその後の避難場所が大きな問題となりました。つまり実際に目指した三角点と呼ばれる高台ではなく、もし学校の裏山に避難していたなら多くの児童の命は助かったであろうという事から学校側の責任が厳しく追求されたのです。事実、避難誘導を無視して1人裏山に逃げ込んだ児童は命を落とす事はありませんでした。日常的に裏山で遊ぶ習慣があった児童達にとっては山の急な斜面も苦にはならなかったでしょう。しかし皮肉にも当日避難所としての大川小学校の校庭に集まっていたのは児童だけでは無かったのです。それこそ、杖が必要なおじいちゃんおばあちゃんも含まれていたのです。学校の責任者であると同時に避難所の責任者でもあった教頭先生が最終的に判断したのは“全員が避難できる場所”という選択肢ではなかったのでしょうか・・・。教頭先生のご遺体は被災後しばらくして発見されました。喪主は年老いた親御様が勤められたそうです。日蓮聖人をして「この世で最も辛く悲しい事は親が子をおくることだ」といわしめるほどの惨劇の中、その親御様は店主の方にこんな事をおっしゃったそうです。「息子は死んでよかったんだ・・・」と。多くの児童が命を亡くす中、もし責任者としてその場にいた息子が助かっていたらどれほどその後の人生が針のむしろの上におかれる様なものになったかを思うと死んだ方がましだったという意味でしょう。親が子を思えばこそとはいえ忍ぶにも忍び難き事であるのは言うまでもありません。教頭先生の葬儀は保護者の参列もほとんどない中、ごく少数の身内の方々の手によってひっそりと営まれたそうです。かたやもう1人の親族であった1年生のお子さんの葬儀にはかくも沢山の参列者が足を運ばれたそうです。大震災が発生してから早いものでもう2年と9ヶ月という時間が瞬く間に過ぎていきました。この間、目に見えて復旧作業が進展している部分がある反面、まるで時が止まってしまったかの様な心境で毎日を過ごしている方々も沢山いらっしゃるという現実を私たちはしっかりと認識しなくてはいけません。被災地が真の復興の時を迎えるその日まで・・・。
今年も宗信寺支援隊の活動に対しましては本当に多くの皆様からの応援・御支援を頂きました。実質的な活動に加え日頃より陰で支えて下さっている多くの支援者の皆様の被災地を思うその御心を被災者の方々にお届けする事を第一に支援活動に取り組んで参りました。被災地には未だ先の見えない不安を抱きながら日々を暮らす方々が沢山いらっしゃいます。宗信寺支援隊はこれからもそんな方々に寄り添う事をモットーに心ある支援活動を継続して参る覚悟です。皆様の変わらぬご協力を心よりお願い申し上げます。そしてそんな皆様が大震災をきっかけとして見直され再認識されました家族の絆、夫婦の絆、親子の絆、兄弟姉妹の絆、親族の絆、親友の絆・・・こうしたかけがえのないもの、大切にすべきものを尊びより穏やかな日常を実現されます事を心より祈念申し上げます。 合掌
宗信寺支援隊 主宰 宗信寺 住職 岡 貞潤
第三回『サンタプロジェクト』実施のご案内
合掌
本年も12月に入り残すところあとわずかとなりました。年末の時期を皆様いかがお過ごしでしょうか。さて、宗信寺支援隊では今年も今月23日、大震災以後未だ復興ままならぬ被災地の一つ、宮城県女川町にて第三回サンタプロジェクトの支援活動を実施することといたしました。今回も昨年同様仮設住宅に暮らす高校生以下のお子さん約80人に対し事前にお申し込み頂いた本人希望の品物をお贈りし、仮設住宅の住民の皆さんには約160個のクリスマスケーキをお届けいたします。つきましては一人でも多くの方々の応援を賜りたくここにその活動を告知させて頂き御支援を心よりお願い申し上げます。お共感頂けました皆様の義援金受付先は下記の通りです。
☆ゆうちょ銀行
記号10210 番号51350321
宗教法人 宗信寺
☆三菱東京UFJ銀行
店番133表参道支店 普通0898031
宗教法人 宗信寺 代表役員 岡 貞潤(おか ていじゅん)
☆現金書留
〒259-1201 神奈川県平塚市南金目2336
日蓮宗 宗信寺
※お問い合わせ先
電話: 0463-59-7235
E-mail:
myoho@soushinji.com
お一人でも多くの皆様の当支援活動へのご参加・ご協力を切にお願い申し上げます。
再拝
宗信寺支援隊 主宰 宗信寺 住職 岡 貞潤
ラジオ番組出演
今年も師走に入り、いよいよ何かと気ぜわしくなり始めたこの3日、かねてよりご信者の方から出演を依頼されていたラジオ番組の収録のため、FM湘南ナパサのスタジオにお邪魔してきました。そしてこのラジオ局の番組『この人と60分』という番組に出演させて頂きました。1時間番組という事で話の時間はどれくらいあるのかなと思っていましたが、番組中3曲間に流れる意外は基本的に9割近くが私のおしゃべりという事で、それが番組のいつものスタイルなんだそうですが、正直少々恐縮してしまいました。なお、放送は12月7日の午前9時からと再放送が10日午後3時からだそうです。
FM湘南の周波数は78.3MHz、お時間のある方は聞いてみて下さいね。
七面山登詣
秋も日に日に深まりを見せる11月の9〜10日の日程で今年も宗信寺檀信徒有志の皆さんと七面山の登詣修行に行って参りました。毎年、お山に登る時に心配されるのが天候と交通渋滞なのですが今年は幸いにしてそのどちらも問題となる事はありませんでした。通常お山の麓までは中央高速を用いて向かうのですがこの時期は高速道路沿線の紅葉狩りの季節とも重なる事から交通集中による渋滞が毎年生じます。まして途中事故などが発生しますとその影響は更に大きなものとなってしまいます。いつもは渋谷の宗信寺東京布教所を午前7時に出発するのですが、今年はその時間を1時間早め午前6時出発としました。神奈川方面から現地で合流する皆さんにもその旨を伝えての出発となりました。この時間を早めた事が功を奏したのか道中での渋滞箇所は皆無で午前9時過ぎには待ち合わせ場所のひのや別館に到着する事が出来ました。その後現地集合の参加者の皆さんも続々と到着し総勢21名で午前10時過ぎには山頂の奥之院目指して出発しました。例年ですと先頭と最後尾が1時間以上離れてしまう事も珍しくないのですが、今年はおよそ30〜40分程の時間差で済み、まだ日差しのある内に全員が奥之院に到着する事が出来ました。祈願や供養の申し込みなどの諸手続きを済ませた後は入浴・夕食・勤行と続き、部屋に戻ってからはお神酒を頂きながら皆でいろんな話で盛り上がる中、秋の夜長はふけていきました。翌朝、残念ながらきれいなご来光とはなりませんでしたが霊峰富士山を仰ぎながら遥か雲海の彼方から辺りを朱一色に染め上げる朝日が上り始めると皆、思わず手を合わせ各々の祈りを捧げました。朝勤・朝食の後は早速下山開始となりました。登りと違い下りの道中は気持ちにも多少ゆとりがあるせいか、山々の紅葉も昨日以上に楽しむ事が出来ました。そして全員が無事下山した後はクライマックスの滝行でした。今回は7人の男性参加者に加え何と初めて3人の女性の滝行参加者もいらっしゃいました。厳しい冷え込みはなかったとはいえ、例年通りお萬様の御滝の水はとても冷たかったのですが男女を問わず滝行に挑んだ皆さんは凛とした表情で滝水を浴び、その後は晴れやかな表情となられました。日頃はなかなか経験の出来ない事でもありますので皆さんその感動も一入であった様です。着替えを済ました一行はいつもなら下部温泉に向かうところですが今年は麓の更に上流の雨畑という部落にある温泉施設に向かいました。この建物は近年まで分校として使用されていたものを閉校を機に建物全体をリノベーションして宿泊可能な温泉施設として再生されました。料理は基本的に地元でとれた山菜や野菜を中心に献立が作られ、これまた地元のご婦人方によって提供されます。その素朴な味わいに皆さん舌鼓を打っていました。下山直前の二丁目辺りから小雨に降られこそしましたが、全員怪我もなく清々しい気持ちでお山を後にする事が出来ました。今回ご参加になられました檀信徒有志の皆さん、本当にお疲れ様でした。
被災地へ 〜第27回〜
あの東日本大震災発生から2年7ヶ月以上が過ぎ、依然としてなかなか進展しない復興状況の中、被災地の地元の方々自らが立ち上がり様々な取り組みが始まっています。そんな活動の一つが10月27日いつもお邪魔している女川町で行われました。震災前、女川町では女川商工会主催の『商工祭』が毎年秋に行われていました。しかし、大震災と大津波で町のおよそ8割が流失してしまうという壊滅的な被害を被った女川町では多くの商店や工場もその例外ではなく、結果町民の皆さんが楽しみにしていた商工祭も開催ができない状態が2年続きました。しかし、今年は早くから関係者の皆さんが準備に取りかかり、本年秋の開催を目指して来ました。宗信寺支援隊に女川商工会議所の役員さんから商工祭実施にあたっての後援依頼のお話を頂いたのは今年の4月のことでした。そしてそのお祭りのタイトルは従来の「商工祭」ではなく『女川サイコーまつり』と改められ会場も仮設の施設である希望の鐘商店街で行われることになりました。今回私たちが事前に依頼を受けたのは特設されるイベントステージのおよそ2時間30分ほどの運営でした。つまりステージでコンサートをしてくれるアーティストを探し、まかされた時間を歌声でいっぱいにすることでした。ただこれは内容が内容だけに自分たち自らがステージ上で歌うことなどできない以上、私たちは裏方に徹して見える部分は全て人任せになるということで準備もこれまで通りとはいかず、初めて経験することも多々ありました。今回の支援においては幸い以前からおつきあいのある芸能関係の方々にお声をかけさせて頂くところから着手しました。実は恥ずかしながら私の中には少々甘い考えがありました。前述したいわゆる芸能関係の知り合いは信者さんも含め複数いらっしゃるので実際に声さえかければ簡単に集まるだろうと高をくくっていたのです。ですから私はもっぱら芸能界的にいうアゴ・アシ・マクラ、つまりは食事と移動手段そして宿泊先の手配さえできればそう苦労はないだろうと甘い考えを持っていたのです。そこで先ずは親しい芸能事務所の社長さんに今回の支援の相談をしました。その時点では社長さんも賛同してくださり、私のご縁のない芸能人の方やアーティスト、スポーツ選手にも声をかけてくださることになりました。コンサートだけではなく、メジャーなスポーツ選手のトークショーなども開催できればと、私の頭の中では早くも当日のステージのイメージがどんどん膨らんでいきました。私は6月の寶塔移設や夏祭りへの支援の準備もありましたのでステージ上の人選はもっぱら社長さんがそろえてくれるのを楽しみにしつつ、自分でできること、すべきことを淡々と取り組み時間は経過していきました。そしてアーティストの皆さんが日本各地で行われる夏フェスで多忙を極めていた8月の下旬、前述の社長さんから連絡がありました。その内容は「ところで出演アーティストのギャラは?」というものでした。私は一瞬戸惑いましたが気を取り直して「今回は支援イベントなので基本的にお礼は難しい」という旨の返答をしました。するとその先の会話は残念ながら弾む内容とはなりませんでした。むろん、最後には「では、ノーギャラでも出演してくれるアーティストなりをもう一度探してみます。」となった訳ですが、私は既に大失敗をしでかした様な気持ちになっていました。あろう事か一番肝心な部分を安易に人任せにしていたせいです。ただ『女川サイコーまつり』の開催日はもうすぐそこまで迫っていました。私は気を取り直し直接お願いのできるアーティストの方々に連絡をとってみることにしました。幸い連絡のとれた方々は皆、前向きに検討してくださいました。ただし、既にほかの仕事が入っている場合には変更やキャンセルは当然ながらお願いできる訳もありませんでした。ただ「調整してみます!」という返事をくださった方々もいらっしゃったので刻一刻と当日が迫る中、ひたすら良い知らせが届くのを待ちました。そして結果、6人のアーティストの方々がボランティアで出演してくれることになったのです。出演者はCMソングで一斉を風靡した方、上海万博に日本POPSの代表として出演した方、現役人気アイドルに楽曲を提供している方、メジャーグループのメンバー、この曲を知らない人はいないというほどのアニメソングが持ち歌の方、Vシネマで活躍している方など本当に短期間でよくぞここまで集まってくださいましたといわんばかりのそうそうたる顔ぶれとなりました。9月の下旬、今回のイベントの宣伝・告知のためのポスターを制作することになり、女川商工会の皆さんに出演が決定したアーティストの皆さんのお名前をお伝えしたときには本当に喜んで頂く事が出来ました。こうして一番肝心な出演者が決まったとはいえ、準備はこれで終わりという訳にはいきませんでした。実際、コンサートをするにあたっては女川で用意できる音響設備を確認してそれにあわせた準備をアーティストの皆さんにお願いしたり、移動手段の手配、宿泊先の手配、当日の昼食の手配など、やることはたくさんありました。またコンサート開催にあたり、事前に参加アーティストの皆さんとの顔合わせも行いました。そこでは今までの経緯や今回のイベントの趣旨、開催されることの意義などをお伝えさせて頂き、皆さんからは胸の熱くなるような賛同の言葉を頂くことができました。実は今回のこの商工会主催のイベントは直前になって開催が危ぶまれるという事態に陥るという場面がありました。その原因は準備の不備とかいうことではなく皮肉にも自然災害でした。そうです!台風28号の襲来です。予報では26日から27日にかけて東北地方に上陸する危険性がありました。台風の進路が刻一刻と気象庁から発表される中、一時は日程の変更もやむなしといったこともありました。しかしながら幸いにして最終的には当初の予報よりも台風の進路が南側の太平洋上にそれたため、女川町一帯は直撃を免れました。当日は多少の台風の吹き返しの風は残ったものの秋晴れの晴天に恵まれ、こうして3年ぶりに女川の皆さん念願の『女川サイコーまつり』は開催されました。ところで毎回のことではありますが、宗信寺支援隊の活動の支えとなっていますのは支援者の皆さんからの義援金です。ですから少しでも節約してその分を支援物資などの調達に使わせて頂くということが基本です。よって今まで支援隊本体が宿泊施設を使用したことは過去一度もありません。せいぜい車の中で仮眠をとる程度です。ですが今回ボランティアでの出演を快諾してくださったアーティストの皆さんには前日に女川に到着して頂き、翌日に備えて頂きたいと考えていました。そこで女川商工会の役員さんを通じて手配して頂いた大地震に耐え、唯一大津波の被害を逃れた華夕美という温泉ホテルに前泊して頂くことにしました。そして今回裏方に回る支援隊本体は前日の26日の夜、いつもの様に渋谷の宗信寺東京布教所を出発、翌27日の早朝5時に女川港に到着し、物故者の方々のご供養をお勤めした後、女川で一番の高台にある熊野神社にお参りし、祭りの成功と早期の復興をお祈りしました。この神社からは女川の町があった地域が一望できます。かつてその眼下にあったであろう女川の方々の穏やかな日常を偲びつつ、今はただただ広がる何もない大地にそう遠くない将来、新たな女川の町が再建される事を思い浮かべながら私たちはしばしその光景を眺めました。その後、アーティストの皆さんとの待ち合わせ場所である華夕美に午前6時に到着しました。ホテルで合流後、皆で朝食を頂き、そこからは全員そろって会場に向かいました。会場となった希望の鐘商店街では各店舗は無論の事、用意されたテントでは様々な模擬店が軒を並べました。あちらこちらから美味しそうな香りも漂ってきます。それらの誘惑にかられる気持ちを押さえながらみんなでライブの準備に取りかかりました。ライブに一番肝心なのは音合わせということでアーティストの皆さんは限られた時間の中で手際良くその作業を進めていきました。私たちは裏方に回り、手分けをしてアーティストの皆さんのフォローや商工会の皆さんのお手伝いなどに取り組みました。そしていよいよライブステージ午前の部が始まりました。イベント広場には小さなお子さんからおじいちゃんおばあちゃんまで正に女川の町、いやそれ以外の地域からも沢山の老若男女が集りました。中には本日の出演アーティストのファンの方で私たちと同じ京浜地区から来て下さった方々も見受けられました。いつもライブ会場で思う事は音楽の持つ力の凄さです。それは今回も例外ではなく、楽器の演奏が始まった瞬間に会場中に独特の一体感が生まれ、更に知っている曲になるとみんな歌詞を口にしてものすごい盛り上がりを見せました。中でも国民的人気アニメのチビまる子の主題歌“踊るポンポコリン”が始まるとイントロから会場は全員総立ち状態で、みんなで振り付けまで一緒に楽しむ事が出来ました。
午前の部が終了した後、一旦楽屋に引き上げたのですが、今回も昼食は梁取先生と遠藤先生が沢山の手料理でもてなして下さいました。実は事前にその旨のお声をかけて頂いていたのですが、いつもの支援スタッフが5〜6人とは違い今回は大所帯だったので、さすがに申し訳なく丁重にご辞退させて頂いていました。ですからお昼ご飯は模擬店の食べ物で済ませようと思っていたのです。しかし結果的には先頃完成したばかりの鷲神浜地区の真新しい集会場をお借りして総勢15名がお腹一杯になるほどの女川の海の幸をふんだんに用いた食事を御馳走になる事となりました。これにはアーティストの皆さんも「美味しい!美味しい!」を連呼して本当に喜んで頂く事が出来ました。そして私は食後にとても感心すると同時に嬉しくなる光景を目にする事となりました。アーティストの皆さんが食べきれなかったお料理を頂いていくと言う事できちんとラップでつつみ始めたのです。食べ残して用意して頂いたお料理が無駄にならない様に・・・。それは商工会の皆さんが楽屋に用意して下さったお弁当も同様でした。全て残さず帰りにはバスに積み込んだのです。この皆さんの姿を見て、私は何年か前のある事を思い出しました。それは大震災以後、ずっと継続した支援を頂いているタレントの三宅裕司さんご家族から食事に誘って頂いた時の事でした。その時は和食屋さんにお連れ頂いたのですが、食事が終わると奥さんの正子さんがお店の方に折箱を頂いて残った天ぷらなどをお持ち帰りになられたのです。もちろん既に三宅裕司さんを知らない人はいない程メジャーになってからの事です。芸能人というととかく華やかなイメージがつきまとうかも知れませんが、人気が出た後も人として大切なこうした気持ちを忘れず、自然に振る舞う事は出来そうでなかなか出来ない事でもあります。今回の支援に参加して下さったアーティストの皆さんも皆、メジャーな方々です。しかし、前述の心と価値観をお持ちの方々でした。こうした皆さんに私は人の本質的なところでの共通した大切なものを感じました。だから支援が必要とあらば、ためらう事なく尽力して下さるのだとも思いました。
とても美味しい昼ご飯でパワーを充填したアーティストの皆さんが午後の90分に及ぶライブステージも盛り上げてくれたのは言うまでもありません。こうして時々暖かな日差しも降り注ぐ中、午前午後2度のステージは集まった皆さんの大声援の中、無事に終了する事が出来ました。
女川を後にした我々一行は帰路につく前にある場所に向かいました。その目的地は北上川沿いにある石巻の大川小学校でした。今回のこの支援活動の打ち合わせの中で私が大川小学校の話をさせてて頂いたところ、アーティストの皆さんが是非ともみんなで供養に行こうと言って下さったのです。秋の日差しが傾き始めた頃、私たちは大川小学校に到着しました。そして校庭奥に新たに建てられた立派な慰霊碑の前ではなく震災直後より校舎の前にご父兄によって用意された慰霊段にて供養を営みました。目に涙を浮かべながら静かに手を合わせる皆さんの気持ちがこの地で無くなられた多くの学童や住民の方々に届く事を心から願いました。
お会式
秋季彼岸会
9月20日から26日までの1週間は秋のお彼岸でした。今年は夏の猛暑の影響か諺通りに“暑さ寒さも彼岸まで”とはいかず、日中はまだまだ夏を思わせるような残暑の続くお彼岸となりました。ただそうは言いつつも朝晩には少しずつではありますがもう秋がすぐそこまで来ていることを気づかされるこの時期ならではの空気を肌で感じることができました。毎回お彼岸には本当にたくさんの皆さんがお墓参りにお見えになります。老若男女、おじいちゃんおばあちゃんから小さなお子さんたちまで・・・。本当に境内がにぎやかになります。ご先祖様もなんだかウキウキしている様に感じるのは私だけではないのではないでしょうか。やはりこの世とあの世に関係なく最愛の人と時を共にするのは喜ばしいことですよね。ところで話は少々それますが毎年お参りしている山梨県にある七面山の山頂からは富士山がとても良く見えるのですが、春と秋のお彼岸のお中日にはご来光が何と富士山の山頂から上るのです。最近こそ実際にそのご来光を拝む機会はありませんが、高校生の時、春のお彼岸中に七面山の奥之院のお手伝いに伺っていた折、そのご来光を拝むことができました。それはそれはすばらしく正に“神々しい”という形容がふさわしいご来光でした。次にその姿を拝むことができるのは来年の春のお彼岸となりますが、ご興味のある方はお参りされてみてはいかがでしょうか。
施餓鬼法要
8月18日、皮肉にも天気予報通りの晴天、酷暑の中、宗信寺では施餓鬼法要が営まれました。
この厳しい暑さの中にも関わらず、120人を超える檀信徒の皆さんの御参詣を頂き本堂入りきれない程でした。宗信寺の本堂は冷暖房の設備がございませんので冬は寒く、夏は暑いという正に“御修行の為の場”です。まして施餓鬼法要となりますと皆さんが建立された卒塔婆を1本ずつお読み上げする事からどうしても長時間になってしまうのですが、どなたも不平不満を口にする事無くじっと辛抱していらっしゃいました。話は変わりますが同じ事を味わうのでもその時の心のあり方に寄ってずいぶんと違った印象を持つものです。例えば今回の施餓鬼法要もそうです。もし法要に出席するという目的の無いままに蒸し風呂の様な本堂に1時間以上じっとしている事とはほとんどの方にとって“辛い”事になるでしょう。しかし、法要に出てご先祖様を供養するという大切な目的があるとその辛さを乗り越える事が出来るのです。そして「ご先祖様のご供養が出来た!」という充実感を得る事が出来るのです。“辛い”と一瞬思えてしまう事でもそこに大切な何か1つが加わると意外とその辛さは辛い事では無くなってしまうものなのです。そういえば“辛”という字と“幸”という字は一番上の横棒が1本あるかないかだけの違いですね。この意味こそ正反対ですがたった1本の横棒の違いでしかないという事実は、私たちが日頃、辛いと思っている事でも大切な何かを加えれば幸せとして感じる事が出来る、また本当は幸せと意識できる事でも大切な何か1つが足りないとただ辛い事で終わってしまうという事を知らしてくれているのかも知れませんね。皆さんの日常には心当たりはありませんか?
8月お盆
記録的な猛暑が日本列島を襲った今年の8月。そして立秋とは名ばかりの厳しい残暑の中、8月のお盆を迎えました。8月のお盆は平塚界隈の比較的お寺に近い皆さんは今月がお盆という事で本当にお暑い中、多くの方々がお墓に参られました。ところで巷では7月のお盆を新盆、8月のお盆を旧盆と呼ぶ場合がありますが、これは明治政府が欧米の西洋暦を用いる様になってからの事です。それ以前は新盆といえばお亡くなりになって四十九日忌を過ぎて初めてお迎えになるお盆の事をいいましたが、今では見た目には変わりがありません。ただ読み方としては7月のお盆は
“しんぼん”、初めてのお盆は“にいぼん”と読んでその意味合いの区別をしています。
ところで今年ももう8月。残すところあと4ヶ月、節分で年の節目を考えても後5ヶ月です。念頭に立てた目標や豊富は皆さんどの程度実行できたでしょうか?お時間のある方は是非本年2月の
「立春」というタイトルの宗信寺かわら版を見て頂きたいと思います。そこには先人が残してくれた様々な知恵を駆使して今年の予想が掲載されています。半年が過ぎて果たして暦の予想はどうだったでしょうか・・・。そしてその予想の中で残りの今年の時間に活用できる知恵があれば是非とも活用して頂きたいと思います。
被災地へ 〜第26回〜
8月7日、宮城県の女川町に行ってきました。今回の支援活動には5つの目的がありました。先ずその1つ目は8月10〜11日の予定で行われる清水仮設住宅での夏祭り・盆踊りの物資面でのサポートでした。昨年は震災以来初めての夏祭り・盆踊りという事で行われた日にちが8月4日であった事も幸いし、宗信寺支援隊も複数の屋台を提供し、夏祭りと盆踊りの裏方を担わせて頂きました。しかし今年は日程が8月のお盆の時期と重なってしまったため当日参加が出来ませんでしたので事前に清水仮設住宅自治会の皆さんにお聞きしたところ“カラオケ大会の景品や盆踊りの参加賞として住民の皆さんにお渡しする品物を提供して欲しい”とのご要望がございました。そのご希望にお答えすべく7月上旬より、いつも御支援を頂いている皆さんや7月のお盆の棚経でお伺いした檀信徒の皆さんにその旨のご連絡をさせて頂き、結果約300人分のお品物を揃えて今回お届けする事が実現しました。物品をお持ち下さった皆さん、お送り下さった皆さん、義援金を寄せて下さった皆さん、その全ての皆さんの御心が重なり合って今回も被災地の皆さんのお声に答える支援活動が出来ました事をここにご報告いたし、心より御礼申し上げます。
2つ目の目的は7月31日ようやく鷲神浜上区に完成した集会所に備品をお届けする事でした。この地区は建物の多くが大津波によって半倒壊してしまい、震災後も住民の皆さんの多くが壊れた自宅での生活を余儀なくされた地域です。仮設住宅にはその建設と同時に集会所も併設して建てられたのですが、震災直後の支援の遅れが際立ったこのような地域ではそうした支援もまた例外ではなく、震災から間もなく2年5ヶ月を迎えようというこの7月31日についに完成に至ったのです。
こちらの地区の皆さんとも既に良いご縁を頂いておりましたので、必要な備品があればお伝え下さいと申し上げたところ、自治会長さんから遠慮がちに“もし出来ればホワイトボードをお願いしたい”とのご希望が寄せられました。今回、このホワイトボードは宗信寺のお檀家様の久保寺さんがご用意して下さいました。久保寺さんご夫妻は多くの支援者の皆さん同様、毎回心温まる応援を被災地に寄せて下さっている方々です。調度お墓参りにお見えになられた折、8月の支援の話題となり、そのお役をかって出て下さいました。清水仮設住宅で物資をお渡しした後この新しく完成した集会所に伺うと既に大勢の地区の皆さんが私たちの到着を待っていてくれました。早速、ホワイトボードの入った2つの大きな段ボール箱を支援車両の屋根から下ろし、住民の方々とみんなで組み立てました。その他、今回は皆さんの健康管理にお使い頂ける様にとの思いで血圧計と日常生活品を住民の方々にお届けさせて頂きました。そして3つ目の目的もこの集会場所にありました。実はかねてよりこの地区にお住まいの皆さんから“集会所が出来たら住職さんになんかいい話をして欲しい”というお声を頂いていました。そして今回、集会所が完成したという事で1時間程の法話会を開催させて頂く事になったのです。ただし正直なところ、ただでさえほとんどが目上の方々であるということに加えて全員があの大地震と大津波、更にはその後の悲惨な被災者生活を体験し乗り越えられてきた方々なのです。そうした皆さんの前でいかに僧侶とは申せ、私の様な者が話すべき事があるのか?ご依頼を受けてはみたものの、そんな思いが終止私の頭の中に存在していました。
そして法話会の第1回目は『心』というテーマでお話をさせて頂きました。
集会所を失礼した後、次の目的の為今度は第一保育所に向かいました。幼稚園ならば夏休みのこの時期ですが、保育所にはいつも通り沢山のお子さん達が通われています。今回はそんなお子さん達の為に沢山のおやつと給食に使って頂く為のお味噌、そして洗濯洗剤等をお届けさせて頂きました。調度お昼寝の時間でしたので元気なちびっ子たちの姿を拝見する事は出来ませんでしたが、次の機会にまたお会いするのが楽しみです。
そして最後の目的を果たすため車を北に進めました。そして目的地の大川小学校に到着しました。
この日も複数の方が大川小学校を訪れていました。そんな中、規制ロープ内の校舎に出たり入ったりしながら作業をしている数人の方々がいらっしゃいました。ご供養の為袈裟衣を纏い車外で身支度をしているとその内のお1人が声をかけて下さいました。お聞きすると学校の職員であるとの事。ただし震災以前からではなくその後、校舎内の整理や学校に関わる事に携わっているとの事でした。校庭奥の山の麓には今立派な慰霊の碑が建てられており、もうすぐ完成するそうです。しかし今回はそのせいか幾分寂しくなった今までの慰霊段の前でご供養させて頂きました。職員の方のお話ですと最近大川小学校を訪れる方々の目的が、どうも供養・慰霊というよりは何か観光名所を訪れる様な気構えで来る人が増えつつあるとのことでした。先日も大型バスで比較的若い方々が大勢来て慰霊段の前で長い間大声で雑談をしていたそうです。そして実はその後ろではこの地でお子さんを亡くされたご父兄のご家族が慰霊段の空くのをしばらく待っていたのですが、結局「今日はもう帰ろう…」といってその場を去られたそうです。こんな一瞬耳を疑う様な事が少しずつですが増えてきているというのです。何という事でしょうか…。ただ次の瞬間、私はこんな出来事を思い出しました。もうかれこれ25年以上前のことです。当時私は宗信寺の親寺である青山の妙圓寺というお寺でお給仕をさせて頂いておりました。ご住職様がご高齢であった事もあり、晩年はどこに行かれるにもほとんどご一緒でした。妙圓寺はにぎやかな原宿駅を最寄り駅とし表参道から少し入った住宅街に江戸時代の初期に建立され今に至っています。今では押しも押されぬ正に都心の一等地にあるお寺です。その大寺のご住職が表参道を通りかかると必ず合掌して礼拝される場所がある事に私はある時気がつきました。ただその場所は例えば慰霊碑や何かがある訳ではありません。でも徒歩の時には立ち止まり、車の時でも車窓からそちらに直り、合掌、礼拝されるのです。無論、最初はあまり気に留めてはいなかったのですが、そのうちだんだんと気になる様になりましてついにある時ご住職様にお聞きしたのです。するとご住職様は静かにそして穏やかに優しい口調でこんなお話を聞かせてくれました。「岡君は確か、昭和の40年生まれだったよね、東京オリンピックの翌年だ。岡君が生まれた頃と比べてみてもお寺の周りはずいぶんと様変わりしたもんだなあ。私は原宿で生まれ育っているからまだお寺から原宿駅が見えた頃からの思い出があるんだ。もちろん忘れちゃっている事もあるだろうけどね…。でも今でも昨日の事の様にまぶたに焼き付いている記憶もあるんだよ。それが終戦の年の5月25日の大空襲の時の記憶なんだよ…。」そこまでお話しになるとご住職様は深く大きく息をされてまた語り始めました。「東京大空襲というとみんな3月10日という印象が強いんじゃないかな。でもこの辺りは5月25日の空襲で全てが灰になったんだ。当然妙圓寺の本堂、庫裏も全焼だった…。残ったのはあらかじめ防空壕に避難させておいたお祖師様と毘沙門様のお像くらいかな。あとは全部焼けた。で、私の記憶に鮮明に残っている光景というのが表参道を横切る様に流れていた小さな川の水を求めて折り重なる様にして亡くなられた沢山の人の山。その人達の光景が何年、何十年たった今でも昨日の事の様に脳裏に焼き付いているんだよ…。私も僧侶の端くれとしてね、また今はもう少なくなってしまったけれど、当時のこの辺の様子を見てきた1人としてせめて手を合わせられる内はしなくちゃって思ってるし、いつ来てもこの場所を通りかかると自然と体が動いてしまうんだよ…」。ご住職様から発せられたその言葉は何の質問の余地もない絶対的な説得力のあるものでした。そして今、自分がこうして被災地に出向いているという事実を振り返りますと恥ずかしながら気づかされる部分が多々ありました。私にとりまして妙圓寺の先代ご住職様は正に心の師匠と仰ぐべきご立派な方でした。今は亡き先代様をがっかりさせる事の無い様、気を引き締め直してこれからも被災地の復興のお手伝いに及ばずながら精進して参りたいと存じます。今まで御支援を様々な形でお寄せ下さいました全ての方々に心より御礼申し上げますと共に今後も変わらぬ御支援を衷心よりお願い申し上げます。
ふじみ園合同法要
8月5日、この日平塚市にある特別救護施設であるふじみ園では合同法要が営まれました。この施設には現在、独居生活が困難になったおよそ190人の方々が共同生活を送られています。この1年間で亡くなられた方、代々の物故者、職員の皆さんも含めた各家の先祖供養をお勤めしました。今年は
“お盆”の謂れのお話をさせて頂きました。式場となった施設内ホールにはあふれんばかりの方々がお集りになり、厳粛な中にも盛況に法要が営まれました。
境内清掃
7月27日の土曜日、恒例の宗信寺境内清掃が行われました。毎年8月のお盆に先駆けて行われるこのお掃除はご参加下さった檀信徒の有志の皆さんによって境内はもとより、本堂内、墓域、植木に至るまで一斉に取りかかり行われます。今年もおじいちゃんおばあちゃんに混じって力持ちの若手のお孫さん達も沢山参加して下さいました。厳しい酷暑の中での作業となりましたが、早朝よりお集り頂きまして誠にありがとうございました。そしてご苦労様でした。ところで供養というと法要を営んだり、お墓参りをしたりという手段を連想する方が多いと思いますが、このような仏様の聖域を清め清掃する作業も仏様、ご先祖様を敬う行為な訳ですから手段、形こそ違いますが立派な供養の振る舞いです。宗信寺のお檀家のご先祖様もさぞお喜びになられた事でしょう。
ほうろく灸
7月22日、土用の丑の日を迎え宗信寺の親寺である青山の妙圓寺では江戸時代から続く伝統行事のほうろく灸が行われました。この歴史は古く、元は戦国時代に頭痛持ちの武将が兜の上から頭にお灸を据えた事から始まり、江戸時代に至り、豆を煎ったりするのに用いられていたほうろくという素焼きのお皿をかぶって頭部にお灸を据える様になり現在に至っています。ではなぜ土用の丑の日に行うのかと言いますとお灸を据える場所にその答えはあります。調度背筋をのばして姿勢を正すと背骨の延長線上、おつむのてっぺんには“百会”というツボがあります。このツボはその字の如く様々な神経が交わるという意味で多様な効能がある大切なツボです。頭痛は無論、体調不良等にも効果があるとされ、夏バテ・暑気払いのために土用の丑の日に行われる様になり、江戸時代には庶民の間に広く伝わりました。この日に鰻を食べる様になったのは江戸後期という事ですから庶民の夏バテ対策としてはこのほうろく灸の方が早く行われ始めたという事になります。この日も東京は猛暑に見舞われましたが、ご参加の皆さんの中には40代から毎年欠かさず参加しているという90歳を超えるご夫人をはじめとしまして皆さんハツラツとしてお灸を終えると帰路につかれていました。また同日小さなお子さんへの虫封じも行われました。
7月お盆
本年もお盆の時期を迎えました。今年は梅雨明け宣言が7月7日の七夕前の6日にあった事もあり、本当に暑いお盆でした。連日の猛暑日で朝お供えした生花が夕方にはしおれてしまう程で目に見える部分でも今年の暑さが尋常ではない事は充分に理解できました。私たち僧侶にとりましてはお盆と言えば“棚経”という事でこの時期にご依頼を頂いた檀信徒の皆さんのご自宅に伺いご先祖様をご供養するのですが、今年は初めて車にクーラーバッグとスポーツ選手がアイシングの時に使用する巾着のような形をしたアイスバッグを積み込んで出かけました。7月のお盆には東京都内、横浜・川崎方面・千葉・埼玉方面の檀信徒の皆様のご自宅にお伺いするのですが、半分以上はスクーターでお邪魔するので先ほどの“暑さ対策”も残念ながらお盆期間中ずっとという訳には行きませんでした。ただ本当に暑い時、後頭部や首元を冷やすとかなり体は楽になります。皆さんも機会があればどうぞお試し下さい。
献体者合同慰霊法要
7月9日、この日東京都大田区にある東邦大学医学部の解剖学講座においてこの1年間、医学部生の解剖学実習の為に献体をされた方々の合同慰霊法要が医学部教授ならびに講師スタッフの皆様参列のもと、厳粛に営まれました。この1年の間に48名の尊き志を持った方々が献体され、今回も解剖実習教室には沢山の棺が丁寧に並べられ、お一人ずつに御花が手向けられました。この合同法要を終えると献体者の皆様はいよいよ荼毘に付されご家族の元にお帰りになられます。こうした尊い行いを志し実現するためにはご本人の意思は無論の事、その意思を尊重するご家族の存在もまた無くてはならぬものです。献体者の方々とご家族の皆様に心から敬意を表します。 合掌
上海行き
梅雨時期とはいえ、大雨の続く沖縄・西日本地方と違い、神奈川県や東京都は空梅雨でまとまった雨もないまま7月を迎えました。当月は京浜地区の檀信徒の皆さんはお盆の時期となりますが、それに先駆ける3〜5日の日程で上海に行ってきました。今回の目的は学校のご祈祷です。ご承知の方も多いかと存じますが、宗信寺のあるお檀家様が運営している全国各都市の専門学校には毎年3月のお彼岸前にご祈祷に伺っています。今回はその姉妹校が今年の10月いよいよ上海に開校することとなり、開校に先駆けて校舎となる建物のお清めや運営に携わる日本人スタッフと中国人スタッフの皆さんにご祈祷をさせて頂きました。今回開校される専門学校はエンターテイメント業界で活躍できる人材を育成するための専科を備えた学校です。中国本土はおろか上海にも現時点で同種の学校は存在しません。いわば未知の領域での挑戦という事になります。しかし、この学校で学生の皆さんに提供される教育メソッドは日本において既に数十年の実績を積んできたものであり、今後、この新設校からすばらしい人材が育ち巣立って行く事は疑いのないところでしょう。折しも、上海ディズニーランドが2015年にオープンする事となり、オープニングの時点で約7000人以上のスタッフが必要となります。ここでも早速この学校の卒業生達が夢のある職場に即戦力の人材として迎えられる事でしょう。
今回はこのほかにも中国全土に数十校ある日本語学校本部にも伺いご祈祷させて頂きました。それぞれの学校でご祈祷の後に法話をさせて頂いたのですが、日本の学校とはいえ中国人スタッフの皆さん全員が日本語をマスターしているという事ではありませんでしたので人生初の“同時通訳法話”を経験しました。中国人スタッフの皆さんは皆、親日の方々ばかりなので尖閣諸島の問題以来、以前にも増して険悪になった日中関係、また抗日の態度を肌で感じる事は幸いにもありませんでした。
しかしながら、この時期熱波に見舞われた上海市内の気温は連日39度超え!建物の間を抜ける風邪も冗談ではなく本当にドライヤーの様な熱風でした。苦労とは思いもせぬところに潜んでいるものです。日本人スタッフの皆さん!暑さに負けずに頑張って下さいね!!
「奇跡の法塔」移設完了
6月12日、前日11日に宮城県女川町を出発した法塔を載せたトラックはこの日の早朝、無事に平塚市の指定場所に到着しました。台風3号の影響で前日から雨が降り続いていましたが宗信寺での据え付け作業の準備が万端整った午前9時頃にはその雨もやみ薄日が射してきました。宗信寺境内には大型のラフターが乗り入れられ、法塔はトラックの荷台から慎重に下ろされました。今までは常にほぼ横になっていた法塔がいよいよ垂直に建てられますと数値の上ではおよそ4メートルと承知はしていたもののその威風堂々たるお姿はあの大地震と山の様な瓦礫を巻き込んだ大津波に呑み込まれてもなお損壊する事すら無かった事を充分に納得させられる存在感です。宗信寺の境内には事前に総代役員会に了解を得た設置場所にコンクリートで基礎工事を済ませてありましたので、一旦地面に建てられた法塔は再度吊り上げられ向きを整えながら所定の位置に設置されました。その後は左右前後のバランスを確認しながら万が一の大地震に見舞われても倒れる事のない様頑丈に補強が施されました。ところでこの法塔移設のお話が具体的に持ち上がってから約3ヶ月で無事移設作業までが完了した訳ですが、実際の作業に至るまでは様々な事前準備が必要でした。その結果、11日に女川で積み込み作業をして翌12日に宗信寺に据え付け作業をすることになった訳です。ここでいざ作業の当日を迎えて驚いた事が2つありました。先ず1つ目の驚きは作業初日が震災犠牲者の方々にとって月命日となったこと、そして2つ目の驚きは法塔にとって新天地となった平塚の宗信寺にあらためて建立されたのが、法塔が女川の地に初めて建立された昭和10年2月12日と同じ12日となった事です。両日ともあらかじめその日を意識して予定をたてた訳ではないだけに何か運命的とでも申しましょうか、宿命を感じずにはいられませんでした。更にこの法塔を建立された小野寺妙貞法尼のご命日が同月6月16日である事からも、今回のこの法塔移転はなされるべくしてなされたと申し上げても過言ではないかと存じます。ここで作業翌日に小野寺妙貞法尼の御孫様で今回の事業の御施主様である齋藤さんから寄せられましたメールをご紹介させて頂きます。
感無量です
誠にありがとうございました
この度のご縁の
この道を選択してからも尚続いた
様々な葛藤も逡巡も
気の弱さから生じる重圧感も
本日全てが鎮まりました
真っ直ぐに凛として建つ姿に
ただただ感動と感激ばかりです
ありがとうございました
一昨日
ご住職様から頂戴した
『仏縁』という言葉に深い霧が ふわっと開け始め
明るさが心に射し込み
柔らかく気持ちがほぐれてゆくようでした
私の『縁もゆかりも無いご遠方の
檀家の皆様やご信徒様に
お助け頂くのは正しい事なのでしょうか』
という迷いを受けて
お掛けくださった
お悟しでした
ご住職様との出会いは
法塔様を介し
祖母の人生というものを辿る時間でありました
幼い頃の記憶と家族を振り返る
懐かしく切ない苦さをも伴った深い懐古の時を過ごさせて頂きました
母としてのゆるぎない愛から
信仰に身を捧げ
多くの功徳を積んだ尼僧としての生涯に
漸く光があたり
尊い仏縁を結ぶ今日につながったのだと
お教え頂いたと感じております
せめて家族が理解し讃えてあげるべきを
諸々の想いと思いがありすぎ
祖母に伝えないままの見送りを
今頃懺悔している有り様です
ご送信頂いた法塔様の御写真を姉に見せたくて
仙台に飛んで行き
『立派にして頂いたねえ、ありがたいねえ』と
繰り言のように
同じ言葉を交互に何度も呟いてきました
『これではまるで御題目唱えだねえ』と
互いの泣き顔に笑い出しながら。
感謝の想いを
心のままに綴れる文才があればと
嘆きながら
たったこれだけの文章をお届けするのに
夕方からやっとやっとの能力です
お礼が遅くなった言い訳でございます
末筆で失礼申し上げますが
心優しい奥様にも
どうかどうか感謝をお伝えくださいませ
私も主人もご夫妻の
大ファンになりました
お会い出来た奇蹟に
心から感謝致します
合掌
岡貞潤様 奥様
齋藤拝
今後は補強工事を滞り無く済ませ法塔の周りにはきれいなお花を植栽する予定です。この法塔は
東日本大震災の地震と大津波の被害を耐え乗り越えた奇跡の法塔として犠牲となった多くの方々の鎮魂のため、更には震災以後、今までもこれからも続いて行く被災地の皆さんと宗信寺檀信徒や有縁の支援者の皆さんとの心を繋ぐ絆の法塔として新天地である宗信寺において多くの方々に手を合わせられ、拝まれ、尊ばれ、大切に守られて行く事でしょう。なお、今回もこの法塔移設事業に対して多くの皆様の御支援を賜り、無事実現に至りましたこと、誠感謝の念にたえません。心より厚く御礼申し上げます。
南無妙法蓮華経
被災地へ 〜第25回〜
被災地へ 〜第24回〜
「スーちゃん」三回忌・偲ぶ会
4月21日、大震災発生から1ヶ月余りでお亡くなりになられた故田中好子さんの三回忌にあたりご生前から深きご縁をもたれていた方々、更には好子さんがキャンディーズの頃よりお亡くなりになるまで応援し続けたファンの方々など約200名が集まり、都内の好子さんゆかりの場所で「偲ぶ会」が催されました。会の中では有縁の方々の中から数名の方が壇上にあがり、ご生前の好子さんとの思い出話を聞かせて下さいました。また、お亡くなりになる少し前に録音されたというご本人の肉声が会場に届けられました。その中で「もし、私が病気に負けてしまってもそしたら天国から被災地の皆さんを応援します。犠牲者の皆さんをお慰めしたい・・・」という病床に付いてもなお大震災で傷ついた被災地の方々を思いやるその姿勢にあらためて心打たれる思いでした。好子さん亡き後、ご主人の小達さんやマネージャーの丸尾さんを中心に「田中好子・いつも一緒だよ基金」が設立されました。この基金は大切なご家族を大震災で無くされた方々に亡き方を偲ぶモニュメントを差し上げるという活動を主に行っているそうです。“スーちゃん”の心はこの基金の活動にとどまる事無く、宗信寺支援隊を含め多くの被災地支援に関わる人々に今後も引き継がれて行く事でしょう。
被災地へ 〜第23回〜
春のお彼岸も終わり新年度を間近に控えた3月29日、女川町に行ってきました。今回は清水仮設住宅と鷲神浜五区の皆さんに醤油1L・食塩1kg・サラダ油1Lの調味料を3点セットにしてお届けさせて頂きました。毎回支援物資をお届けするときには事前に現地で必要なものをお聞きしてから物資を調達しています。この時期、関東では花粉症やインフルエンザの心配がある時期であった事から使い捨てマスクなどはいかがかと思ったのですが、現地の方々からは調味料などの生活必需品がありがたいとのご希望が寄せられ、結果上記の3点を160セット用意してお届けする事になりました。宗信寺の支援活動にはこれまで多くの方々が様々な形で応援をして下さいました。そのおかげでほぼ毎月実施してきた支援活動は大震災からまる2年が過ぎた今月で23回目を数えるまでになりました。中には毎月かかさず義援金受付口座にお振り込み下さる支援者の方々もいらっしゃいます。“アベノミクス”効果がまだ実感できない世相の中で、本当に支援者の皆様の心が伝わりその感謝の気持ちをお伝えできる適当な言葉が見つかりません。だからこそせめて私が出来る事としてはお寄せ頂いた義援金を1円たりとも無駄にしない様、つまりは1円まで現地の方に喜んで頂ける様に勤める事が肝心であると心得ています。宗信寺の支援活動は被災直後の炊き出しの頃より避難所の皆さんに食べたい食事のメニューをお聞きして献立を考え実施するなど、とにかく
“現地の声”第一に実行してきました。そうした支援の継続はきっと支援者の皆さんの被災地を思うその心が形を変えて届いているものと確信しています。
今回女川町で大きく復興が進んだ事がありました。それは鉄道の復旧です。震災以後、石巻市から女川町まで開通していた石巻線は津波被害や地盤沈下の影響で、不通の状態が続いていました。しかし3月16日から約2年ぶりに渡波駅と浦宿駅間が沿岸部のかさ上げ工事の終了に伴い復旧し、これで一応女川町内から石巻市まで鉄道による移動が再開した訳です。ただし、浦宿駅から終点女川駅までのおよそ2.5kmの区間は未だ不通のままで再開は2014年度末を目指しているとの事でした。
ところで今回の女川訪問は支援物資をお届けすることのほかにもう一つ大切な目的がありました。
それは女川町の主要道路際に倒れたままになっている宝塔の件でした。ちなみに“宝塔”とは
「南無妙法蓮華経」のお題目が刻まれた石塔のことです。初めて私がその宝塔を目にしたのは一昨年の大震災直後、山の様に堆く積み重なった瓦礫の山を避けながらやっとの思いで女川町に到着した時でした。台座をを含めると軽く4メートルは超えるであろうその大きな宝塔はあの大津波とその波に飲み込まれた膨大な瓦礫に押し倒されて道路の脇にほかの瓦礫に埋もれてその体を無惨にさらしていました。ただ不思議とその宝塔に刻まれたお題目はその近くを通る者には最も視野に飛び込んでくる角度で横たわっていたのです。仮に宝塔の向きが裏返しになっていたら、少なくとも最初の時点で私がその存在に気がつく事は無かったでしょう。もしかしたら現時点でも気づく事が出来なかったかも知れません。私たちの様に「南無妙法蓮華経」のお題目を唱える者にとりましてはお題目が刻まれた宝塔はまさに魂であり、日蓮大聖人そのものです。ですから毎月女川を訪れ横たわった宝塔の脇を通る度に合掌して心の中でお題目を唱えていました。ただ、今は先ずは被災者の皆さんへの支援が先決という一念でおりました。その後、時間の経過とともに辺りの瓦礫は全て取り除かれ、近くにはコンテナ商店街も出来、またすぐ隣にはお米の精米機も設置されて新たな人の流れができ、結果多くの人が日々その宝塔の脇を行き来する様になりました。ただ肝心の宝塔はその場に大きな姿を横たえたまま被災当日から1年が過ぎ、そして2年が過ぎても人の手が差し伸べられる事は無かったのです。被災者の皆さんの仮設住宅などでの生活が落ち着き、今、女川では大津波で大きな被害を受けた地域全体のかさ上げ工事がいよいよ着手されました。これに伴い新たな道の造成や区画整理の計画も打ち出されました。このままだとこの宝塔は行き場を失う事になります。早ければ今年の夏頃には瓦礫として撤去される心配が生じています。
こうした現実に直面し、私は先ずはこの宝塔の由来を把握するべく、女川での活動でいつも大変お世話になっている元保育所所長で町内に様々な人脈をお持ちの遠藤先生にこの件を相談する事にしました。するとさすが遠藤先生です!宝塔のすぐ近くに戦前から戦後にかけて“法華ばあさん”という愛称で近所の皆さんから慕われた方が存在していた事が明らかになりました。そしてその夜にはお孫さんにあたる姉妹の方々が石巻市内の仮設住宅と大阪に居住していらっしゃる事が判明したのです。そのお話を手掛かりにひとまず石巻の仮設住宅で避難生活をされている齋藤さんというお孫さんご夫婦とお会いする事が出来ました。宝塔の前で待ち合わせしてお目にかかった齋藤さんのお話をお聞きするとご自身も幼い頃からお祖母様と一緒に毎朝お水と浄財をお供えして“宝塔様”と呼んで大切にされていたそうです。その後、あの震災によって今の無惨な姿になってしまってからご自身も心を痛め、なんとか出来ないものかと最寄りのお寺に相談するも体良く断られ、町役場に相談しても町としては文化財でも無ければ保護や助成は出来ないとの事で、復興計画に基づいたかさ上げ工事開始が迫る中、打つ手だて無く困窮されていたそうです。そんな折、宗信寺からの今回の連絡でまさに九死に一生を得た思いだという事でした。この宝塔を復旧させるためには様々な障害があるのも事実です。ただこの宝塔ゆかりの方々、つまりは所有者の方とこうしてお会いできた以上、この方々の希望を第一にかなえる方向でお手伝いをさせて頂く事が私の使命であると自覚しました。そこで先ずはその旨を直接お伝えさせて頂きました。そして移設先として女川町内をはじめ宗信寺境内まで可能性のある場所をいろいろな条件と併せてお話しさせて頂きました。その結果、当日の夜齋藤さんから以下のメールが送られてきました。
ご住職様
本日は私どものために
お寒い中ありがとうございました
夜に お発ちになると伺いましたが
今頃はどの辺りまで行かれましたでしょうか…。
お疲れでしょうに
本当に申し訳なく
ありがたく
感謝の思いが時間と共に
胸にあふれてあふれて、
言葉になりません
ご住職様にお会い出来たという事が
祖母や父からの切望に違いないと
姉が泣き泣き申しております
感謝しかございません
この二年の間
私の努力や動きが足りなかったために
何も始まらず先行きも見えなかったのでした。
祖母にも父にも
顔向けが出来ないすまなさで
日々を過ごしてまいりました
震災の年の秋10月に
突如発症した喘息の発作の度に
自分がすべき役目を果たしていない責めを、心の痛みと共に感じております
祖母の残した仏堂を
父が私の自宅の庭に
建て直したのも
この震災の津波を案じての事なのか と
考えたりもした年月でした
残念ながら
お守り出来ませんでしたが…。
お会いした後
姉と長い時間話して
互いの願いが同じである事を確認しました
私達は
ご住職様の御心に甘えさせて頂き
宗信寺様のご境内に建立頂くのが
祖母の信心に報いる道なのだろうと
思い至りました
せめて慰霊の碑とか
供養塔と刻まれてるのなら
町で整備する公園なりに移す案もあるのかも知れませんが
日蓮宗のお経文である以上
平地の無い町の何処にも
建立の場は無いと思われます
山奥の奥に建てられたら
朽ち果てる道しか想像出来ません
どんなに祖母の信心が篤くても
町の中では
新興宗教的な視線で見られた苦い記憶も
私どもにはございました
ですから
自分達の手で継承出来ないのならば
公ではなく宗派のお寺様で、との願いが消えません
ただ
ご住職様にご迷惑をお掛けする事にならないかと懸念しております。
経費の面でも宗派間の感情としての軋轢などでも。
メールで失礼の段
どうかお許しくださいませ
今の思いと感謝をお伝え申し上げなければと
ただただ心から湧き上がる気持ちだけで
綴ってしまいました
文章として成り立つものではございません
重ねてお詫び致します
姉と共に
宗信寺様とご住職様をお訪ねする旅を
約束しました
是非もう一度お会い出来たらと
願っております
どうかどうか
ご無事にお着きくださいますように。
ありがとうございました
齋藤拝
宗信寺では今、この宝塔を境内に移設し女川と宗信寺の絆の象徴として、そして“どんな大難に見舞われようとも法華経の信者の願い叶わぬことあるべからず!”と唱えられた日蓮大聖人の御言葉を実証するためにもここに
「女川絆宝塔再建事業」を立ち上げ、実現に向けて準備を進めて参ります。現在、移設作業に伴う業者の選定、機材の手配等の検討に入りました。現在の所、概算でも宝塔の総重量が5〜6tになる見込みでそれなりの大掛かりな作業が予想されますが、大津波にも傷一つ付く事無く残った奇跡の宝塔がより多くの信心を持った方々の信仰の対象となり、震災で亡くなられた多くの方々の鎮魂、復興成就の大願、そして女川町と宗信寺の絆の象徴として末代まで継承され守られて行く事が実現できます様、準備を進めて参ります。この事業成就に向けて特別支援金の勧募を行います。ご趣旨にご賛同頂けました皆様のご協力をどうぞよろしくお願いいたします。
☆「女川絆宝塔再建事業」支援金受付口座☆
○ゆうちょ銀行
記号10210 番号51350321
宗教法人 宗信寺
○三菱東京UFJ銀行
店番133表参道支店 普通0898031
宗教法人 宗信寺 代表役員 岡 貞潤(おか ていじゅん)
春季彼岸会
3月17日から23日の1週間、今年も春のお彼岸を迎えました。昔から
“暑さ寒さも彼岸まで”とはよくいったもので、長く厳しく感じられた今年の冬の寒さもお彼岸を迎える頃には不思議と暖かな春の日差しを感じる様になりました。お彼岸などの時期にご先祖様のお墓参りにいかれる方も多いかと思いますが、宗信寺にもいつにも増して沢山の方々がお参りに御越しになられます。
ご遠方であったり、ご高齢であったりと様々な理由で日頃頻繁にお参り出来ない皆さんにもお会いできるのがこのお彼岸の楽しみの一つでもあります。ご高齢のおばあちゃんがお孫さんの運転するお車でひ孫さんとご一緒にお墓参りするお姿などは何とも微笑ましいものです。きっとそんなお姿をご覧になられたご先祖様もさぞやお喜びご安心して下さる事でしょう。
全国行脚
今年も2月26日から3月15日にかけて宗信寺のお檀家様が運営している全国の専門学校に伺ってきました。学校は福岡・大阪・京都・名古屋・東京・仙台・札幌と全国主要都市に約25校ありますので、北は北海道から南は九州までという列島縦断の全国行脚となりました。この目的は学校の安全と繁栄、集われる学生さんや教職員の方々の健康・心願成就等が主なものとなります。各校では先ず教職員の皆さんに対してご祈祷が行われ、その後九星学や旧暦を用いた今年の動向を主とした法話、その後校舎全ての火の元、流し(水場)が清められます。限られた時間内ではありましたが今年は法話の後に質問を頂く機会を設けました。学校によっては活発な質疑も行われ、時の運気を味方に付けた今年の過ごし方を参加された教職員の皆さんがより深く納得して頂けたのではないかと思います。
私は“命の季節”という言い方をしていますが、今の自分を取り巻く環境を知る事はとても大事な事です。なぜならその環境を知る事が出来れば、その環境にあった営みが実現できるからです。例えば海水浴やスキーが趣味の人がいたとしましょう。どちらも結構な趣味ですがもし真冬に海水浴にいって海に入れば風邪を引いてしまいます。夏山にスキーを担いで行ったところでシュプールを描く事は出来ないのです。お話を聞いて下さった皆さん、どうか新しい年度を命の季節を間違えて大きな失敗をしない様、ご活躍下さい。
東日本大震災物故者慰霊・復興祈願法要
被災地へ 〜第22回〜
『新1年生応援プロジェクト』の実施
2月22日、かねてよりご案内させて頂いておりました「新1年生応援プロジェクト」が女川町において行われました。この支援プロジェクトは昨年に続き2度目の実施となりました。大震災以後も女川町には多くの住民の方々が仮設住宅等で生活をされていますが、その中には多くのお子さんや学生さんもいらっしゃいます。そしてこの春から小学校に入学されるお子さんや中学高校に進学されるお子さんたちも含まれています。ただ、そうしたお子さんたちのご家庭が入学に対して震災前と同様の生活を必ずしも取り戻すことができているという訳ではありません。そこでお子さんたちの入学・進学に際し、応援をさせて頂こうというのがこのプロジェクトの大きな目的です。第2回目となる今回の「新1年生応援プロジェクト」では女川町在住の新小学1年生全員の41名、清水仮設住宅・鷲神浜五区、そして災害ラジオ局FM女川を通じて申し込みを頂いた新中学生12名、新高校生7名の計60名のお子さんたちに事前にご連絡を頂いた入学必需品を用意してお届けすることができました。今回もお申し込みを頂いた品物は多岐に渡りました。それらの品々は下記の通りです。
◎
小学生
運動靴 ・・・・ 28足
筆 箱 ・・・・ 24個
鉛 筆 ・・・・ 82ダース
色鉛筆 ・・・・ 24色×41セット
プール水着・・・ 23着
プールバッグ・・ 23個
ノート ・・・・ 国語・算数・自由帳 各41冊 計123冊
消しゴム・・・・ 82個
ハンカチ・・・・ 82枚
鉛筆削り・・・・ 手動×2個 電動×2個
水 筒 ・・・・ 冷・温両用タイプ×2個
リュック・・・・ 2個
シューズケース・ 1個
漢字辞典・・・・ 1冊
長 靴 ・・・・ 2足
ピアニカ・・・・ 1台
水泳用ゴーグル・ 3個
青赤鉛筆・・・・ 2ダース
ハサミ・のり・セロテープ・ホチキスセット×1
普段着 ・・・・ 上下各3着
◎
中学生
運動靴 ・・・・ 3足
国語辞典・・・・ 4冊
英語辞書・・・・ 5冊
Yシャツ・・・・ 長袖・半袖 各3着 計6着
丸襟ブラウス・・ 長袖・半袖 各3着 計6着
シャープペン・・ 3本(芯ケース×3)
電子辞書・・・・ 1台
◎
高校生
電子辞書・・・・ 1台
運動靴 ・・・・ 1足
革 靴 ・・・・ 3足
国語辞典・・・・ 1冊
英語辞書・・・・ 1冊
通学用自転車・・ 1台
通学用バッグ・・ 1個
ソックス・・・・ 白×10 黒×10 計20足
丸襟ブラウス・・ 長袖・半袖 各3着 計6着
こうした品々は今回も多くの皆様からの尊い義援金や物品のご提供により揃えられた後、お子さんごと個別に袋分けなどいたしまして宗信寺支援隊スタッフ4人の手によって現地に届けられました。ご支援、ご協力頂きましたすべての皆様に心より厚く御礼申し上げます。支援翌月の3月には女川町立第一保育所と第四保育所のお子さんや保護者の皆さんからお手紙が届きましたので、ここでその全文をご紹介させて頂きます。
そうしんじさん
いっぱいプレゼントしてくれてありがとう。
しょうがっこうにいくのがたのしみです。
女児
いつもご支援をありがとうございます。子供たちのために紙袋にたくさんのものが入っていて感謝感謝です。娘には、感謝の心とものを大切にする心を教えていきたいと思います。
母より
しょうがっこうにいったらべんきょうがんばります。
ありがとうございました。
女児
沢山のご支援ありがとうございました!
1年生になってもニコニコ元気でいてくれる様、温かく見守り女川町で共に頑張っていこうと思います!本当にありがとうございました!
母
そうしんじさんへ
たくさんのものをありがとうございました。
しょうがっこうでもがんばります。
女児
このたびは小学校入学に必要な品々をご支援頂きありがとうございました。この時期にこのようなご支援本当にありがたいです。大切に使わせたいと思います。
母
ありがとう
女児
一年間、いろいろなご支援ありがとうございました。
母
えんぴつけずりといろいろありがとうございます。
かっこいいいちねんせいになります。
かいすいぱんついただいてうれしかったです。
なつになったらぷーるにいきます。
男児
宗信寺支援隊様
東日本大震災から今月で二年になります。早い様な遅い様な気持ちです。その間、皆々様の暖かいたくさんの支援物資等を頂きまして言葉では言い尽くせないくらい感謝申し上げます。震災時保育所で泣いていた子供達もこの四月一年生に入学です。皆々様からいただいた物を大切にまたその時思い出して大切につかわせて頂きます。本当にありがとうございました。
母
しゅんそくありがとうございます
だいじにつかいます
女児
今回は支援して頂きありがとうございました。子供もとても喜んでおりました。大切に使わせて頂きます。
母
いっぱいありがとうございました。
いちねんせいでがんばります。
男児
子供と一緒に小学校入学に向け準備をしています。たくさんの支援物資を頂きありがとうございました。
母
いろいろぶっしをありがとうございます。
たいせつにします。
男児
ありがとうございました。
母
そうしんじさんへ
いっぱいありがとうございます。
がんばってがっこうにいきます。
男児
いつもご支援いただきありがとうございます。とても嬉しく思っています。2年たった今でも支援して頂いて本当に心温まる思いで一杯です。本当に感謝しております。ありがとうございました。
母より
そうしんじさんへ
ありがとうございます。しょうがっこうにいっても
いっしょうけんめいがんばります。
そうしんじさんもおげんきでがんばってください。
またあそびのおながわにきてくださいね!
今回は色々と頂きありがとうございます。今年一年生になり、これから先の小学校生活を楽しみにしたいと思います。宗信寺さんもお体に気をつけてがんばってください。ありがとうございました。
母
ありがとうございます
男児
かっこいいくつや、たくさんの文房具をありがとうございます。大切に使わせて頂きます。
父
ありがとう
女児
みずぎとノートとかわいいハンカチありがとうございます。
しょうがっこうにいったらつかうね。
あのみずぎでおよぐのたのしみです。
女児
物資を頂きありがとうございます。大切に使わせていただきます。
母
プレゼントありがとうございました。
女児
またあそびにきてね。
女児
またきてね。
男児
ありがとう。
またあそびにきてね。
男児
ほんとうにありがとう。
男児
先日は沢山の学校用品を頂きましてありがとうございます。帰ってから1つ1つ袋から出して
「やったー!瞬足だあー!」「えんぴつだあー!」「やったーやったー!」と大喜びでした。感謝の気持ちを忘れず、勉強、運動、一生懸命がんばってほしいと思います。本当にありがとうございました。
母
いろいろなものをたくさんもらったので
ありがとうございました。
とてもうれしかったです。
女児
1年間いろいろな支援を頂き本当にありがとうございました。子供達はものすごく喜んで今でも大切に使っています。今まで本当にありがとうございました。
母より
かっこいいくつやふでいれなどいっぱいいっぱいありがとうございました
だいじにつかいます
男児
学校で必要な物をたくさん支援して頂き、本当にありがたく思います。
頂いた物を見て息子は目を輝かせて喜んでおりました。
親子共々、感謝の気持ちを忘れず大切に使わせて頂きます。
ありがとうございました。
母
みなさんにおせわになってありがとう
男児
たくさんの支援に本当に感謝しています。
一歩ずつ前に進んで皆さんにお礼していければと思います。
本当にありがとうございました。
母
そうしんじさんへ
いろいろなものをくれてありがとうございました。
ぼくはぷーまのくつがうれしかったです。
男児
宗信寺さんへ
何度にも渡り、いろいろな支援を頂きありがとうございます。
息子もとても喜んでおり、4月から1年生になる事をすごく楽しみにしています。
本当にありがとうございました。
母
ありがとうございました。
女児
御支援、ありがとうございました。
母
ありがとう
かわいい1ねんせいになります
女児
あたたかいご支援、ありがとうございます。
娘も大変喜んでおります。大切に使わせて頂きます。
母
そうしんじさん ありがとう
女児
そうしんじさんへ
いろいろくださってありがとうございます。
またおながわにきてください。
ぼくのおうちおとうとといもうとがいます。
男児
宗信寺様
この度はご支援頂きありがとうございました。
子供も大変よろこんでいました。
女川の明るい未来のために御協力頂きありがとうございました。
父より
かわいいピンクのえんぴつけずり
どうもありがとうございました。
一年生になってもがんばります。
女児
こんにちは。
先日は電動鉛筆削りを頂きありがとうございました。
うちの子は大変に喜び「早く1年生になっていっぱい使いたいなあ?」と毎日使う日を楽しみにしています。子供の喜ぶ姿が1番ですね!
震災から2年が経ちますが復興に対する皆さんの温かい気持ちは大変嬉しく私たちが頑張って行こう!という励みにもなります。本当にありがとうございました。
母
どうもありがとう
男児
今回は支援頂きありがとうござあいます。震災から2年が経ち、生活は落ち着いてきましたが、町はまだまだ復興していません。子供達が大きくなる頃には復興しているように私たちも頑張らなくてはならないなあと思っています。頂いたくつ、文房具、大切に使わせたいと思います。本当にありがとうございました。
母
そうしんじさんへ
24しょくのいろえんぴつありがとうございました。
いっぱいおえかきします。
女児
宗信寺様
入学にあたっていろいろな学校用品を頂き、本当に感謝しています。
幸いな事に我が家は高台にあって被害を免れておりましたがやはり環境の変化はあり子供も親も最初は大変でした。2年経って色々な事もあり、今後もどうなるか不安ではありますが、応援してくださる皆様に支えられながら1日1日精一杯生きて参りたいと思います。本当にありがとうございました。
母
この度は、たくさんの支援品ありがとうございました。子供もすごく喜んでいます。これから大切に使わせていただきます。本当にありがとうございました。
母より
宗信寺さん
昨年に引き続き、入学する子供へのプレゼントありがとうございました。
運動靴は子供の好きな「瞬足」でとてもよろこんでいました。本当にありがとうございます。
震災後、多くの方々に物資やコミュニケーション等でたくさん支援していただいて感謝、感謝です。
この子達が大人になった時に皆さんからいただいたきもちに答える事が出来る様ずっと伝えていきたいと思っています。この度は本当にありがとうございました。
母
たくさんのプレゼントありがとうございました。
大切に使わせて頂きます。
父
宗信寺様
ご支援ありうがとうございました。
大切に使わせていただきます。
父
そうしんじさま
たくさんもらえてとてもうれしかったです。
とくにリュックがとてもきにいりました。
ほんとうにありがとうございました。
男児
この度は息子の入学に際し、沢山のお品を頂き本当にありがとうございました。頂いた日、帰宅するなり全部開けてとても大喜びして靴をはいてみたり、水筒をかけてみたりと一気に入学への喜びが高まったようです。図々しくリュックと水筒を頼みましたが子供が気に入るものをちゃんと選んで下さり本当にありがたかったです。一律に支援されるのではなく個々の希望を聞いて用意して下さる支援は宗信寺様が初めてでした。そのお心遣い本当に感謝いたします。
まだまだ厳しい状況でいままでになく不安な入学でしたが、おかげ様で安心して入学できそうです。本当にありがとうございました。
母
宗信寺様へ
この度は沢山の新入学用品をお送りくださいまして、ありがとうございました。
大事に使わせて頂きます。
このようなお心づかいをいただき大変ありがたく思います。
まだ朝夕は意外なほど冷え込む日がありますのでお身体にはお気をつけ下さい。
本当にありがとうございました。
母
ピンクのくつどうもありがとうございます。いつもほいくじょにはいていきます。ノートとえんぴつはがっこうでつかいます。べんきょういっぱいがんばります。
女児
宗信寺支援隊様
今回、沢山のプレゼントをいただき本当にありがとうございました。震災時は年少のクラスだった息子も4月からは小学校へ入学する事になり年月がたつのは早いと感じるようになりました。子供の成長はどんどん進みますが、女川だけに限らず被災地の復興はまだ長い時間が必要です。
あれから2年が過ぎ、その間には親しい方との突然のお別れ、住み慣れた土地からのお別れ、大人も子供も今までに無い経験をし、感情をどこにぶつければ良いのか分からず大変な時期もありました。そんな時に国内問わず、様々な形での支援をしてくださり、自分たちがどれだけ沢山の方に支えられているのか気づかされ、うれしさと安心したものです。これから成長していく中で子供達には感謝する心を持ち「被災者」という言葉に甘えず1日でも早く自立する気持ちをしっかり持ち生活して欲しいです。それには大人ができる事から頑張らないといけませんね。プレゼントで頂いたピカピカの靴が1番お気に入りの様でその靴をはき、学校に通うのを楽しみにしている息子です。
宗信寺の皆様も健康に気をつけて頑張って下さい。
母より
ありがとう
男児
いつもご支援ありがとうございます。人の暖かさが心に沁みます。
父
保育所の先生からもお便りを頂きました。
宗信寺のみなさま
春の日差しが心地良い季節になりましたが、いかがお過ごしでしょうか。
先日は遠路はるばる保育所まで足を運んで頂き本当にありがとうございました。直接お会いでき、子供達一人ひとりが皆様のあたたかさを感じ、支援への感謝の思いが高まりました。
さっそく保育所に靴を履いて登所し、大喜びで見せてくれたり、小学校で使うことを楽しみにしている子もいます。
皆様のあたたかい気持ちを頂き、子供達もきっとその思いを受け継ぎ、自分達もいつか困っている人に恩返しをしてくれることと思います。
天候の変わりやすい花どきの季節です。風邪など召されませんようお体を大切になさって下さい。
支援当日は保育所の開所されている平日でしたので第一・第四保育所それぞれにおいてお子さん達にお会いし、ほんのひとときではありましたが子供達とふれあう時間を持つ事ができました。そして今年は入学を控えたお子さん達が私たち支援隊を元気な歌で歓迎してくれたのです。その歌声によって励ましにいったはずの私たちが逆に励まされ、更には大きな勇気を頂いた事はいうまでもありません。
今回頂いたお礼のお手紙を拝見してお子さん達の喜ぶ様子やその姿を見て微笑んでいいらっしゃる保護者の方々の様子が目に浮かびました。ただそんな中、保育所に通うまだ小さな子供達が“ぶっし”という言葉を日常的に使う現実があるという事、つまりは被災地には私たちが想像できない厳しい現実が今もまだあるという事を見落としてはいけません。保育所のお子さん達にお品を渡した後、保育所の職員室で先生がこんな話を聞かせて下さいました。今年入学するお子さん達は震災当時年少のクラスだったわけです。ですから中には先生方のいう事をなかなか聞いてくれず、何かと手を煩わせるお子さんも少なくなかったそうです。ところがそんなお子さん達があの震災を機にみんな先生や親のいう事をよく聞く“いい子”になったというのです。そしてそれは震災直後だけではなく今も続いているそうです。その事をある時、先生がお子さんに聞いてみるとそのお子さんからは思いもしない答えが返ってきたそうです。そのお子さんがいうには
「だって大人のひとたちはおおきな地震や津波から子供を守ってくれたから・・・。だから大人の人たちのいうことは聞かないといけないの!」
そんな言葉がまだ幼い子供の口から先生に伝えられたのです。あの大震災をまだ幼くして体験した子供達。その幼さ故に震災の現実が与えたあまりにも大きな恐怖感、問答無用で奪われた大切な人の命や様々な物、そして震災後の長く辛い被災生活・・・。幼い子供の小さな心には到底受け止めきれるはずも無い数々の厳しい現実が否応無しに突きつけられる日常の中でも子供達の心は決して折れる事無くしっかりと育っていたのです。もはやそれは生きていくための本能のレベルの話かも知れません。ただ現実として子供達の心が成長し、大人との係わり合いを学び実践し、難事に立ち向かうための連帯感が生まれたのです。そういえば子供の頃、私は“早く大人になりたい!”と願う1人でした。皆さんの中にも幼い頃、同様の思いを持った事のある方は少なくないのではないでしょうか。ではどうして私が幼い頃そうした思いを抱いたのか・・・?それはひとえに大人へのあこがれがあったからだと思います。大人は何でも出来て、力もあっていろんな事を教えてくれて・・・。つまりは“かっこいい”存在として大人は子供の頃の私の目に映っていたのだと思います。大震災で被災した地域のお子さん達ももしかすると同様の思いがあるのかも知れません。だからこそ周囲の大人のいう事をきちんときくのではないでしょうか。そんな私ももうすっかり大人の仲間入りをして久しい訳ですが、ふと子供達から見て“かっこいい大人”の存在であるかどうか考えてみました。無論、ここでいう“かっこいい”とは見た目のことではなく、つまり子供から信頼を寄せてもらえる様な大人であるかどうかということです。もうずいぶん前になりますが、愚息が生まれて間もない頃、ある子育ての先輩の方からこんな言葉を頂いた事を思い出しました。“子供は親の思う通りには育たない、親のしている通りに子は育つ”というのです。当時はピンとこなかった私もその後、現在に至る子育ての中で時折、この言葉を思い出しては“なるほどな・・・”と思う事しばしです。年月と共に当然子供は成長していきます。ですから親子であっても大人と子供としての様々な“差”は子供の成長が進むに連れて徐々に狭まり、やがて子供は親に追いつきそして場合によっては親を超えていくのです。そしてその瞬間こそが子供が名実共に“大人”になる時でもあるのではないでしょうか。ならば超えるべきハードルは高い方がより子供の成長も促す事が出来るという事になります。ところがある一定の年齢に至ると子供の方が“大人になんかなりたくない”と思う様になってしまう場合も少なくありません。ただしその理由は子供の側では無く、大人にあるのではないでしょうか。子供はその成長に従い、だんだんと大人の社会に入り、大人の現実を良くも悪くも見聞きする訳です。その時に親や家族、また身近な大人がかっこわるいと、幼い頃“早く大人になりたいと”いう純粋な願いを抱いていた子供達も気がつけば“大人になんかなりたくない”という正反対の感情を持つ様になってしまうのです。東日本大震災で大きな被害を被った地域の真の復興の担い手は今はまだ幼い子供達です。そしてその真の復興を見届けるのもまたこの子達の世代です。その世代が復興の主軸として活躍できる様になるまでは多くの大人の存在が必要不可欠です。子供からかっこいいと慕われる様な大人の存在が必要なのです。
皆さん、子供の頃抱いていた“あこがれの大人”になる事が出来ていますか?
「第2回・新1年生応援プロジェクト」御支援のお願い
昨年に続き今年も宮城県女川町在住のお子さん達の為に御入学のお手伝いをさせて頂く事になりました。具体的にはこの春小学校に御入学予定のお子さん41名、清水仮設住宅や鷲神浜五区など女川町在住で今春中学校・高校にそれぞれ進学されるお子さんに対し、事前にお申し込み頂いた品物を準備しお贈りするという内容です。支援方法は保護者の方から寄せられた品物をご用意頂くか、義援金で応援頂くかのいずれかをお選びいただくことが出来ます。義援金の受付は下記の通りです。
現金書留
〒259-1201 神奈川県平塚市南金目2336
宗信寺 TEL: 0463-59-7235
ゆうちょ銀行
記号10210 番号51350321
宗教法人 宗信寺
三菱東京UFJ銀行
店番133 表参道支店 普通0898031
宗教法人 宗信寺 代表役員 岡 貞潤(おか ていじゅん)
品物をご用意頂く場合には宗信寺までお問い合わせください。またお送り頂く場合は下記の住所までお願い致します。
〒151-0063
東京都渋谷区富ヶ谷1-21-6
宗信寺東京布教所 宗信寺支援隊事務局
Tel: 03-5790-2785 Fax: 03-5790-2786
E-mail: myoho@soushinji.com
HP: http://www.soushinji.com
被災地では未だ充分な収入を得られない保護者の方々も沢山いらっしゃいます。本当の意味で被災地域の真の復旧・復興の担い手であるお子さんたちの成長と教育に寄り添い見守っていく事も大切な支援と考えています。1人でも多くの方々の暖かな御支援を心よりお願い申し上げます。 合掌
宗信寺 住職 宗信寺支援隊 主宰 岡 貞潤
立春
2月4日、今年も立春を迎えました。旧暦ではまさに新年の始まりと位置付けられた大切な節目でもあります。ところで立春の前日は御存じの通り節分ですね。節分とはその字のごとく“季節を分ける”、つまり季節の変わり目を意味します。ですから、厳密に言うと立春・立夏・立秋・立冬それぞれの前日が全て“節分”なのです。しかし、古来より旧暦では立春がその年の始めとして位置付けられてきましたので立春前日の節分はまさに大晦日、季節の節目であると同時に年の節目でもあることから他の節分以上に重要視されてきたわけです。さて、節分といえば“豆まき”ですが、この風習にはどんな意味があるのでしょうか。平安時代より宮中では陰陽師らによって1年の節目の節分には「追儺(ついな)」と呼ばれる旧年の災いや厄を祓い清めて新たなる年の国家安泰・無病息災を祈る儀式が行われていました。こうしたいわゆる“魔を滅する”行為が“魔滅(まめ)”→
“豆”となって豆を屋外に投げる事によって鬼や災いを祓うという風習になったという見方が一般的です。本年平成25年は旧暦で言いますと九星学では
五黄土星、十干は
癸(みずのと)、そして十二支は
巳の組み合わせの年となります。
五黄土星が意味するのは物が土に同化される、生れしものはいつしか土に帰るという事、万物を無に帰せる力です。そして九星学でいう中央の位置である中宮は五黄の定位でもあります。
癸の象位は水、水といっても激しい水ではなく例えるなら朝露や冬枯れの渇いた大地に浸み入る水路のイメージです。そして十干の締めくくりの年でもあることから終わりと始まり、終着と出発を意味します。
巳の象位は火、季節で例えるなら初夏から盛夏、そこから植物が繁茂を極め盛大になる様子、山の頂、登る、進む事が生じるといった事を暗示します。また十二支の6番目にあることから折り返し、節目、終わり、始まり等の意味も持ち合わせます。巳の年はその象位が火であることから平和的でない事も意味します。国際紛争や暴動、革命やテロ行為などがその例で歴史を振り返ってみるとそれは明らかです。例えば1941年には旧日本軍が真珠湾を奇襲攻撃しそこから太平洋戦争が勃発しました。1989年には中国で天安門事件が起き、2001年にはアルカイダによる9.11アメリカ同時多発テロが引き起こされました。まして癸の象位は水なので巳の象位の火とは相性が良くありません。しかし、前述の通り水は水でも朝露に象徴される陰の水なのでこの点から水火の衝突が強調される事はないと判断できます。その点は過去を見ても明らかです。前回癸と巳の組み合わせであったのは十干と十二支ですから60年前となるわけですが、その1953年はどんな出来事があったのでしょうか。世界史的視点ですと先ずは朝鮮戦争が休戦状態になった事が挙げられます。その後大きな武力衝突が無くなった代わりに米ソが冷戦状態となり、ソ連は水素爆弾の実験を断行し水爆の所有を宣言し、水面下では緊張と対立がありました。スターリンが死去し、イギリスではエリザベス女王2世が王位に即位しました。日本ではこの年、吉田首相による内閣の「バカヤロウ解散」があり、テレビ放送が開始され、大晦日には初めて紅白歌合戦が放映されました。本年、日本では与党に返り咲いた自民党の阿部政権が本格始動し、アメリカではオバマ大統領が2期目に入り、中国では習近平が国家主席となり、韓国では朴槿恵が初の女性大統領となりました。過去の事例を参考にしますと今、日本が抱える中国との尖閣諸島問題、そして韓国との竹島問題、ロシアとの北方領土問題などいずれも武力衝突の様な大きな問題にはなりづらい半面、根本的な解決も難しく問題の根源はくすぶり続けることが予想されます。また戦後60年体制が様々な点で見直され新たな価値観やルールが唱えられ実行される新たな時代の第一歩となる事も期待できます。経済においては実質的な日本経済の回復が期待できる年と見る事が出来ます。そしてその傾向は2014年続いて行くのです。不動産、ホテル、保険、ハイテク、自動車、機械、服飾、環境関連の業界は活動的です。それに対してエネルギー、金融、エンターテイメント関連はもうしばらくの辛抱が必要です。自然に関しては火災や台風、ハリケーン、トルネード等の災害が危惧されます。また、私達の健康面では心臓、血液循環器系、脳、目、伝染病や環境悪化による疾病が心配されるところです。日常生活において心掛けることとして大切なのはじっとしてばかりいてはいけないという事でしょう。運気の季節は夏を迎えているのです。立ち止まってばかり、うつむいてばかりではいけません。そんな状態だと自分の周囲の季節の移り変わりすら見逃してしまう事にもなりかねません。自然の運気や季節をしっかりと理解してその都度、適切な行動をとること、そして何よりそうした事に常に関心を持って過ごすことで、チャンスを逃してしまったり、波に乗り遅れる事が無くなり、つまりは失敗やロスを減らすことが出来るのです。そして失敗やロスを減らす事によって私たちはより本来取り組むことへ自らの力を注ぐ事が叶うのです。人にはどんな人であっても必ず力の限界があります。だからこそ後ろ向きな事に費やさなくてはならない力を減らし、前向きな方向に活かせる様にする工夫と努力が不可欠なのです。さあ皆さん、今年1年を皆さんらしく存分にご活躍下さい。
被災地へ 〜第21回〜
1月28日今年初めての支援活動の為に女川町に行って来ました。午前4時を過ぎた頃、今回女川の皆さんにお届けする支援物資を積んだ車両は宗信寺東京布教所を出発しました。冬晴れの好天に恵まれましたが、その分冷え込みは厳しく午前8時頃、東北自動車道の安達太良サービスエリアに到着した頃には外気温はマイナス5.5℃に達していました。数日前にまとまった降雪があり、那須高原から先は雪景色でしたが、幸い道路上は除雪がしっかりとされており、車の走行の障害になる様な事はありませんでした。
女川町は太平洋に面している事もあり、宮城県の中では雪の少ない地域だそうです。ですから関東同様、春の降雪はあっても1月中にまとまった量の雪が降る事は珍しいそうです。実際私が女川にお邪魔するようになってからを振り返ってみましても今回の雪の量が一番多く感じました。今回の女川訪問の目的は3つありました。まず1つ目は仮設住宅の皆さんに日常品の物資をお届けすることでした。今回はお味噌とソース、そして貼るカイロを約160世帯にお届けしました。2つ目の目的は2月に実施予定の
「第2回・新1年生応援プロジェクト」に向けてその対象となるお子さん達に入学時に必要な物品お伝え頂くため、申し込み用紙をお届けすることでした。そして3つ目の目的は女川に在住の皆さんにアンケート調査を実施することでした。「第2回・新1年生応援プロジェクト」の対象となるのは女川町内在住でこの春小学校に御入学されるお子さん41名と、清水仮設住宅と鷲神浜五区在住で中学校・高校に進学予定のお子さん、そして災害FM局、FM女川のリスナーで申し込みのあったお子さんたちです。2月の中旬には皆さんからの申し込み用紙が宗信寺に返送される事になっています。またアンケートに関しましては女川町立第一・第四保育所の保育士の皆さん及び関係者の皆さん、清水仮設住宅の皆さん、そして鷲神浜五区の皆さんが御協力してくださる事になりました。アンケートの内容は日常に関するものです。アンケート調査の結果は当ホームページ上で後日報告させて頂きます。また、インターネットTV番組「アジアンTV」の番組内でも放送させて頂く予定です。そして今後のより被災地域に密着した支援活動に活かしていきたいと考えています。
女川町内の復旧・復興作業の現状をお伝えしたいと思います。先ずかつて膨大な量が山積みされていました瓦礫は劇的に減少しています。地元のみならず東京都をはじめとする他の自治体が瓦礫の受け入れを実施している事や陸路のみならず海路からも大型運搬船を使用して女川町内から他の地域へ瓦礫を運び出す作業が行われています。こうした目に見えた作業の進展はこの地で日々の生活を送られている女川町民の皆さんにも実感できる復旧として喜ばれているそうです。
また女川港から町の中心に至るまでの大々的にかさ上げされる地域では複数個所にピラミッドの様な形の盛土が出現していました。これらはおそらく将来盛土作業が終了した時にはここまでかさ上げされるという目印も兼ねている様ですが、高台から見渡す限り私の様な素人目にも膨大な量の土が持ち込まれる事は容易に想像出来ました。大津波に負けない安全な地域を作り出すための手段とはいえ、作業に要する手間と時間は相当なものだと思います。ただし、総意として必要と判断されたならば出来るだけ迅速な作業が求められるという事は言うまでもありません。
今回の訪問で早や21回目となったわけですが、ずっと気にしつつも今まで1度も行く事の出来なかった場所がありました。それは高台にある町立病院の更に裏手の山の上にある神社です。そして今回ようやくその社をお参りすることが出来ました。そこは熊野神社で震災前もそして今も小高い山の上から女川の町や港を見守っています。病院の裏手から更に200段に及ぶまっすぐ延びる石段の参道を登るとようやく社にたどりつくことが出来ました。大津波が襲来し女川の町を飲み込んだ時には私が登った石段の下部の辺りは病院の1階部分同様、波に飲み込まれました。しかしそれ以上潮位が上がる事はなくここに避難した多くの人命を救ったのです。そして何より日頃から時には強い海風にさらされることもあろうその社ですが大地震では何の被害をこうむる事もありませんでした。これからもきっと女川の町をそしてここで暮らすことを選んだ人々を見守ってくれる事でしょう。
一心庵初祈祷会
1月14日の成人の日、山梨県市川三郷町にある一心庵というお寺で初祈祷会が開かれました。市川大門町といった方が聞き覚えのある方が多いかも知れませんね。このお寺はその町の山間にある小さなお寺です。そしてこのお寺は私にとっては特別なお寺でもあります。現在は私の父が代務住職を務めていますが、父の前の住職は私の祖父です。祖父は福井藩主松平家の家臣として福井城下で長刀の道場を開く武家の長男として生まれましたが、明治維新による士農工商の身分制度の廃止に伴い上京し、その後40歳を過ぎた頃に人生の師と出会い、日蓮宗僧侶として出家をしました。その後十数年間、七面山の奥之院に山務する中で、一心庵を任されたそうです。既に50代半ばではありましたが、岡家の御先祖が長年武家として結果的に積み重ねてきた因縁消滅、罪障消滅の為、三代僧職に就くことを人生の師から告げられていた祖父はふたまわり以上年齢の離れた祖母と結婚し、三人目の子としてようやく私の父が子の世に生を受けた時には祖父は既に還暦を迎えていました。その後、父が二十歳の時、祖父は80歳で遷化されました。岡家として僧職に就いたのは祖父の代が一代目、父の代が二代目、そして兄と私の代が三代目となります。祖父にとっての人生の師のお導きが無ければ当然父はおろか、兄や私の存在もなかったわけです。そうした特別な背景もあり、一心庵は岡家にとりましてまさに“心のふるさと”の様な特別な場所なのです。一心庵のある大木地区では昔からその年に成人になる若者と、厄年を迎える人たちの為に通称“厄題目”と呼ばれる行事が行われて来ました。そして平成元年からは私が大荒行を成満した事もあり、初祈祷会として行われるようになりました。ですから今年が25回目になります。当日はまさに大雪の中での開催となりましたが、悪天候の中、地域の方々だけでなく静岡や東京からも有縁の方々がお参り下さいました。近年は一年を通じて一心庵に来るのはほとんどこの機会だけですが、一心庵の御寶前で読経する度に自らの命の使命をあらためて噛み締める、私にとってまさに初心に帰る事の出来る特別な場所なのです。
荒行堂初詣
1月12日、この日は千葉県市川市にある大本山法華経寺に全国からお集まりになられた約50名の宗信寺檀信徒の皆さんと共に初詣に行って参りました。毎年この機会にはその年に寒百日の大荒行を御修行中の荒行僧の方に御祈祷をして頂きます。今年、御祈祷の導師をお願いしたのは私にとっては大変忘れ得ぬ御縁をお持ちの方でした。今年三百日目の修行に入られているその御上人は加藤上人とおっしゃいまして、私が初めてここ法華経寺の大荒行に挑んだ昭和63年、加藤上人は二百日目の修行でご一緒し、また修行中は同じ読経班として修行中最初から最後まで訓育を頂いた大先輩です。あの年から早や25年、50歳を過ぎた加藤上人が敢えて3回目の修行に挑まれたのには大きな理由がありました。加藤上人は現在宮城県七ヶ浜町の立正結社の教導をお勤めになられています。しかし現時点においてその御堂は存在しません。そうです、立正結社の御堂はあの東日本大震災による大津波によって完全に流失してしまったのです。加藤上人は地震直後、何とか避難されその難を逃れましたが御堂などは残念ながら大津波を逃れる術はありませんでした。そんな中、日頃立正結社に通われていた四百数十人の檀信徒の皆さんは奇跡的に全員が命を落とす事はありませんでした。まさに奇跡的な事です。大きな悲しみの中に一途の望みとなる出来事でもありました。そして加藤上人は決意しました。立正結社の再建の為、自らの全てを注いでいくことを・・・。
御祈祷の後、面会所で私達の前にお出ましになられた加藤上人は言葉に尽くしきれぬほどの苦労と悲しみを体験された方とは思えないほどの穏やかな、しかし強い志を感じさせる、そんな雰囲気を醸し出していました。今年の荒行堂初詣は参加された皆さんにとっても、そして私自身にとっても特別な機会となりました。立正結社の再建、そして被災地域の復興をあらためて強く願いました。
初祈祷会
1月6日、宗信寺の年中行事でその年の最初に行われます新春初祈祷会が行われました。天候はすがすがしい程の晴天に恵まれましたが、その分冷え込みは厳しく、積雪がほとんどない程いつもは温暖なここ平塚でも午前7時の時点で気温はマイナス5℃と、この冬一番の冷え込みとなりました。その為、水道や散水栓が凍ってしまい、念のため前日に用意しておいたお湯をかけて水道設備の凍った部分を溶かしました。開式の午前9時前には既に近隣はもとより東京都内などからも沢山の檀信徒の皆さんがお集まりになられていました。定刻に始まった水行では大きな水行樽いっぱいに張られた水を水行おけで汲み上げてかぶるのですが、その数はおよそ60杯ほどになります。大荒行などの修行の中で1日に7回行われる水行ではここまでの杯数をかぶる事はありません。基本的には7杯とされています。ただ私は修行以外の初祈祷会などの水行の機会には必ずもう汲み上げる事が出来なくなるまでかぶるようにしています。これは自らの心身を清める為と私の水行する姿に手を合わせながら見守って下さる皆様の心身をも清めるという大切な目的があります。年頭に早朝から遠近各地より御参詣くださる皆さんが少しでも参詣なさった甲斐があります様、あらたまった気持ちを得て頂けます様心掛けることは住職にとりましては当たり前であり、また決して怠ってはならない心掛けだと思っています。
今年も100名を大きく上回る沢山の方々の御参詣を賜り、結果本堂に入ることが出来ず回廊や本堂正面で御祈祷をお受けになる方々も大勢いらっしゃいましたが誰ひとり文句をおっしゃる事もなく、それどころか皆さんお一人お一人の今年に向けてのしっかりとした前向きな志を肌身で感じながら初祈祷会を行う事が出来ました。お経の後は今年も護持会役員の皆さんが前日から一生懸命作って下さった
名物“豚汁”に皆さん舌づつみを打っていらっしゃいました。この日、皆さんが御本尊に対して誓われた今年の目標や抱負が無事成就致します事を心からお祈り申し上げます。
謹賀新年
平成25年癸巳正月元旦、今年も宗信寺の新年は元旦零時の初水行から始まりました。冬晴れの星空のもと、御檀家の皆さんや近隣の皆さんの御参拝を頂き、水行の後は本堂にて元旦初祈祷が行われました。本堂正面扉を解放した状態ですので御堂内の気温は外気と同様でとても寒かったのですが御参詣の皆さんは皆、神妙な面持ちで御祈祷を受けられました。そしてお経の後は今年も御檀家の久保寺さんが沢山のおいしいおそばをご用意してくださり、皆で頂きました。身体が冷え切っていただけに一層おいしく頂くことが出来ました。さて今年はどんな1年になるのでしょうか。争いや紛争のない、安心して前向きに物事に取り組もことの出来るそんな年になることを心から願いました。